【評価段階】
★★★★★──読まねばならない。
★★★★───読んだ方がよい。
★★★────参考程度に。
★★─────暇なら読めば?
★──────見なかった振りで通り過ぎよ。

【W】
Max Weber
マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』★★★★★(20100916)
Max Weber“Die Protesutantische Ethik und Der 》Geist《 des Kapitalismus,1920”

大塚久雄訳:岩波文庫1989
 営利の追求を敵視するピューリタニズムの経済倫理が実は近代資本主義の生誕に大きく貢献したのだという歴史の逆説を究明した画期的な論考。マックス・ヴェーバー(1864-1920)が生涯を賭けた広大な比較宗教社会学的研究の主発点を画す。旧版を全面改訳して一層読みやすく理解しやすくするとともに懇切な解説を付した。
 社会実体論の雄がデュルケームならば、社会唯名論の雄がウェーバーである。しかもこの両者はある意味実に対照的である。どちらも生涯を賭けてただ一つのことを言うのだが、その言い方が異なる。デュルケームはいかなる著作でいかなるテーマを扱おうとも、還っていくのは最終的には「社会的連帯」である。「Aである」と、言わば違う言い回しで、繰り返し言うのだが、一方ウェーバーは、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』における結論を、その対偶的な位置にある著作によって補強しようとする。それは言うならば否定の否定であり、「Aである」と言うために「BでもCでもDでもない」と述べるのである。即ち「ピューリタニズムの経済倫理が実は近代資本主義の生誕に大きく貢献したのだという」ことを、「ピューリタニズム以外の経済倫理が何故近代資本主義を生み出さなかったか」を考察することによって確実なものにしようとするわけだ。そして『儒教と道教』をはじめとする彼の以後の膨大な著作は全てこの『プロ倫』を支えるために書かれたと言っても過言ではない。何という執拗さ。その執拗さは文体にも如実に表れていて、膨大な脚注が本文を圧倒する。従って初学者は論旨を捉えるためにも、まず脚注を無視して読み進めるべきである。
Ludwig Wittgenstein
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』★★★★★(20100824)
Ludwig Wittgenstein“Tractatus Logico-Philosophicus,1921”

野矢茂樹訳:岩波文庫2003(藤本隆志・坂井秀寿訳 法政大学出版局1968)
 本書は哲学の諸問題をあつかっており、そして――私の信ずるところでは――それらの問題がわれわれの言語の論理に対する誤解から生じていることを示している。本書が全体としてもつ意義は、おおむね次のように要約されよう。およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては、ひとは沈黙せねばならない。
 かくして、本書は思考に対して限界を引く。いや、むしろ、思考に対してではなく、思考されたことの表現に対してと言うべきだろう。というのも、思考に限界を引くには、われわれはその限界の両側を思考できねばならない(それゆえ思考不可能なことを思考できるのでなければならない)からである。(「序」p9-10)
 『論考』は、後にウィトゲンシュタイン自身によってその根底部分が否定されることとなった曰く付きの書であるが、だからと言って無視して良いものではない。それどころか「論理」や「現実」を考える際には避けては通れないとさえ言える。ここにはウィトゲンシュタインの論理階梯が――アフォリズム形式という甚だ厄介な記述方式ではあるが――順を追って述べられている。あっさりとした記述の中に、膨大かつ斬新かつ切れ味鋭い思考が凝縮された本書は、後期ウィトゲンシュタインを代表する『哲学探究』へ進む前に是非とも一度は目を通しておきたい。なお、法政大学出版局版は、抄訳ながら『哲学探究』を併載する。
ウィトゲンシュタイン『ウィトゲンシュタイン全集8 哲学探究』★★★★★(20100825)
Ludwig Wittgenstein“Philosophische Untersuchungen,1953”

藤本隆志訳:大修館書店1976
 わたくしは、つい先ごろまで、自分の仕事を存命中に公刊しようなどという考えを、まったく放棄していた。そうした考えは、確かに折にふれて〔わたくしの心の中で〕激しくなったのであるが、その理由は、主として、自分が講義や講義録や討論の中で展開した思索の結果が、しばしば誤解され、多かれ少なかれ水ましされ、あるいは毀損されて一般に流布しているという事実を、嫌応なく知らされたことにある。そのことによってわたくしの自負心がふるいたち、わたくしはそれを認めるのに苦労したのである。
 しかし、四年前、わたくしは、自分の最初の著書(『論理哲学論考』)を再読し、その思想を解説しなくてはならない機会に見舞われた。そのとき、突然、あの旧著の思想と新しい思想とを一緒に刊行すべきではないか、新しい思想は、自分の古い思想との対比によってのみ、またその背景の下でのみ、正当な照明がうけられるのではないか、と思ったのである。(「序」p10-1)
 「世界は成立していることがらの総体である」という言葉から『論理哲学論考』は始まる。しかし、では「成立していることがら」とは何であるのか。「成立していることがら」と、「成立しなかったことがら」や「成立していたことがら」の違いとは何なのか。そもそも何が「ことがら」を成立させるのか。ウィトゲンシュタインが突き詰めて行くのは、そうした問題であるように思う。日常から決して遊離せず、日常を見つめる過程で立ち現われてくるさまざまな興味深い思考、例えば「言語ゲーム論」、「家族的類似」、「私的言語論」、「アスペクト」、「規則」など、どれもが悉く実に興味深い。

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