【評価段階】
★★★★★──読まねばならない。
★★★★───読んだ方がよい。
★★★────参考程度に。
★★─────暇なら読めば?
★──────見なかった振りで通り過ぎよ。

【L】
Edmund Leach
エドマンド・リーチ『神話としての創世記』★★★★(20100505)
Edmund Leach“Genesis as Myth and other essays,1969 ”

江河徹訳 紀伊國屋書店1980/ちくま学芸文庫2002
本書は、「神話としての創世記」「ソロモンの正統性」「処女懐胎説」の三つの論文からなる。前の二論文では、血の純潔を極度に重んずるヘブライ民族が、異邦人・異文化との接触過程で避けることのできなかった内婚・外婚規制の矛盾や近親相姦など、主として性にかかわる問題の克服の仕方を創世神話やソロモン王説話といったヘブライ神話の構造分析を通じて考察する。第三の論文では、未開人には父親が妊娠に生理的に関与する事実を知らないものがいるという、古くからの人類学説を取り上げ、未開人を無知と見る偏見を正せと主張している。
英国を代表する社会人類学者による本書は、人類学に新しい視点を提供するだけでなく、聖書や神話に関心をもつ読者にとっても刺激的な書といえるだろう。
 「神話としての創世記」と「ソロモンの正統性」は、神話の構造分析が具体的にどのようなものであるかを端的に知るのに非常に便利な内容である。しかし本書の白眉は断然「処女懐胎説」であるだろう。これはリーチが挑発し、スパイロが受けて立つことで始まり、後に多数の人類学者を巻き込んでの一大論争に発展したいわゆる「処女懐胎論争」の、リーチの手になる第二論文だからである(第一論文は‘Golden bough or golden twig?,1961’)。注目すべきはその主張であることは勿論だが、リーチ特有の、論敵に対するネチネチと意地の悪い語り口も野次馬的な興味をそそる。もしかしたら面白い論文は、喧嘩相手があったときにこそ書けるのではないかという印象すら持つ。
Claude Lévi-Strauss
レヴィ=ストロース『悲しき熱帯 (T)/(U)』★★★★★(20100824)
Claude Lévi-Strauss“Triste Tropiques,1955”

川田順造訳 中公クラシックス2001
 暗い草原の中に幾つもの宿営の火が輝いている。人々の上に降りて来ようとしている寒さから身を守る唯一の手立てである焚火の周りで、風や雨が吹き付けるかもしれない側に、間に合わせに椰子の葉や木の枝を地面に突き立てただけの壊れやすい仮小屋の蔭で、そして、この世の富のすべてである、貧しい物が一杯詰まった負い籠を脇に置き、彼らと同じように敵を意識し、不安に満ちた他の群れが散らばる大地に直かに横たわって、夫婦はしっかりと抱き合い、互いが互いにとって、日々の労苦や、時としてナンビクワラの心に忍び込む夢のような(わび)しさに対する支えであり、慰めであり、掛け替えのない救いであることを感じ取るのである。初めてインディオと共に荒野で野営する外来者は、これほどすべてを奪われた人間の有様を前にして、苦悩と憐みに捉えられるのを感じる。この人間たちは、何か恐ろしい大変動によって、敵意をもった大地の上に圧し潰されたようである。覚束なく燃えている火の傍で、裸で震えているのだ。(U,p191-2)
 上に引用したのは、本書の中でも特に美しい一節である。アームチェア・アンスロポロジストたるレヴィ=ストロースの、殆ど唯一と言っても良い民族誌と要約できる。とは言え、単純な民族誌ではない。この書から立ち現われるのは、現在と過去を目まぐるしく行き来し、多様な社会の実例を縦横無尽に引用しては目の前の出来事に意味を見出し、一方で突然の天啓によって現象を見抜き、またある時には「対象」たる人々のつましいとすら言えない生活のあり方にふと胸打たれる、一人の、大文字の文化人類学者の姿である。
レヴィ=ストロース『アスディワル武勲詩』★★★★★(20100927)
Claude Lévi-Strauss“La Geste d'Asdiwal,1960”

西澤文昭訳 青土社1993

構造人類学の記念碑的名著

神話が成立し、展開と変容を遂げるプロセスを北米ツィムシアン族の神話《アスディワル武勲詩》の分析から、浮き彫りにする。――レヴィ=ストロースの思想と方法の基本構造が明かされた記念碑的名著。
 『神話論理』以前に書かれた「神話の構造分析」としては最も平明かつ簡潔。構造分析が神話に対して如何に適用されるのか、つまりは構造分析は神話をどのように取り扱い、何を明らかにしようとするか、ということが比較的分かりやすく述べられる。ただ「わかりやすく」とは言え、それはレヴィ=ストロースにしては、という但し書き付きではある。
クロード・レヴィ=ストロース『親族の基本構造』★★★★★(20120114)
Claude Lévi-Strauss“Les Structures Élémentaires de la Parenté,1967”

福井和美訳:青弓社2000
 ごく低い未開水準では、地理的環境の厳しさ、技術の未発達状態のゆえに、狩りも栽培も採集もとりわけ偶然に大きく左右されるのだから、人はとても独りで生きていけないと言っていい。はじめてのフィールドワーク経験で強烈に残った印象の一つに中央ブラジルの原住民の村で目にした、一人の若者のありさまがある。彼は小屋の片隅に何時間もじっとうずくまったまま打ち沈み、身なりも悪く、恐ろしくやせこけていた。どうやら見るもおぞましい暮らしをしているらしい。我々は数日間持続的に彼を観察した。狩りにそれも独りで出かける以外、めったに小屋の外に出ない。(かまど)を囲んで一族の団欒が始まると、ときどき親戚の女がかたわらに置きに来てくれるわずかな食べ物を、黙々と平らげる。そうしてもらわなかったら食事抜きのことも多かったであろう。この奇妙な境遇が気になった我々は、意を決して、あの若者は何者かと尋ねた。すると人々は、とても重い病気にかかっているのではとの我々の杞憂を笑い、こう答えた。「あれは独り身なのさ」。これがあの見るからに呪われた惨状の、およそ唯一の理由だったのである。(p113)
 「いわゆる未開社会の人々は、我々の過去の姿である。彼らも十分に長い時間が経過したならば、我々のような生活を送るようになるだろう。」おそらくこれが、我々の社会の未開社会に対する一般的な見方であろう。そのような社会観は19世紀後半のヨーロッパにおいて、文化人類学の加担もあって創造されたものである。つまりは1世紀以上も以前に流行った概念が、いまだに我々の社会においては常識である、というわけだ。勿論文化人類学においては社会進化論はとっくの昔に放棄されている。当然である。「進化」に潜むエスノセントリズムが暴かれた後は、進化論を標榜することはすなわち偏見の持ち主であることを晒すだけだからだ。既に先の文章にそうした観念が滲んでいる。「我々のような生活を送る」という言葉には、「快適で清潔で便利な生活」というコノテーションが感じられ、翻って「彼らの生活」は「不快で不潔で不便な生活」というスティグマを帯びるのである。しかしなぜ、あらゆる社会がヨーロッパ的にならねばならないのか? ヨーロッパとは進化の目標であり道標であるのか? 決してそれは真実ではない。それゆえ、社会は進化しない。変化はあるだろうがそれを進化とは呼べない。そもそも先の見方は「進化」に対する誤解に端を発すると言える。「人間は猿から進化した」ということが事実であるとしても、今現在、猿である動物が未来において人間になるわけがない。進化論は未来を語らない。語り得ない。にも関わらず、社会進化論は未来を語る。そこに問題があったのだ。しかしそれは進化論そのものの放棄によって解決された、少なくとも文化人類学においては。ところがこの社会にあっては相変わらず進化論が堅持されている。それが「論」であるとすら意識されないままに。あまつさえ未開社会と発展途上国との混同すら決して珍しいことではない。「核家族」。これが義務教育において登場する唯一の文化人類学用語である現状は、一般的な社会認識の貧しさの象徴である。
 マードックの『社会構造』が「核家族」という概念を提示したのは1949年。奇しくも『親族の基本構造』の発表と同年である。双方とも「親族」をテーマとした「構造」に関わる書であり、前者はアメリカ人類学、後者はフランス人類学、前者は統計学を駆使し、後者は事実上構造人類学の出発点となった。ということは、この社会の「親族」に関する常識的=教科書的理解は、1949年アメリカの時空にとどめられたままだということになる。それは実に不幸である。
 発想の転換・視点の変更。それが『親族の基本構造』には横溢している。親族は実体ではなく領域である。領域を決定するのがインセスト禁忌である。女性は交換される。交換が関係を生ずる。じつにエレガントな論理の網目。資料の詳しい検討がかなりの紙数を割いてなされているために800ページを超える大著であるが、個別のケーススタディは飛ばしながらの斜め読みでもある程度理解は可能である。
レヴィ=ストロースクロード・レヴィ=ストロース日本講演集 構造・神話・労働』★★★★★(20120719)
Claude Lévi-Strauss“Conférences au Japon”

大橋保夫編・みすず書房1979
 クロード・レヴィ=ストロースは、国際交流基金の招きにより、1977年10月17日夫人同伴で来日、6週間滞在した。
 本書はその滞日中に行った講演と対話のすべてを集め、それに非公開で行われたシンポジウムの記録を加えたものである。
 自分の学問領域である「民族学」のあり方について、またもっとも大きな成果である「神話論」について、またさらに現在の研究対象である「労働」について、いずれもレヴィ=ストロース自身が、現段階での自分の考え方を平易に説明している。
 本書はその学問への手がかりとして、また整理として、きわめて有益な書物となるであろう。
 レヴィ=ストロース自身の手による(決して上手いとは言えないが味のある)「猫」の絵の装幀が印象的な著作。であったのに、新装版になってその絵が除かれたのは実に残念。講演の記録であるだけに、あるいは対話の記録であるだけに、レヴィ=ストロースの思考のあり方が、その著作を読むよりは遙かに平明な口調において示されている。
 たとえば「民族学者の責任」では、『悲しき熱帯』において迷いながらのものであった彼自身の行動が、「異文化に対峙する人類学者」という視点から捉え直され、そして位置づけられる。相手も人間であるからこそそのような問いが生じると言えるのかも知れないが、「民族学者とはどういう存在か」という、自らの拠って立つ立場を常に問い続ける姿勢の存在こそが、この学問を他に比べて優れて強靱なものにしているのである。
 「構造主義再考」及び「神話とは何か」は、『構造人類学』に向かう際のサブテキストとして最適。『構造人類学』の第十一章「神話の構造」及び第十五章「民族学における構造の概念」をより平易な口調でコンパクトにまとめたものと言える。特に「神話とは何か」は「神話の構造」とは異なる、そしてより「構造」ということの分かりやすい神話の事例を用いているだけに貴重である。
 そして「労働の表象」は、まだその方向性の暗示にとどまってはいるが、「労働」に対するヨーロッパ的観念が決して普遍的なものではないことが示されている。この問題を突き詰めていくならば、たとえばウェーバーの『プロ倫』その他に示された視線の解体と再構築すら可能ではないのかと思われる。と言ってもこの書は30年以上前のものであるだけに、既にそのような仕事は成されているのかも知れないのだが。

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