【評価段階】
★★★★★──読まねばならない。
★★★★───読んだ方がよい。
★★★────参考程度に。
★★─────暇なら読めば?
★──────見なかった振りで通り過ぎよ。

【は】
橋爪大三郎
橋爪大三郎『はじめての構造主義』★★★★(20120914)

講談社現代新書1988
西欧文明中心の近代に終わりを告げ、現代思想に新しい地平を(ひら)いた構造主義。レヴィ=ストロースの親族・神話研究の、鮮やかな方法と発想の背景に見えてくる、ソシュール言語学やモースの贈与論。そして遠近法にまでさかのぼる、数学史の水脈に隠された〈構造〉のルーツ。モダニズムからポスト構造主義への知の戦線に、軽快な文章で歯切れよく迫る!
 比較的古くからあるレヴィ=ストロース及び構造主義についての解説書。かなりコンパクトに纏められていて、それなりに面白いのだが、初学者にとっては章毎の連環が分かりにくいかも知れない。親族の基本構造についてもあっさりし過ぎであるし、トーテミズム論については触れられていないに等しいのが難点。しかし一方で、数学における射影幾何学や遠近法という角度から構造主義を解説するという独自性を持ち、そこが本書の肝であるだろう。
橋爪大三郎『初めての言語ゲーム』★★★★(20091206)

講談社現代新書2009
 1904年のこと。
 2人の若者が、オーストリアのとある工業高校に通っていた。成績のぱっとしない2人の男子生徒が、歴史に名を残すことになろうとは、本人たちも夢にも思わなかったろう。ひとりを、アドルフ・ヒトラー。もうひとりを、ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインという。ヒトラーは、それから29年後の1933年、ナチス党首として、首相に就任する。そのあと独裁者となって、1939年には第二次世界大戦をひき起し、数百万人のユダヤ人を殺害した。いっぽう、ユダヤ人だったヴィトゲンシュタインは、英国に難を逃れ、1951年にその地で一生を終えている。ヒトラーほど有名ではないかもしれないが、彼こそ、20世紀を代表する哲学者。そして、本書の主人公である。(p9-10)
 楽に読めるウィトゲンシュタイン入門書。他のどの解説書よりも分かりやすいこの書ならではの説明が多数あり、より詳しい解説書と併読することを勧める。特にタイトルにもある通り、「言語ゲーム」の説明は秀逸。ただし、第8章以降、法解釈・仏教解釈などの応用部分は牽強付会ではないにしても説明不足かつ急ぎすぎであって散漫な印象を受ける。第7章までが優れているだけに惜しい。
橋元淳一郎
橋元淳一郎『時間はどこで生まれるのか』★★(20090410)

集英社新書2006
なぜ時間は過去から未来に流れるのか。なぜ過去は定まっているのに、未来は未知なのか。相対性理論や量子論などの物理学を踏まえたうえで、こうした素朴な疑問に答える時間論は、これまで殆どなかった。現代物理学の知見を考慮しなかったり、日常の感覚を無視して議論していたためである。
 本書は、科学が明らかにした時間と空間の本質を基本としながらも、人間が日常的に感じる時間の性質を解き明かそうと試みる。人間的時間と物理学的時間を統合する、目からウロコの画期的な時間論。
 「時間はどこで生まれるのか」。その問いに対する著者の答えを一言にまとめるなら、「生きる意思のあるところに生まれる」となるだろう。そして「生きる意思」とは、端的に「生命」そのものがアプリオリに持っている“方向性”とでもいうようなものらしい。だとしたら、そのような宣言を前にして、こう呟くより他にはない。「そりゃ、そうでしょうとも」。死んでいる者が、時間を気にすることなどまずあり得ないからだ。仮にあったとしても知りようがないし。
 確かに、物理学的知見を時間や空間の考察に導入することには意義があるだろう。とはいえ、物理学的知見を哲学的な知見より上位に置くことに、どんな正当性があるというのだろうか? ミクロな世界では時間の流れや向きは存在しないといったところで、それがマクロな世界=日常世界の時間の考察に貢献できなければ意味はない。そして残念ながら著者の試みは失敗していると言う他はない。何より、物理学的な説明以外の場所における用語使用が極めて大雑把で、かなりの飛躍が存在する。その上最大の弱点は、著者が頻繁に引用するマクタガートの時間系列に対する誤解である。著者の中ではどうやらB系列(=年表に象徴される、先後関係を持った事項の羅列)とC系列(=先後関係を持たない事項の羅列)とがはっきりとは区別されていないらしく、あちこちでこの二つが混同されている。しかもマクタガートは、「A系列は矛盾である。ゆえに時間は実在しない」との主張のために時間系列を二分類(A系列とB系列;C系列は時間観念を有しない)したのであって、その分類のみを用いながら、著者は一足飛びに「生命はアプリオリに主観的時間(=A系列)を持つ」と宣言する。つまりマクタガートはほったらかし。それとも、「ミクロな世界では時間の流れや向きは存在しない」ということが、マクタガートへの同意宣言なのだろうか? だとしたら論理構成があまりにも稚拙である。  結論:すべての点で中途半端な著作。
服部裕幸
服部裕幸『言語哲学入門』★★★★(20100517)

勁草書房2003

 第一章 言語哲学とは何か
 第二章 意味と指示
 第三章 記述の理論
 第四章 固有名の問題
 第五章 意味についての検証主義
 第六章 意味懐疑論と翻訳の不確定性
 第七章 サピア=ウォーフの仮説
 第八章 プラグマティックス
 第九章 私的言語論
 第一〇章 言語についての知識の本性
 第一一章 言語の体系的研究の可能性(目次より)

 今日の哲学は「言語」の考察を抜きにしては語れない。現代哲学が言語をどのように把握しているか、そこでは何が「問題」なのか、ということを手っ取り早く知るには良い本。ただし、著者も述べているように「複数のアイディアが紹介され、その利点や難点が検討されることになるが、必ずしも一つの「正解」に達するとはかぎらない(pi)」のがもどかしいと言えばもどかしいが、入門書としてはこれで正解ではあるだろう。構造言語学を把握してから臨むとさらに理解が深まる筈である。
原ひろ子
原ひろ子『ヘヤー・インディアンとその世界』★★★★★(20110907)

平凡社1989
 ヘヤー・インディアンは英語でHare Indiansと書く。Hareはウサギのことである。(p32)
 この呼び名は、ヘヤー・インディアンが、スノー・シュー(雪ぐつ)・ヘヤーもしくはヴェアリング・ヘヤー(夏は茶色、冬は白に変化するので)と通称されるウサギに強く依存している故につけられたらしい。(p32)
外からの観察者である私が、彼らのまわりにあるいわゆる自然と人間である彼らとの関係を眺めてみると、次のようなことが言える。すなわち、ヘヤー・インディアンは、自然と対立(、、)し自然を征服しようという気持ちをぜんぜん持ち合わせていない。また、自然との調和(、、)を保ちつつ生活すべきだとも考えていない。彼らは、一人ひとりが、寒さや、風や、飢えや、けだものや鳥や魚と競争し、知恵くらべをしていると思っている。そして、いつも、自分が相手に負けそうになったり、勝ってみたりしながら人生を送るのだ。(p36)
 カナダ北部、北極圏付近、著者の表現によれば「日本の本州の五分の三近い土地」に「三〇〇ないし、五〇〇人」が生活する狩猟採集民族、ヘヤー・インディアンのフィールドワークに基づく民族誌。フィールドワーク自体は1962年に行なわれている。この民族が有名であるのは、彼等の社会が「超個人主義」的であることによって、である。
 G・P・マードック(G.P.Murdock)というアメリカの人類学者が、一九四九年に書いた『社会構造』という本のなかで、「夫と妻とその子どもたちが共に生活し、夫と妻の性的欲求を満たし、経済的心理的に協力し、その子どもたちの育成の場となる」核家族は、人類のすべての社会に普遍のものであるという説を出した。いわゆる大家族のなかにも、この核家族は下位の単位として含まれているのだという。しかしヘヤー・インディアンに関する限り、マードックの定義に合うような、生活集団としての家族は存在しない。(p258)
 それゆえ著者は、「家族」という言葉でヘヤー・インディアン社会の構成単位を記述することができず、一生続く一時的な同居関係との意味での「テント仲間」という用語を用いざるを得ない。そしてこの事実は、「家族」という概念が単に西欧近代の局所的な単位であるに過ぎないことを明らかにする。そして翻って「個人主義」なる概念もまた、西欧近代の「発明品」ではないことが明らかにされるのである。
 零下五〇度にもなる苛酷な環境で生きる狩猟採集民族の生活を、実に平明な口調で綴る優れた民族誌。
本多勝一
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本多勝一『ニューギニア高地人』★★★★★(20151009)

朝日文庫1981
 モニ族・アヤニ族など、私たちと生活を共にした高地パプア人が、どのような態度で私たちと接したか。これまでの物語で、ある程度は理解していただけると思う。このような人々が、なぜ「ヒト食い人種」としてきめつけられているのだろう。実際は、やはり人食いをやるのだろうか。手もとにあるニューギニア本島の文献(単行本)から、「ヒト食い人種」をうたった題名の本を並べてみよう。(カッコ内は著者の国籍)――『食人種の谷』(アメリカ)・『最後の食人種』(デンマーク)・『私の父は食人種』(スウェーデン)・『人喰人種の国』(日本)……。
 このほか副題や目次に食人種をうたったものはいくらでもある。だが右の単行本の中で、著者として食人の事実を目撃した者は一人もいない。すべては推定か、そんなハナシを聞いただけにとどまる。(p145)
 ジャーナリストによるフィールドワーク。『ヤノマミ』もそうだが、専門家ではない人物の記述だけに、現地の人々の生活の状況が楽しく読める。もちろん一方で専門的な面で「知りたいことが書かれていない」ということもあるにはあるのだが。とはいえ道具や歌、そして隣接する部族間での言語の差異など、かなり詳しいデータが掲載されている方ではある。また見逃せないのは、ここでもいわゆる「食人」に関しての疑問が提起されている点である。「食人種」と言えばニューギニアはその汚名を常に被り続けてきた地域である。しかしそこへ赴いて、しばらく暮らして無事に帰ってきた人物の記録は重く受けとめねばならないだろう。
 冒険の物語でありつつ、民族誌でもある一冊。しかも文庫版である。




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