【評価段階】
★★★★★──読まねばならない。
★★★★───読んだ方がよい。
★★★────参考程度に。
★★─────暇なら読めば?
★──────見なかった振りで通り過ぎよ。

【A】
W.Arens
W.アレンズ『人喰いの神話 ――人類学とカニバリズム――』★★★★★(20110821)
W.Arens“THE MAN-EATING MYTH Anthropology and Anthropophagy,1979”

岩波書店1982
 本研究に潜む偏向、少なくとも傾向について、読者にあらかじめお断りしておかなくてはならない。第一に、この方向の研究、学者仲間との討論、私自身の熟考の結果、私は今では、社会的に受け入れられた慣習として食人が存在したことは、時代と場所を問わず、なかったのではないかと考えるようになっている。(p8-9)
 私はすぐに、いずれかの時代に誰かに人喰い族の烙印を押されなかった集団はなかったということに気付いた。中でも目覚しい人喰い族を教科書から拾い上げてきて、任意に並べてみよう。戦争捕虜をちょうどよい具合に太らせてから食膳に供したアフリカの「コンゴ」族、きまって人間の肉で正餐をとったフィジーの酋長達、長い河旅の間積み荷の人間を一人ずつ食べて行ったニューギニア人、宗教的儀式で人喰いの狂宴を演じたアステカ族、人肉のカツレツを配る込み入った礼儀作法を料理術の一部に持つ南アメリカのトゥピナンバ族。(p14-5)
 私のこの結論は次の事実に基づいている。すなわち、どのような社会にあっても、どのような形であれ、生きるか死ぬかの状況下を除いて食人行為が慣習として存在したという満足のいく証拠が、私には見出せなかった。噂や疑惑や恐怖や非難にはことかかない。しかし、満足な直接記録はひとつも存在しないのである。専門家の学識を傾けた論文は枚挙にいとまがない。だが、それらを支える民族誌は不充分なのだ。(p25)
 いわゆる「人食い部族」という名称は、未だ神話ではない。多くの一般人は、現在ないしは近い過去において、世界のどこかには「人食い部族」が実在したと思っているだろうし、それは実に嘆かわしいことに、専門家である人類学者においても同様であるからだ。たとえば木山英明『文化人類学がわかる事典』(日本実業出版社1996)には「世界の民族の四割が食人習慣をもつ」と、堂々と宣言されているし、そこではアレンズが詳細に検討を加えたトゥピナンバ族の事例が、まるで当たり前のようにカニバリズムの代表事例として記載されている。木山英明の場合は特別かも知れない。彼は人類学者ではあるものの、その主張の立脚点はどちらかと言えば自然人類学寄りであり、かつ論理というものに余り明るくないようであるから――レヴィ=ストロースのインセスト・タブー解釈を「的を射たものではなかった」と評価した上で、これを「もって生まれた自然の感情だった」と結論づける(ならば何故「規則が存在するのか」という初歩的な問いは無視される)――。しかし他の人類学者にしても事情はそれほど変わらない。いまだにカニバリズムに関する研究報告は散発的に発表されていて、そこで焦点となっているのは「何故人が人を食うのか」という問いであり、それが栄養学的にあるいは宗教学的に議論されていくのみであるからだ。
 つまり、アレンズの仕事は等閑に付されていると言って過言ではない。しかしアレンズの仕事に遺漏があるとも考えられないのである。おそらくカニバリズムというテーマはトーテミズムと同じ性質を持つのではないかと思われる。トーテミズムは最終的に「あらゆる社会にトーテミズムは存在する」、ないしは「いわゆる未開社会に特有の宗教社会現象としてのトーテミズムは存在しない」という形で一応の決着を見たのであった。カニバリズムも、カニバリズムという対象が存在しているのではなく――もっとも「カニバリズムは存在しない」という宣言は勿論困難であろうが――カニバリズムというラベリングが存在しているのだという地点に着地しそうな予感がする。そのことを先駆的な形で示したアレンズの仕事はもっと評価されてもよいと思うが、残念ながらこの日本語訳は現時点では入手困難というのが現状である。

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