【評価段階】
★★★★★──読まねばならない。
★★★★───読んだ方がよい。
★★★────参考程度に。
★★─────暇なら読めば?
★──────見なかった振りで通り過ぎよ。

【ま】
松田美佐
松田美佐『うわさとは何か』★★★(20140918)

中公新書2014
デマ、流言、ゴシップ、口コミ、風評、都市伝説……。多様な表現を持つうわさ。この「最古のメディア」は、トイレットペーパー騒動や口裂け女など、戦後も社会現象を巻き起こし、東日本大震災の際も大きな話題となった。事実性を超えた物語が、人々のつながり=関係性を結ぶからだ。ネット社会の今なお、メールやSNSを通じ、人々を魅了し、惑わせるうわさは、新たに何をもたらしているのか。人間関係をうわさから描く意欲作。
 主として心理学や社会学の分野における「うわさ」研究が通覧される便利な書。とはいえ、心理学や社会学の分野が「うわさ」研究になした貢献はそれほど多くないし、そして真に意味のある貢献といえばタモツ・シブタニの『流言と社会』くらいのものだろうから、本書で通覧できなくてもそれほど困ることはないのだが。加えて本書では、ネット時代のうわさに視点が当てられているのが他の類書とは異なる点だろう。ただしその視点は、うわさのネットワークに参加している人々の「意識」や「動機」に焦点が置かれている点が物足りない。つまり「誰が、どのように」が扱われるのみで、「何を」が抜けているのだ。しかしうわさ研究においては「何を」こそが肝要だと思うのだが。換言すれば、ここには「うわさ」に対するディスクール分析、ないしは物語論的アプローチがすっぽりと抜け落ちているのである。それは社会心理学系の著者であるから仕方ないとは言えるのだが。
丸山圭三郎
丸山圭三郎『ソシュールを読む』★★★★(20110807)

岩波書店1983
 確かにソシュールは言語学批判を行った。しかし、実はエピステモロジーという言葉からもおわかりのとおり、もはやソシュールの問うていたことは単に狭い意味での言語学批判にとどまらず、言語学とか心理学とか、経済学とか、哲学とかいう、そういう既成の学問の枠組みそのものがおかしいんじゃないかということだったことも忘れてはならないでしょう。これは、このセミナーの中心課題である記号学(、、、)という営為と無関係ではありません。(p12)
 ソシュールの「構造言語学」を、単なる言語学に止まらず、より大きな学際的視野において位置づけようとする試みを平易な語り口で述べた良書。ではあるがそれゆえに、タイトル通りの「ソシュールを逐語的に読む」という内容ではない。ある程度の構造言語学理論に通暁していなければ理解は容易ではない。ソシュールをより詳しく知りたい人にお勧め。
三浦俊彦
三浦俊彦『虚構世界の存在論』★★★★(20091103)

勁草書房1995
 いずれにせよ虚構は、現実よりも影の薄い異質の反実在ではない。虚構は現実世界の描像に倣って同じ描像があてはまるという意味で実在なのだ。逆に言えば、現実は虚構と同じくらい虚構的である――現実についてのわれわれの実在感如何も、虚構世界についての実在感如何に倣う。現実意識と虚構意識は正確に連動している。一方が実在感を薄めれば、他方も同じく実在感を薄める。これは因果関係というより論理的関係である。これが、われわれの虚構実在論の言わんとするところなのである。(p331)
 哲学・論理学による虚構テクスト論。読みこなすにはかなりの哲学的知識と論理学的知識が必要であるが、論理式の部分は読み飛ばしてもある程度の輪郭はつかめる。物語という虚構が、現実とどのような関係を持っているのか、そしてどのように同じでどのように異なるかということの今日における概略を知るのにも最適である。「物語を語る・書く」とは、果たして「異世界の創造」であるのか、それとも「異世界についての報告」であるのか。それとも単に「単なる音の連続・インクの軌跡」でしかないのか。物語に対していかなる立場を引き受けるかによって、現実に対していかなる立場を引き受けるかも変化する。物語論とはそのまま現実論である。
茂木健一郎
茂木健一郎『意識とはなにか ――〈私〉を生成する脳』★(20090904)

ちくま新書2003
 太陽の輝き、朝のコーヒーの香り、小鳥のさえずり……私たちの意識は鮮やかな質感(クオリア)に満ち満ちている。物質である脳が、心の中に、そうしたユニークな感覚を生み出すのはなぜか? 人類に残されたこの究極の謎を解きほぐす鍵は、他者との関係性の中でダイナミックに変化する脳のはたらきにある。既存の科学的アプローチが解明できずにきた難問に新境地を展開する画期的論考!
 もしも茂木が日本の脳科学研究のトップランナーであるならば、それは実に残念なことである。よもやそのようなことはあり得ないと思いたいが。なぜなら、この書には、自然科学的な「意識」の研究がどの段階でどのように道を踏み外して行きつつあるのかが明らかにされており、しかもそのことを書いている本人が全く自覚していないからである。茂木は「私たちが心の中で感じるさまざまな質感を表す言葉(p25)」としての「クオリア」なる概念が、「意識」の解明に役立つのだと主張したいようだが、その理由については論旨が明確であるとは言えないし、ではどのようにして「クオリア」を定量的に捉えるのかという点については何も語らない。「クオリア」は〈質〉であるから定量的に捉えられるはずもない、という主張はあらかじめ成り立たない。定量的な把握を放棄するならばそもそも自然科学的なアプローチそのものが意味を成さなくなるからだ。従ってこの書は、『唯脳論』と同じく、「単なる思いつきで書かれた本」の域を出ない。それゆえ至る所に綻びが存在する。
例えば次のような記述がある。
朝起きて飲む一杯のコーヒーの香り。バターをたっぷりつけたトーストの歯触り。洗面所で顔を洗う時の、水のひんやりとした感触。顔の筋肉が引き締まる感覚。服に袖を通した時の、布地が皮膚をマッサージする触感。風がほほをなでる感覚。こずえでさえずる鳥の鳴き声。これら、私たちの意識的体験をつくり出しているものたちは、それぞれとてもユニークなクオリアとして意識の中で感じられている。(p27)
 これらがすべて「ユニークなクオリア」、すなわち「互いに異なったクオリア」であるならば、「朝起きて飲む一杯のコーヒーの香り」と、「夜寝る前に飲む一杯の煎れ立てのコーヒーの香り」もまた、違っているのだろうし、「夜寝る前に飲む一杯の煮詰まったコーヒーの香り」は、さらにそれらとは異なっているのだろう。そして「夜寝る前に、一仕事終えた開放感に浸りながら飲む、一杯の煎れ立てのコーヒーの香り」は、これはこれでユニークなものなのだろう。加えて「夜寝る前に、明日もまた残業だなとうんざりしながら飲む、一杯の煮詰まったコーヒーの香り」もまた、他とは異なるユニークなものであるはずだ。とすると、「クオリア」は状況の数だけ存在することになるのではないだろうか? 異なる状況において常に異なる「クオリア」が存在するのならば、「クオリア」という用語は一体何を共通項として持っているのか? つまり、あれとこれとを「クオリア」としてまとめる共約部分とは何か? それは結局のところ、「意識内容として個別化されたもの」でしかない。従って個別化されればすべてそれぞれがユニークな「クオリア」なのだ。つまり「コーヒーの香り」も「クオリア」ならば「朝起きて飲む一杯のコーヒーの香り」もそれとは異なる「クオリア」である。そうすると「クオリア」の種類は無限であることになりはしないか? 結局「個別化」と「クオリア」は同義である。そして「個別化」とは即ち単純に「言語の連鎖」である。そのことに茂木は気づいていない。ここに茂木の限界がある。
 言語についての現代的な理解があれば、「クオリア」は必要ない。と言うより、言語についての理解が古典的でなければ「クオリア」という奇怪な発想そのものが成立しない。相変わらずの「言語名称目録観」における古典的な言語観が、未だに自然科学分野には根を張っているのか。構造言語学的な言語理解、そして哲学における心身問題、そうしたプロブレマティークを持つ時、「クオリア」は完全なカテゴリーミステークであることが明らかになる。「クオリア」とは、何の意味もない妄論である。
森真一
森真一『自己コントロールの檻 感情マネジメント社会の現実』★★★★★(20110605)

講談社選書メチエ2000

〈感情は危険なものです〉〈「感情の知性」を習得して、よりよいあなたに!〉……。
高度な合理化とセルフコントロールが支配する「心理主義化社会」の時代。
携帯技能(ポータブルスキル)=「心の知識」が可能にしたソフトな「鉄の(おり)」。その新たな管理の現実とは?
「人格崇拝」「マクドナルド化」をキーワードに、現代社会の息苦しさを解読する。
 知識社会学の方法論を応用しての現代社会分析の中にあって珍しく(?)、面白く読める書である。「心理主義化社会」という視点を軸に展開する論には説得力がある。心理学のある一派――安易な上に権威主義的であり、かつ体制肯定的で、それ故にあまりに危険な――がこの社会を覆い尽くす前に読んでおくべき一冊であるだろう。

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