【評価段階】
★★★★★──読まねばならない。
★★★★───読んだ方がよい。
★★★────参考程度に。
★★─────暇なら読めば?
★──────見なかった振りで通り過ぎよ。

【S】
Ferdinand de Saussure
ソシュール『一般言語学講義』★★★★★(20091018)
Ferdinand de Saussure“COURS DE LINGUISTIQUE GENERALE publié par Chaeles Bally et Albert Sechehaye 1949”

小林英夫訳 岩波書店1972
 能記を所記に結びつける紐帯は,恣意的である,いいかえれば,記号とは,能記と所記の連合から生じた全体を意味する以上,われわれはいっそうかんたんにいうことができる:言語記号は恣意的である.(p98)
 以上に述べてきたことは要するに,言語記号には差異しかない,ということに帰する.それだけではない:差異といえば,いっぱんに積極的辞項を予想し,それらのあいだに成立するものであるが,言語には積極的辞項のない差異しかない.所記をとってみても能記をとってみても,言語がふくむのは、言語体系に先立って存在するような観念でも音でもなくて,ただこの体系から生じる概念的差異と音的差異とだけである.(p168)
 人文科学思想が「実体論」から「関係論」へと転換を遂げる端緒となった記念碑的著作。そしてソシュールの手になるものではなく、題名に明らかなように、ジュネーブ大学で行われた三回の講義に出席した学生のノートから「復元」された思想であることがソシュールの神秘性に彩りを添える。言うまでもないことだが構造主義の言わば「聖典」。人文科学を学ぶ者ならば避けて通れない障壁であり、万が一避けて通ったならばその者の身に付けた人文科学は蟷螂の斧でしかない。しかしこれは「障壁」という試練である。何故ならばここに述べられた思想は読む者の常識を破壊するからだ。日常的な思考に慣れた身にとって、「実体論」の幻影を脱ぎ捨てるのは実に困難な作業であり、その上で辿り着くのは、「この世に確実なものなど何もない」という虚無の世界であるからだ。だがその虚しさを「清々しい」と感じられるならば、その先に胸躍る「構造」の世界が開けることだろう。レヴィ=ストロース、ロラン・バルト、ミシェル・フーコー、ジャック・ラカン……。記号を読み、記号を操る「人間」の営みに対する明快で深遠な解釈の沃野が横たわる。
 一方、「蟷螂の斧」の実例がAmazonのカスタマーレビューに投稿された「諸悪の根源!」と題された以下の文章である。
この本ではソシュールの幼稚きわまりない言語論が展開されており、読むに耐えない。「ラング」だの「ランガージュ」だの「パロール」だの「シーニュ」だの「シニフィアン」だの「シニフィエ」などフランス語の単語を並べればいいというものではない。ところが、どういう訳か、本書は一世を風靡し、多くの知識人が「すばらしい」と褒め出した。「意味場」の分析とか「構造主義的意味論」などを打ち立てようとした人もたくさんいた。その傍らで、多くの哲学者や科学者が腹をかかえて笑っていたことも知らずに。(日本でも時枝誠記、三浦つとむ、吉本隆明、白川静といった人達が反論している。)この本の存在のおかげで「言語学に興味があります」と他人に言うのが恥ずかしいぐらいだった…
そういうブームの時代から時が流れ、構造主義言語学の成果が無に等しいと評価が固まった今でも、この悪書がまだ印刷されていることは大きな驚きであるが、本書に存在価値が全くない訳ではない。これを褒める人間は偽物、これをバカにする人間は少なくとも偽物でないというバロメーターとして大変役立っている。
 『一般言語学講義』の原書はフランス語で書かれている。フランス語の単語を並べるのは当たり前である。それを気に入らないというのは単なる言いがかりである。それどころか小林訳『講義』においては「ランガージュ」は「言語活動」、「パロール」は「言」、「シーニュ」は「記号」と、すべて邦訳されている。この一点を持ってしても、レビューの投稿者が実は『講義』をろくに読んでいない、いや、見てもいないことが明らかだ。加えて「言語」や「言」などと翻訳すると、それらがあまりに日常語過ぎて分析「概念」であることがわかりにくくなる。だから今日では「ランガージュ」や「パロール」というフランスの語においての使用が慣例なのだ(重箱の隅をつつくならば「ラング」と「パロール」が対概念であり、「ランガージュ」と「パロール」ではない。引用するにしても最低限の「理解」が必要であるという悪い見本)。何でも日本語に置き換えて並べればいいというものではない。さらに投稿者の言う「多くの哲学者や科学者」の実例として挙げる「時枝誠記、三浦つとむ、吉本隆明、白川静といった」、人々が、国語学者や漢文学者及び在野の思想家――しかも一昔前の――ばかりであって、その中にアカデミックな哲学者や言語学者が一人もいない(国語学者と言語学者はその論理的スタンスにおいて埋めがたい隔たりがある)ことを指摘しておこう。なぜそこに大森荘蔵や丸山圭三郎の名前がないのか? 哲学者や言語学者と言えば日本ではこれらの名前は欠かせないのではないか? ひいては投稿者は哲学や言語学にどれほど通暁しているのだろうか? 投稿者の言う「言語学」とは、せいぜい「言」無しの「語学」でしかないのではないか?
 それゆえに。
 『講義』がバロメーターであるならば、嬉々として、かつ胸を張って「これを褒める」側に回ろう。「理解できない」ことをひた隠しにして悔し紛れに痛罵する硬直しきった「実体論」者の味方になるような醜態を晒したくはないからには。
Elman R. Service
エルマン・R・サーヴィス『民族の世界 ――未開社会の多様な生活様式の探究――』★★★★(20110107)
Elman R. Service“Profile in Ethnology,1978”

増田義郎監修 講談社学術文庫1991

人間社会の発展に「バンド」「部族」「首長制社会」「未開国家」の四段階を設定したエルマン・サーヴィスの社会進化理論は、現代の文化人類学に大きな影響を与えた。本書においてサーヴィスは、現代世界におけるそれぞれのサンプルを確かな民族誌学的記述によって示す。現代の地球上にわずかに残された未開社会を踏査し、その多彩な生活様式を、様々な生態学的・歴史的条件のうちに探究した画期的労作。
 サーヴィスの「社会進化理論」が今日でも有効であるか否かについては疑問である上に特に興味も無い。重要なのはこの書が別の意味で非常に便利なことである。と言うのも、未開社会の中でも比較的有名な諸社会について、本書を読めば大体のことを知ることができるからである。このことは各章題を引用すれば明らかだろう。例えば「アンダマン諸島人」「カラハリ砂漠の!クン・サン」「上部ナイル河のヌアー族」「アメリカ南西部のナバホ族」「メラネシアのトローブリアンド諸島民」等々。マリノフスキー、ラドクリフ=ブラウン、エヴァンス=プリチャードなど人類学者のビッグ・ネーム達のフィールドが取り上げられ、その生活様式が素描される。従って上記ビッグ・ネームの著作に臨むための副読本として役立つ、言わば実用書である。
Susan Schaller
スーザン・シャラー『言葉のない世界に生きた男』★★★(20140829)
Susan Schaller“A Man without Words,1991”

晶文社1993
 風の音、友との語らい、遠い国での出来ごと――。あなたの眼に、この世界はどのように映っているのか。
 耳が不自由で、27歳まで言葉を知らなかったメキシコの青年イルデフォンソ。パートタイムの手話通訳者になったばかりのスーザンは、ある日、聾者クラスで彼に出会った。言葉の概念さえもたない彼に、彼女は全身で語りかける。
 献身的なスーザンとの絆に支えられ、ついにイルデフォンソは手話で自分を表現しはじめる。人と人との出会いが生む奇跡を描き、不可思議な人間の可能性に光を投げかける、感動のヒューマン・ドキュメント。

「彼を理解するには、わたし自身、いったん言葉の枠外へと歩み出なければならなかった。これまで彼は、匂いを嗅ぎ、手で触れ、独自のコミュニケーションを経験してきたに違いない……。わたしは二つの異質な世界をつなぐものを見出そうとした」
スーザン・シャラー
米国ワイオミング州生まれ。高校生のころにアメスラン(アメリカ手話)に魅かれ、手話通訳者となる。
 言語は思考そのものである。言語以前に思考は存在しない。個別の「もの」は、言語を獲得することで「存在」を始める。これは言語学の常識である。ならば、言語を手に入れる以前においては、人の眼に、世界はどのように映るのか。このことは言語学を学んだものが誰でも感じる疑問である。しかしその謎は、解決がほぼ不可能な謎でもある。というのも、言語を持たない者は、その眼に映る世界を表現する術を持たないからだ。かろうじて、言語を身に付けないまま大人になり、その後言語を獲得した人間によってその朧気な輪郭が明らかにされるのみである(しかしそれさえも、言語を用いて語る点において、かつて見えていた世界の「純粋な」記述にはならないだろう)。
 本書はそのような「言語を身に付けないまま大人になった人物」の記録である。上記の謎について幾ばくかの手がかりが得られるのではないかと考えながら読んだのだが、そのような人物が現実にいる、という以上の収穫があったとは言い難い。それはドキュメンタリー形式の記述であること、そして著者が言語学の専門家ではないことに由来するだろう。そしてドキュメンタリーとしても、たとえばイルデフォンソがなぜ、その年齢になるまで言葉を知らなかったのかという肝心な点に関してのしっかりした記述が見あたらないなど、隔靴掻痒の感がある。

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