日本民俗学を確立する端緒となった書。とは言え本書には分析や解釈は一切含まれてはいない。明治末期の遠野において存在していた様々な伝承を聞き書きの形式で記録したものである。従って当然ながらこれは「歴史」ではない。むしろ『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』の系譜に連なる「説話集」と考えるべきであり、「神話」や「物語」との親和性が強いものであると言える。いや、そのような位置づけを抜きにして、単なる「怪談」として読むのが本書に対する最も正しい向き合い方だろう。解釈に走らず、出来事をただ投げ出すだけの、土の匂いのする第一級の怪談集。
タブーについての文化人類学的見解が手軽に学べる入門書。だが両論併記の感が強く、最終的かつ決定的な見解がどこにあるのかということについて、初心者は戸惑うような構成である。公平で客観的な視点で、というのは分かるのだが、それで読み手が分かりづらくなっては本末転倒。あくまでも入門書として臨むのが正解。
タイトルが『ヒトはなぜペットを食べないか』でありながら、紙幅の大半において「今日ペットとされる動物を食べてきた」歴史が語られる。そのために人類学的知見は巻末に追いやられ、いつまで経っても「なぜ」に至る説明が登場せず、もどかしい。さらにはその説明も『タブーの謎を解く』同様に両論併記であって、「だから結局どうなんだ」と言わざるを得ない。山内は指摘していないことだが、ペットと家畜の違いはその「固有名詞性」にあると思われる。家畜は多数であり名前を持たず、ペットは少数であり名前を持つ。従って「ヒトはなぜペットを食べないか」に対する答えは実は明快極まりない。「ペットだから」だ。
『言葉と物』を中心として、その他幾つかの著作を取り上げつつ、ミシェル・フーコーの「方法論」を山本哲士なりの読解において解説した書。読解の全てに納得する訳ではない(どころか、特に彼があちこちでことあるごとに主張する〈プラクシス/プラチック〉論はなかなか五月蠅い)のだが、しかしフーコーの著作を読む際の一本の補助線を提供してくれることは確かである。『言葉と物』の横に置いておくと何かと役に立つ書。
哲学を格闘技に見立て、最強の哲学を賭けての戦いが繰り広げられるという、実に巫山戯た構成の哲学入門書。にも関わらず、内容は分かりやすく、かつ飽きさせない。その気になれば一日で読み終えられ、しかも哲学の主要な流れは押さえられる、というお得な書。ソシュールの解説に多少危ない部分があることと、ウィトゲンシュタインという巨人が収録されていないことが難点。
数学の思考法を理解するには最適な本。この第三巻ではゲーデルの不完全性定理が副題に据えられているが、不完全性定理が登場するのは最終章のみである。そのために最終第10章に入ってからやや急ぎすぎで、俄然難解になるために、初学者が不完全性定理の理解を求めて読むと挫折は必至である。ただし、論理学と数学の関係、そして数学の基本的な記号の操作方法等を学ぶためならば非常に優秀な書であると言えるだろう。
いわゆる「自然科学者による文明批判」の典型。何が典型かと言えば社会や人間の考察において素人同然の「論考」を、その「科学者」というステータスのみにおいて「書き散らす」点である。その逆は皆無であることに注意しよう。つまり、社会科学者が、自然科学の扱う内容に対して口を差し挟んでくることなど滅多にない。あったとしてもそれはつまるところ「宗教色が抜けた宗教書」か、「自然の擬人化物語」となる運命にある。社会や人間に対する考察を何の衒いもなく発表するところに、自然科学者の傲慢があると言わねばならない。「社会や人間なんて単純なものなのだ」という傲慢。単純なのはそう思う当人の頭である。だから『唯脳論』を読んで何かを学んだと思うなら、それは幻想である。論旨は不明瞭、論理は曲がりくねっていつの間にか消え去り、牽強付会に着陸する、という養老の文章から何かを読み取ることなどそもそも不可能なのだ。例えば「言語」についての養老の考えを見よう。「言語はもともと聴覚言語だという主張にぶつかる(p145)」し、「歴史の文脈を追えば、たしかに聴覚言語が先であり、文字が発語より先にあったはずがない(p145)」と、一般には考えられているのだが、それに対して養老は主張する。「生物学的な能力から言えば、視覚言語は聴覚言語と同時に用意されていた(p147)」のであり、「ある時代まで文字がなかったのは、おそらく技術的な問題にすぎない(p146)」と。ここにはいくつもの誤解・曲解がある。第一に、「視覚と聴覚の結びつき」を養老だけが発見できたわけではない。言語が聴覚と視覚に結びついているのは当たり前であって、でなければ目の前にあるものを指してその名前を言うことはできない。当たり前だからこそ言語の専門家はあえてそのことを述べていないのであって、「言語はもともと聴覚言語だという主張」とはそのことを意味するわけではない。「言語の本質は文字ではない」ということを述べているに過ぎないのだ。つまりは出発点において、養老の言語理解は稚拙である。また今日、文字を持たない多くの社会が存在することをどうやら養老は知らないらしい。それを技術的な問題だとして片付けるのは、あの忌まわしき偏見に満ちた「進化主義」の産物か、でなければ著者の不明の賜である。文字による「時間・歴史意識」が普遍的なものではないということを養老も得意気に言及している「構造主義」者たちが明らかにしたのではなかったのか。結局、構造主義というカテゴリーについても養老はよく理解していないのだ。
結論:無知蒙昧による恐るべき書。「喝破」ではない。単なる「河童」である。スリリングなのはご本人の脳である。
養老孟司の著作はどれもこれも読むに値しないものばかりで、最近では見向きもしないのだが、「文系」というタイトルと、森博嗣との対談が気になって(図書館で借りて)読んでみた。
対談者四人のうち、藤井、鈴木、須田に関しては、自分たちの自慢話に養老がピントのずれた応答をする、というもので、そうした噛み合わない放談が延々繰り返されるだけの、「文系」というタイトルにそぐわない内容である。対して唯一森との対談だけが、「文系」を意識した、そして仕事の自慢話ではない内容となっている。しかしそこでの「文系」の把握のあり方が実にいいかげん極まりないものであり、むしろ逆に「理系」の頭の出来を疑ってしまうしろものなのだ。
そこで以下、「理系の壁」というタイトルで森の発言を引用しつつ反論していこうと思う。まずは「言葉」について。
森 大学時代、文系の先輩に、「人間は言葉で考えている。言葉がなかったら考えられないはずだ」と言われて、びっくりしました。僕は言葉で考えていませんから、「それは違います」と反論したのですが、まったく。僕の場合は、思考の大部分は映像です。数字を扱う場合でも、座標や形で考えます。人物も名前ではなく、その姿や顔を思い浮かべるので、名前は必要ないわけです。他者に説明する方法などを考えるときだけですね、言葉で思考するのは。(19)
このエピソードに森の浅薄さが如実に表れている。もちろん「文系の先輩」の言葉が正しい。言葉で考えない人間など存在しない。言葉こそ思考である。映像も、「それが何であるか」ということが分かっていなければ意味をなさない。意味をなさないということは、考えていないということである。人物の姿や顔だけを思い浮かべる場合でも、それが人間の姿であり顔であるということが分かっていなければならない。ならばそこには人間というカテゴリーが介在し、姿というカテゴリーがさらに関わり、顔というカテゴリーが関わっているのである。しかもそれらは言葉によってカテゴライズされたものだ。たとえ映像だろうと、その基礎には言葉が存在している。世界は言葉でできている。それが分かっていない。つまり森は「言葉」を、音声や文字としての、すなわち「物理的なもの」としてしか把握していない。だが言葉とは優れて観念的なものなのである。
森 文系と理系の違いに話を戻しますが、文系の人は、自分のわからないことを言葉で解決しようとします。たとえば、独楽は回っているから倒れない、自転車は走っているから倒れない、ということを「理屈」だと思い込んで納得し、それで解決済みにしてしまう。回っているものがなぜ倒れないのか、走っているとなぜ倒れないのかは考えようとしません。
僕から見ると、どうしてそんな説明で納得できるのか不思議なんですが、文系と理系の差はここにあるのではないでしょうか。文系は物事を言葉で割り切るからデジタル。理系の方がアナログです。(30)
僕は、なにも文系を非難しているのではありません。多くの社会的活動では、言葉で割り切った方が処理は速いでしょうし、相手も同じなら説得しやすいのでしょう。理系はそれは理屈ではないと認識しているので、できるだけ詳しく説得しようとしますが、口下手だからうまく伝えられなくて、「オタク」だとまた言葉で処理されてしまいます。
でも、理系どうしなら、ある程度知識が一致している範囲では、きちんとした議論をして理解し合うこともできます。そのときは、「言葉」ではなくて、「論理」で通じ合う。物事を突き詰めていった先にある、数学的な原則や物理法則のようなものに立脚して、論理を構築しようとする、その努力をしたがるのが理系です。(30-1)
さて、では「回っているものがなぜ倒れないのか」という疑問に、どう答えれば良いのだろうか? 多分森の答えは「ジャイロ効果」とか「歳差運動」とかいうものが関わる数式をここで念頭に置いているのだろう。だが、それがたとえ数式で表せたとしても、数式は「読まれる」ものである。決して「見られる」ものではない。「見て分かる」ものに対して「計算」は不可能である。「読んで分かる」からこそ、計算が可能なのだ。とすれば、当然数式は「読まれるもの」、すなわち「言葉」である以外にない。実際森は、そのことを自身で肯定しているのである。
森 数字は単なる記号で、言葉と同じものです。(22)
とすれば、森の思考はどうにもねじ曲がっている、としか言えない。「言葉」は「論理」ではない、と言いながら、しかし「数字」は「言葉」である、と言う。では「ジャイロ効果」を理系の方々は一体どうやって「論理」として「通じ合う」のか。絵でも描くのだろうか? ジャイロ効果の絵? でもそれは単なる「独楽の絵」や「自転車の絵」にしかならないではないか。しかもそれで通じ合う人々は「画家」であって「理系」ではないよね。
結局、よく考えもせず、中途半端な知識でデジタルだと判断する森の方がよっぽどデジタルではないだろうか。しかも「壊れた」デジタルである。さらに、「批判していない」とは言うが、学に対して「論理的でない」というのが批判にならないわけがないではないか。馬鹿か。いや、馬鹿だ。ところが論理的でないのは実は本人であった、という情けない落ち。
森 でも、“言葉”で説明されても、納得できないことも多い。その典型例が哲学だと思います。哲学的な議論はどこまで突き詰めていっても、普遍的な法則は導き出せないのでは、と感じてしまう。哲学とはあくまでも人間の考えていること。特に、人間の認識や感覚に依存するものであって、客観的、物理的な現象とはいえない割合が多い。数値化できないから測定もできない。したがって、他者との情報の共有が難しい。そういうものに深入りしても、わけがわからなくなるだけなのではないかと思って、なかなか手が出せません。
養老 脳は人によって違うわけだから、ある人の考えはその人の脳でなければ納得できないのかもしれません。
森 僕からしてみれば、社会や人間など、あやふやでとらえようがないものを、文系の人はどうして理屈で解釈してわかったような気になれるのか不思議でなりません。(34)
傲慢ここに極まれり、と言えるだろう。特に「わかったような気」というところに森の本質があらわれている。数値化できるものしかわからない、という意見は典型的な理系人間の迂闊な思考である。その背後には、おそらく彼らははっきりとは意識できていないだろうが――というのも当人自身が人間であり、したがって「あやふやでとらえようがないもの」であるから(笑)――「人間には自由意志があるので、法則通りにはならない」という前提が存在している。
それは理系ゆえに生じる愚考である。というのも彼らは「理想状態」をいとも簡単に想定してしまう癖を持つからだ。「ただし、摩擦はないと考えよ」とか、「ただし、厚さはないものとして計算せよ」とか。数式においては法則が純粋なままで通用する理想条件を手軽に設定できる。そんな理想条件の阻害要因として「自由意志」が捉えられているわけだ。
人文科学はそうした阻害要因を当然として、その上で法則を見出そうと格闘する。乳母日傘の自然科学とはそこが異なる。言わば叩き上げだ。そして人間は思ったほど自由ではない、さまざまな要因が人間の選択を狭いものにしている、という発見をしてきた―――それが「無意識」であり、「構造」である――。文系の人は「理屈で解釈してわかったような気に」なっているのではない。「本当に分かっている」のである。
分かっていない森のために丁寧に補足しておくと、たとえ何かが数値化できたとしても、それを読むのは人間である。自然科学のデータや法則も、必ず最終的には人間が「認識」する。ならば数値も客観的ではないし、まして物理的なわけがない。人間が存在しないならば、数値も存在しない。それを量子論では「観測問題」という。「理系」の森が知らないはずはないのだが? それとも「理論は二の次」である「実学」としての「工学」系だから本当に知らない可能性はある。
そしてまた、養老の応答にも笑える。「脳は人によって違う」ならば、唯脳論など端から成立不可能ではないか。そもそも、物理的な状況も、その時その時によって違うのに、それに気づかないのも理系の特徴である。上に述べたような「理想状態」の設定が、それを覆い隠しているだけだ。
まだまだ突っこみどころはあるのだが、可哀想だからこの辺で止めておく。作家であるはずの森から上のような言葉が出ること自体が驚きであるとのみ添えておこう。
本書から得られる教訓。「人を呪わば穴二つ」。
でも「文系」は上品だからこんな本は出さない。
勘違い満載の、ただ何匹目かのドジョウを狙っただけの書。