【評価段階】
★★★★★──読まねばならない。
★★★★───読んだ方がよい。
★★★────参考程度に。
★★─────暇なら読めば?
★──────見なかった振りで通り過ぎよ。

【な】
永井均
永井均『マンガは哲学する』 ★★★★(20090624)

岩波現代文庫2009
マンガという形式でしか表現できない哲学的問題がある! 自我論などで若者に人気の哲学者が、手塚治虫、藤子・F・不二雄、萩尾望都、楳図かずお、永井豪、赤塚不二夫、岩明均などの名作マンガを、相対主義、言語ゲーム、時間論、自我論、神の不在証明、超人論など現代哲学の観点から縦横無尽に読み解いていく。史上まれにみるマンガによる現代哲学入門。
 戦略的に「独我論」を展開する永井均のマンガによる「哲学入門」。アリストテレスやプラトンといった古典的な名前でしか哲学を知らない人に対して、現代哲学では何が、どのように問題になるのかということを、マンガの批評という形で理解させてくれる。何よりも嬉しいのは吉田戦車や中川いさみ、諸星大二郎、星野之宣等の作品が選択されていること。野矢茂樹『哲学の謎』と併読で理解はさらに深まる。
中川敏
中川敏『交換の民族誌 あるいは犬好きのための人類学入門』★★★★(20110719)

世界思想社1992

異文化の日常を科学する

東インドネシアに住むエンデ人の世界――誰と結婚し、何を交換し、どんな集団を作るか――を、理論人類学の光の下に生き生きと照らし出す。犬(事実)好きのための民族誌構築事始め。
 サブタイトルの「犬好き」とは、エヴァンス=プリチャードの言葉に由来する、と言う。エヴァンス=プリチャードによれば、犬好きな人は事実好きであり、猫好きな人は理論好きであるらしい。従って本書は事実主体の書と言えるだろうし、タイトルの「民族誌」がそれを宣言している、とも言える。内容は二部構成となっていて、第一部「交換の人類学――交換、関係、集団」において、交換を中心とする理論を平易な語り口で解説し、第二部「エンデの民族誌――集団、関係、交換」においてその理論を民族誌に対して適用する。つまりは事実において理論を鍛える、といったところだろうか。「交換」という観点が文化の読解には実に有効であることが良く分かる一冊。同著者による『異文化の語り方 あるいは猫好きのための人類学入門』が本書と対をなす。
中川敏『言語ゲームが世界を創る 人類学と科学』★★★★★(20110626)

世界思想社2009

人類学者にはならないあなたのための人類学入門

ゲームの理論だけ世界がある。
ゲームの数だけ真理がある。
高校生にもわかる、それでいて高度な、あなたの脳を鍛え、あなたの世界を塗りかえる、理屈人類学への招待状。
「言語ゲーム」という言葉が用いられてはいるが、ウィトゲンシュタインが登場するわけではない。「人類学入門」というが、人類学の解説ではない。むしろ人類学の思考法のあり方を、さまざまに多様な「科学」へと接続することを狙う書であり、単なる文化人類学の入門書よりは遥かに質が高い。「論理」を徹底すると、人類学であろうが分析哲学であろうが畢竟同じ地平へ辿り着く、ということを示す名著。
中村昇
中村昇『哲学の現代を読む9 ウィトゲンシュタイン ネクタイをしない哲学者』★★★★★(20091214)

白水社2009
 これまでにも、わかりやすい日本語で書かれた哲学書は、たくさんある。そこで、この本も、ウィトゲンシュタインという哲学者とともに、その「わかりやすい」路線でいきたいのだ。
 言っていることが、本当にわかるかどうかはべつにして、この哲学者のドイツ語は、たいへんわかりやすい。ネクタイをしたウィトゲンシュタインなんて想像できないと、彼の学生(だったマルコム)が言っていたように、彼の文章も、いつも普段着なのだ。しかも、とてもおしゃれな。大変な名文だと思う(と言うほど、ドイツ語に堪能なわけではないけれども、この人とは長いつきあいだから、それくらいのことはわかります)。そんな人について書くのに、肩肘張ったガクジュツテキな文章で書いたんじゃ、なにもかもぶち壊しでしょう。繊細な工芸品をがさつな手であつかうみたいじゃないか。ルートウィッヒに申し訳ない。(p11)
 まず何より装幀が美しい。表紙の素材からフォント、そしてメタリックな模様に至るまで、実に丁寧で上品な作りである。この本に込められた出版社の思いが伝わってくるようである。
 そして内容であるが、実に分かりやすい。ウィトゲンシュタインの生涯や経歴というものは一切排除し、彼の広範な思想の一部に焦点を絞って集中的に論じる。であるために初学者には敷居が高いが、ある程度の知識があるならば、懇切丁寧かつ平易な説明によってウィトゲンシュタイン思想の精髄に触れ得るはずだ。ただ唯一の難点は、単に紙幅を費やす役にしか立っていない「ギャグめいた呟き」が鬱陶しいことである。第一、引用しにくい。
難波江和英
難波江和英・内田樹『現代思想のパフォーマンス』★★★★★(20101011)

光文社新書2004
 本書は、これまでにない種類の本である。その目的は、現代思想の概説ではなく、現代思想をツールとして使いこなす技法を実演(パフォーマンス)することである。この一冊には現代思想に貢献した六人の思想家について、案内編と解説編と実践編が含まれている。そのすべてを、友人であり、同僚である内田樹さんと書いた(実のところ、解説編のテキストとなる翻訳編も完成していたが、残念なことに版権の問題で断念せざるをえなくなった)。案内編では、それぞれの思想家の経歴や業績について全般的な解説をおこない、解説編では、各自のキーポイントとなる思想の方法をていねいに説明している。実践編では、解説編で取りだされた思想の方法をツールとして利用しながら、文学や映画を実際に読んでみる。
 対象とした思想家は、フェルディナン・ド・ソシュール(難波江)、ロラン・バルト(内田)、ミッシェル・フーコー(難波江)、クロード・レヴィ=ストロース(内田)、ジャック・ラカン(内田)、そしてエドワード・サイード(難波江)である。(p4)
 上記六人の思想家について知りたいならばまずこれを読むのが早道である。要点を明快に説明してくれているので、特に混乱なく理解できるはずだ。ただ問題がない訳でもない。レヴィ=ストロースやフーコーの解説が初学者には抽象的過ぎること、それは紙幅の都合でもあるのだろうが、そのために個別の著作の内容は殆ど触れられていないこと、である。一方で、バルトの解説は秀逸。サイードを扱っているのも珍しい。
西村義樹
西村義樹・野矢茂樹『言語学の教室』★★★★(20140928)

中公新書2013
「雨に降られた」はよくて「財布に落ちられた」がおかしいのは、なぜ? 「西村さんが公園の猫に話しかけてきた」の違和感の正体は? 認知言語学という新しい学問の、奥深い魅力に目覚めた哲学者が、専門家に難問奇問を突きつける。豊富な例文を用いた痛快な議論がくり返されるなかで、次第に明らかになる認知言語学の核心。本書は、日々慣れ親しんだ日本語が揺さぶられる、“知的探検”の生きた記録である。
 ともかく繰り出される例文が面白い。そしてその例文を「認知言語学」という聞き慣れない言語学がどのように解析していくのか、というところに面白さがある。単なる専門家の解説書ならここまで楽しめるものではなかっただろうと思うと、野矢茂樹の思いつく例文と、彼の哲学者としての「こだわり」こそが本書の「うま味」であると言えそうだ。ただしタイトルに「教室」とは付いていても、決して「入門編」のような記述は期待してはならない。「認知言語学とは?」ということを基本から説明してくれるものではなく、上に述べたように主として例文に推進力を得て講義は進んで行くからだ。それゆえ少なくともチョムスキーのあの面白みの欠片すらない「生成文法」を囓った上で読む必要があるだろう。認知言語学とは「生成文法」の疑問を突くことから出発した(当然である!)ものだからだ。とは言え、少なくとも本書からは「認知言語学」が学問として整理され体系化されているという印象は受けない。むしろ個別の難点を克服することの方に精力が注がれている感があり、従って「目から鱗」と言うわけにはいかない。
貫成人
貫成人『入門・哲学者シリーズ2 フーコー 主体という夢・生の権力』★★★★★(20090831)

青灯社2007
〈理性〉〈真理〉〈人間〉〈生命〉〈主体〉といったものをわれわれは当然のこととして前提しているし、場合によってその存在を疑ったり、問題にしたりしただけで道徳的に非難される。だが、なぜこうしたものはそれほど価値あるものとされているのだろう。また、それは本当に価値があるものなのだろうか。(p5)
 『狂気の歴史』・『言葉と物』・『監獄の誕生』・『性の歴史T』という、フーコーの主要著作四作に絞って、そのエッセンスを解説した入門書は数多いが、そのなかでも最も薄く、そして分かりやすい書。フーコーそのものの主張を丁寧に追うのではなく、その主張の意味を、別のメタファーによってより平易に説明してくれる。いわばフーコーを「鷲掴みにする」内容であり、フーコーの理解はここから始めるのが早道であるだろう。しかしこのシリーズ、全19冊で予定されているのだが、四冊刊行されたところで止まっているのが残念。
貫成人『図説・標準 哲学史』★★★★★(20101108)

新書館2008
「西洋哲学史」は、えてして自己完結的な“物語”として記述される。「ギリシアに生まれた合理的思考法が、ソクラテスによって“哲学”と名づけられ、プラトン、アリストテレスに結実する。それは、キリスト教と混合して中世スコラ哲学を生み、デカルトによって近世哲学として生まれ変わった。その結果生じた、大陸合理論とイギリス経験主義の対立をカントが調停し、そのカントを批判するなかからドイツ観念論が生まれた」といった次第だ。こうした“ヨーロッパの知的伝統”を、ヘーゲルは「理性の自己実現」、フッサールは「理性の自己責任」の完遂ととらえたのだった。
 だがこうした、同一者の自己展開としての把握には、近年、さまざまな異議がある。各時代の「哲学」は、そのときどきの情勢のなかから、そのつど必要な形で生まれたものにすぎない。それをかき集めて、あたかも一貫した展開過程であるかのように叙述したのが、「西洋哲学史」というものだ。『図説・標準 哲学史』は、「西洋哲学史」の代表者たちの考えを紹介するものだが、随所に挿入した地図などによって、こうした従来の哲学史への批判的な考えを多少、反映できたのであれば幸いである。――――貫成人「哲学と世界地図」(「大航海」65号より)
 ある哲学者の「思想」を理解するために、それ以前の哲学者の考えを踏まえる必要はない。しかしそうした知識があることによって、問題の哲学者の「思想」についての理解がより深まることはしばしばある。本書はそのための手軽な見取り図を提供してくれるものである。一人の人物につき2ページ、人物によっては4ページが充てられてその思想が解説される。最大で4ページでは到底語り尽くせるものではないが、ごく大雑把な輪郭線を手に入れておいて損はない。
野矢茂樹
野矢茂樹『哲学の謎』★★★★(20090604)

講談社現代新書1996
「時間は時速1時間くらいで流れている」かな!?
哲学ってこんなに面白い!!(帯より)

「時間」も「行為」も「知覚」も「意味」もふだんはその謎めいた姿を隠している。しかし、われわれは自分たちで感じている以上に混乱しているのではないだろうか。おそらく、われわれの諸概念は整合していない。いくつかの概念が、そしていくつかの見方が、どこかでうまく噛みあえずに音を立てている。言語と実践に仕掛けられたこの毒は、容易に原因を悟られることなく、どこかで我々を(しび)れさせる。(「はじめに」)
 現代哲学にとって何が問題か、そしてそれがどのように考えられているか、ということを簡単に知るには最適な本。主として分析哲学系のテーマについて扱っているのだが、そうした知識なしに読める。「論理」とは何か、「論理」を突き詰めるとはどういうことか、そしてその先にどんな眺望が開けるのか。「地に足の着いた」足跡を辿って到着した地点は、凡百の脳科学者が百万言を費やしても辿り着けない高みなのだ。
野矢茂樹『無限論の教室』★★★★★(20091231)

講談社現代新書1998

ぼくが大学で受けた中でもっとも不人気だった講義の話をしよう。
大学に入ったばかりの春から、その夏までのことだ。
まだ友だちもいないし、先輩もいなかったので、ひとりで漫然と授業案内を見て、
まさかこんなに不人気だとは知らず、なんとなくその教室に向った。
最初、ぼくは教室をまちがえたか休講なのかと思った。
だけどよく見たら隅の方に女子大生が一人いた。
ぼくは彼女と反対側、窓際の隅に腰掛けて、先生が来るのを待った。(p3)
 本人が楽しんで書いているのが良く分かる作品。物語形式、会話文主体で進行する無限論。数学におけるセンス・オブ・ワンダーを感じ取ることができる。本人の手によるイラストも味わい深い。何より「カントールの思う壺」のイラストは超級の傑作。
野矢茂樹『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』★★★★★(20100902)

ちくま学芸文庫2006
二〇世紀哲学の方向性を決定づけたウィトゲンシュタイン前期の書『論理哲学論考』。この衝撃的著作を、哲学界きっての柔軟な語り口で知られる著者が分かりやすく読み解き、独自の解釈を踏まえて再構築する。ここでは単なる歴史的価値を超えて、『論考』の生き生きとした声を聴くことができるだろう。本書は、こう締めくくられる――「語りきれぬことは語り続けねばならない」。比類なき傑作読本にして、たまらなくスリリングな快著。ウィトゲンシュタイン思想全体の流れの中で『論考』を再評価する新原稿、「『哲学探究』から見た『論理哲学論考』」を付した増補決定版。
 『『論理哲学論考』を読む』という本を読んでも、『論理哲学論考』を読んだことにはならない。当然のことである。他方、「『論理哲学論考』を読む」などというゼミに出たりすると、それは『『論理哲学論考』を読む』という本を読むのではなく、『論理哲学論考』を読むことになる。これもまた、当然のことである。しかし私としてはそこを曲げて訴えたい。本書を読むことは、『論理哲学論考』を読むという体験でもある。つまり、私が開講する「『論理哲学論考』を読む」というゼミに参加するような体験を、本書で味わっていただきたい。実際、私はそのようなゼミを東京大学大学院において行なった。そうしてこの薄い著作を検討するのに三年かかった。石の上でもがまんしていれば何かいいこともあると言い伝えられている年月である。そんなにかかったのかという感想もあるだろうが、よく三年で終わった(というか、そもそもよく終わった)という声も聞かれた。まことに、『論理哲学論考』というのはそういう著作なのである。そして私はその三年の成果を本書に凝縮した。(「はじめに」p13)
 冒頭の著者自身の言葉に見事に表されているように、軽妙かつ洒脱な言葉遣いによって、『論理哲学論考』という恐ろしく鞏固な漢文を、実に平易に読み下した書。この書を読めばもはや『論考』は難解ではない。それどころか言語の取り扱いについて、『論考』及び『哲学探究』がどれほどにソシュールの問題系に接近していたか(というより、寄り添っていたか)ということが手に取るように理解できる。
野矢茂樹『語りえぬものを語る』★★★★★(20110715)

講談社2011
 猫が鳥に襲いかかる。逃げられる。でも、惜しかった。そのときその猫は、「もう少し忍び足で近づいてから飛びかかればよかったにゃ」などどいう日本語に翻訳できるような仕方で後悔するのだろうか。私の考えでは、しない。いや、できない。猫は、そして人間以外の動物は、後悔というものを為しえない。なぜか。(P10)
私は現実には大学の教員をしているが、もしかしたら大リーガーであったかもしれない。もちろんそれがふつうの意味では「ありえない」ことなのは私が一番よく承知している。だが、能力的に実現不可能であっても、思考不可能ではない。「もし私が大リーガーであったなら」と反事実的な想像をすることは別に矛盾ではない。私が大リーグでホームランをばかすか打つ。どこに矛盾があろうか。(P11)
 『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』の最終章は「語りきれぬものは、語り続けねばならない。」という言葉で締め括られていた。従って本書は「語り続けること」の、野矢による実践である、と言える。章ごとに付された「註」は、本書においてより深く理解するための手がかりとなるだけではなく、『『論理哲学論考』を読む』を理解する助けともなる。軽妙洒脱な語り口で世界の根本について語り続ける野矢茂樹の「現在」がここにある。

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