【評価段階】
★★★★★──読まねばならない。
★★★★───読んだ方がよい。
★★★────参考程度に。
★★─────暇なら読めば?
★──────見なかった振りで通り過ぎよ。

【D】
ガイ・ドイッチャー
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ガイ・ドイッチャー『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』★★★★★(20151029)
Guy Deutscher“Trough the Language Glass,2010”

インターシフト2012
さてここで、私には利益相反にあたる事情があることを宣言しておくほうがよさそうである。私の母語であるヘブライ語は、ドイツ語やフランス語、スペイン語、ロシア語と同様にまったく一貫性なしに、無生物に男性/女性のジェンダーを付与しているからだ。(男性名詞の)家に入り、女性のドアを開けると、そこは男性の部屋で、男性のカーペット(彼はピンクときている)が敷いてある。部屋には男性のテーブルがひとつと、男性の本がいっぱい詰まった女性の本棚がある。男性の窓から外を見ると、男性の木々があり、小鳥がとまっている。小鳥は解剖学的偶然がどうであろうと、すべて女性である。私に鳥類学(女性名詞)の造詣が深ければ、小鳥の外観を見ただけで生物学的雌雄がわかっただろう。そして、私ほど知識のない友人に小鳥を指さして、「ほら、彼女は雄だ。胸に赤い斑点があるし、他の雌より大きいからね」と教えてやるだろう。しかも、この教え方にどこか妙なところがあるなどとは微塵も思わないのだ。(p254)
 言語は果たして思考に枷をかけるのか。エドワード・サピアとベンジャミン・リー・ウォーフによる、いわゆる「サピア&ウォーフ仮説」について、もう一度精密に考え直すという目的を持つ書。上記仮説については今日、否定論の方が優勢を占めているのだが、「そこまで強く思考に制限をかけないにしても、多少はあるんじゃないの」というのが本書の立場だろう。かの仮説をしっかり学び直したい人にはうってつけであるが、そうでなくとも、世界の多様な言語が持つ思いがけない特徴を知ることができて面白い。加えて、著者のユーモア溢れる語り口が飽きさせない。実はそれこそが本書の最大の魅力である。
Émile Durkheim
デュルケーム『自殺論』★★★★★(20100830)
Émile Durkheim“Le Suicide : étude de sociologie,1897”

宮島喬訳 中公文庫1985
自殺という人間行為と社会構造および道徳的構造の特質との関係をさぐりながら、アノミー、生の意味喪失、疎外など、現代社会における個人の存立の危機をいち早く指摘した、社会学の古典的名著。
 「自殺」はどの社会にも必ず存在する以上、それは決して異常な行為ではなく、むしろ「日常的行為の極端化されたもの」(p23)という、パラドクシカルな立場に立つ社会学の古典的名著。現代的視点からは、幾つかの大きな瑕疵が存在する――社会学とは言え、対象が自殺である限り、「心理」を解釈の根底に持たざるを得ないこと・「第一編 非社会的要因」は自殺に対する当時の原因論の検討であり、原因論そのものが既にアウトオブデートであること、など――が、それでも「社会」を理解する姿勢を学ぶには最適な書である。特に「第三章 社会現象一般としての自殺について」は必読。個人に価値が置かれる現代に対する以下の説明は実に名文。
社会に規模とその密度が増せば増すほど、社会はいっそう複雑化し、分業がすすみ、個人間の差異もますます多様なかたちで出現するようになる。やがて、同一の人間集団においても、全成員のあいだに、すべてが人間であるということ以外にもはや共通の要素が何ひとつ共有されないような時代がやってくる。このような条件のもとでは必然的に、集合的感性があらゆる力をかたむけて、のこされた唯一の対象に結びつき、そのことだけでもこの対象に比類のない価値を吹きこむのである。人格とは、だれかれにかかわりなくすべての心にふれることのできる唯一のものであり、また人格を賛美することは、集合的に追求されうる唯一の目的であるから、衆目は一致してそれに一種異常な価値を与えずにはいない。こうして、人格は、ありとあらゆる人間的な目的をこえて、ひとつの宗教的な性質をおびるようになる。(p425)
 「自殺などというネガティヴな行動を人に強いるものは何か」、デュルケームの問題意識がそこにあると考えたならば、その人自身が既にして「人格」に宗教的な価値を与えてしまっていることに気づくべきである。自殺を避けるべきもの、止めるべきもの、と見なすこと自体が「人格」宗教の教義だからだ。
デュルケム『宗教生活の原初形態(上)/(下)』★★★★★(20151017)
Émile Durkheim“Les Formes Élémentaires de la vie Religieuse : Le Système Totémique en Australie,1912”

岩波文庫1941
デュルケムにとってトーテム集団は、宗教生活のみならず社会そのものの原初形態であった。彼の考察は、信念や儀礼等の宗教的側面にとどまらず、思考の基本的な枠組、時間や空間の概念にまでも拡がってゆく。ウェーバーと並んで宗教社会学を確立し、以後の社会学の各分野に多大な影響を及ぼしたデュルケムの最後の著書。
要するに、宗教とは発端においては集団の生命力の顕現であった。神が人類を創造したのではない。人類が生きるために自らの力で神を創造したのである。宗教とは集合体の生命を鼓舞し激動し高揚せしめる熱力学的な力である。宗教とはけっして架空の幻影ではない。――これが、デュルケムの下した断案である。われわれの宗教学は、そしてまた現代の宗教批判はここから出発しなければなるまい。(訳者序)
 基本的にはオーストラリアのトーテミズム分析を中心とした書ではあるが、その射程はより広く「宗教とは何か」ということまでをも含んだ大著。そしてその視野こそが本書の価値である。
 レヴィ=ストロースの『野生の思考』が存在する今日では、トーテミズムの議論に関するデュルケームの議論はいささか狭い上に古い。それゆえ、本書がトーテミズム分析のみで成り立っていたならば、忘却の彼方へと葬り去られていた可能性は高いわけだ。そうはならなかったのは、本書における「宗教」と「呪術」と「科学」との関係に対する視点や、「聖なるもの」と「俗なるもの」との関係に対する卓見のゆえである。
 デュルケームの社会学的な仕事の代表が『自殺論』であるならば、こちらは彼の人類学的な仕事の代表である。



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