【評価段階】
★★★★★──読まねばならない。
★★★★───読んだ方がよい。
★★★────参考程度に。
★★─────暇なら読めば?
★──────見なかった振りで通り過ぎよ。

【あ】
青木薫
青木薫『宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論』★★★★(20130907)

講談社現代新書2013
この宇宙は人間が
生まれるようにできている!?

一見、トンデモ科学のような考え方が、
21世紀に入った現在、科学者のあいだで
急速に支持を拡げている――

いったい何が変わったのか?

激変しつづける宇宙像のいまを、
2000年以上におよぶ
人類の知的格闘の歴史から読み解く。
 「人間原理」の解説を特徴とする天文学の解説書。とは言え遥かメソポタミアから説き起こすものだから肝心の「人間原理」の説明が走りすぎで今一つ満足できない。むしろ「人間原理」という考え方が出現して以後の天文学に説明を絞って欲しかったところである。しかしとりあえずは「人間原理」が何であるのか、ということは理解できるだろう。そしてその一方で、そんな当たり前な――社会科学の立場からすれば、「人間原理」の内容は実に平凡極まりない上に、「何でそんな当たり前のことが問題になるの?」とでも言いたくなるような内容なのだが――考え方を取り込むことによって、天文学の宇宙像はますます、ウィトゲンシュタインの言う「論理空間」へと近づいているという印象を持つ。そのうち天文学において「論理宇宙」などという用語が出現するのかもしれない。
足立和浩
足立和浩『知への散策』★★★★★(20091122)

夏目書房1993
 本書第T部は、エクリチュール――書くこと、文字、文章表現、文書、書法――の問題性(プロブレマティーク) をめぐって、現代のフランス思想が直面している数々の問題状況を、統一的にというよりは拡散=散策的に「解説」しようと試みたものである。意識と無意識、正常と狂気、反人間中心主義と想像力、知と権力、パロールとエクリチュール、自然と文化、アトミズムと相互主観性、等々に関して、諸家の具体的分析につき従いつつ、いたずらな枝葉は切り捨て、その本質的道筋を見失わぬよう「紹介」に努めたつもりである。(「はじめに」)
 本書は第T部「エクリチュール」、第U部「ブランショ」という二部構成であるが、注目すべきは第T部である。ここでは「エクリチュール」というキーワードによって、現代思想の主要な思考をいわば「横断する」試みであり、その観点において、多様な思想家の主張が最終的に一つの曼荼羅を構成する。初学者にとっても比較的読みやすい文体であり、現代思想が「何を問題としていたのか」ということを知るには最良の書である。一方、ラカン、レヴィ=ストロース、バルト、フーコーなどの著書についてのある程度の知識があれば、彼らの思考がどこでどのように重なり合うのかが明確に理解できるはずである。
飯田隆
飯田隆現代思想の冒険者たちSelect ウィトゲンシュタイン 言語の限界★★★★★(20091122)

講談社2005
言語の限界(die Grenzen der Sprache)
哲学上の問題とは言語がどう働くかについての誤解から生じてくる。言語の限界に突き当たって思考が (こぶ)を生み出しているのである。哲学とはこれを取り除き、問題をその根から断つことである。哲学とは理想的な言語を作ることではなく、すでにある言語の使用を明らかにすることであり、通常の言語使用の底に隠されている、誤った先入見を暴こうとする営みである。
 孤高にして奇行の哲学者、ウィトゲンシュタインの著作は悉く素人の歯が立つ内容ではない。従って丁寧な解説書は必須となる。その点で本書は最適である。前期『論理哲学論考』、後期『哲学探究』の両方に目配りの効いたバランスの良い内容に仕上がっている。と同時に、ウィトゲンシュタインの伝記についても丁寧に叙述される。ウィトゲンシュタインという人物が如何に生き、何を考え、それが哲学界に如何なる影響を及ぼしたか、それらが実に分かりやすく述べられている。本書を読めば、この哲学者に興味を持つことができるだろう。
石川幹人
石川幹人『「超常現象」を本気で科学する』★(20140906)

新潮選書2014
幽霊・テレパシー・透視・念力……。我々を驚かせてきた不可思議な現象の数々は、多くの人に関心を持たれながらも「非科学的」、「オカルト」と否定されてきた。だが、それこそが科学の挑むべき謎だとして、あくまでこれを「科学的」に研究してきた人々がいる。「何がどこまで解明できたのか?」。そして「何が未だに謎なのか?」。明治大学教授が、異端の科学の最先端を案内しながら、「科学とは何か?」の本質に迫る。
 タイトルどおり、超常現象を「本気で科学する」のだそうである。そして著者は冒頭において、このように宣言する。
最初にはっきりと断っておきますが、私はオカルトの信奉者ではありません。それどころか私は大学で、オカルトやエセ科学、疑似科学の非科学性、反社会性を説く、「科学リテラシー」という授業科目をながらく受けもっています。(p12)
 とは言うものの、ここに展開されている論理はかなり「信奉者」寄りである。その上かなり脆弱な――ほとんど入学したての大学生レベルの――論理にしたがって牽強付会かつ我田引水な論述が展開されてゆくのである。
 たとえば本書で最初に検討が加えられている幽霊であるが、それが実在しないのはすでに明らかであり、したがって、幽霊が存在するか否か、ということについて考えても無意味である。それは次のような問いかけによってたちどころに判明する。すなわち、

「なぜ幽霊は服を着ているのか?」

 仮に人間の精神が、その肉体の活動停止後も存在することが可能だとして、ではなぜそれが衣服を身に纏っているのだろうか? 死者の霊が衣服を着ているならば、衣服という「同一のものが同時に二つ」存在することになる。実在論者がこの矛盾について説明できるとは思わない。幽霊の存在についての致命的な弱点は、幽霊はおしなべて裸ではない、というところにある。それゆえ、石川が改めて言うまでもなく、幽霊は当初から心理的かつ社会的存在なのだ。
 さて、石川は幽霊の核心を「恐怖」という感情に求める。そしておそらく「恐怖」は「危険の予知」であり、それは生きる残るために役に立つ、それこそが幽霊の意味である、と――議論が跛行していてかなり把握しにくいのだが――言いたいのだろう。しかしそれは「幽霊の効用論」であって、「幽霊の存在論」ではない。幽霊は心理的・社会的に「存在する」という発言は、結局は「存在しない」と言うに等しい。そして存在論を効用論にスライドさせたからといって実在論者が納得するとは思えないし、否定論者もまた納得はしないだろう。なぜなら石川の論理は、「幽霊」という「現象」を宗教論や生命論、共同体論などから引き剥がし、ごく単純な「生存論」へと押し込めることにほかならないからだ。石川に訊こう。ではなぜ人々は、幽霊について好んで語ろうとし、聞こうとするのか。それは「生存」のためなのだろうか? と。
 超能力についての議論もまた同様である。超能力とスポーツ選手の「ゾーンに入る」体験や一般的な創造性は異なる。それこそ著者の言う「社会的な存在のあり方」がそもそも異なる。それを同一視するのも乱暴な論理としか言えない。
 加えて本書には、幽霊と超能力を同時に扱える「超心理学」という分野自体への反省がない。「超心理学」という言葉を使うならば、まずそのスタンスを明らかにして欲しい。それが単なる「心理学」ではなく、そして「社会学」でもない理由はどこにあるのか。扱う対象がいわゆる「超常現象」であるから? ならば超常現象を心理学的に、あるいは社会学的に解明する、で良いはずだ。そのようなアプローチをしないのは話題性を狙ってのことだ、と判断されても仕方がない。超能力と霊現象、すなわちエネルギーと信仰を同時に扱えるような論理がここには見出せないからである。

 結論。著者にはもう少し科学リテラシーを養っていただきたい。
井上京子
井上京子『もし「右」や「左」がなかったら 言語人類学への招待』★★★(20100927)

大修館書店1998
しかし、何と言ってもブラウンとレヴィンソンにとって最もショッキングだったのは、ツェルタル語に「左」と「右」にあたる語彙が存在しない、という事実に直面したことである。
 さらに、この「左」「右」の語彙不在はツェルタル語だけの特異な状況ではなく、レヴィンソンの別の調査地であるオーストラリア先住民族のグウグ・イミディール語でも観察された。それまで心理学会では、人間の「自己中心的」(geocentric)な空間認知が当然のこととされていたが、実は必ずしもそうではないことが立証され始めていたのだ。言語によっては自分の他に「中心」を置くものもあるという事実が、グウグ・イミディール語のような非インド・ヨーロッパ語を探ることによって、明らかにされたからだ。(p6-7)
 「右/左」の対立は、例えば「鏡像問題」において、「鏡は何故、左右だけを逆転させるのか」と問われ、ロベール・エルツ『右手の優越』において、「諸文化は何故、左に対して右を優越させるのか」と問われる通り、空間認知から文化の性質に至るまでの幅広い領域において謎であり続けている。だがその対立そのものが存在しないとすれば、そのことは上記問題をどのように変質させるのだろうか? その点で本書は実に興味深い材料を提供してくれるものである。ただし残念ながら、事例や実験結果を淡々と述べるだけであって、考察そのものがまるで存在せず、中途半端な民族誌としての体裁しか持たないのが難点。
入不二基義
入不二基義『哲学の誤読 ――入試現代文で哲学する!』★★★★(20100719)

ちくま新書2007
 哲学の文章は「誤読」の可能性に満ちている。すべてを人生や道徳の問題であるかのように曲解する「人生論的誤読」、思想的な知識によってわかった気になる「知識による予断」、「答え」を性急に求めすぎて「謎」を見失ってしまう「誤読」、そして新たな哲学の問いをひらく生産的な「誤読」……。本書は、大学入試(国語)に出題された野矢茂樹・永井均・中島道義・大森荘蔵の文章を精読する試みである。出題者・解説者・入不二自身・執筆者それぞれの「誤読」に焦点をあてながら、哲学の文章の読み方を明快に示す、ユニークな入門書!
 大学入試問題に哲学者の文章を出題してはならない。我々の社会では、少なくとも大学入試に臨むまでの期間において、ロジカルな推論の進め方というものを学ぶ機会が皆無だからである。まして非実体論的な思考に触れることなど――学部や学科にもよるが――、大学在学中においてすら稀である。従って哲学ほど人々から縁遠いものはない。であるから、例えば野矢茂樹のような平明極まりない文章に臨んだとしても、その読みは往々にして「授けられた/教えられた」読みへとこじんまりと落ち着いてしまう。しかしその「授けられた/教えられた」考え方を打破して行くのが哲学という存在であるならば、それが出題されたとして一体どれだけの受験者が文章の内容を汲み取れるというのだろうか? 本書は哲学者の文章を題材とした、入試問題の模範解答を題材として、哲学者自身の言葉を読むという、実にユニークな書であり、「誤読」が如何にして生じるか、ということが良く分かる。解答者である受験者の典型的な「誤読」があればなお「読み」の差異が表れたであろうと思う。
大黒岳彦
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大黒岳彦『謎としての“現代”』★★★★★(20151004)

春秋社2007
 本講義は、情報社会時代の思想的な屋台骨をなしているポストモダニズムといかに闘い、それをいかに超えるか、という明確な実践的目標をもった哲学入門です。ですから、そのスタイルは当然戦闘的にならざるを得ませんし、構成もまた時系列や分野に従う、というよりもアクチュアルな問題のネットワークを反映したものとなっています。(pi)
 第一章が「倫理」、第二章「他者性」、第三章「心身二元論」、第四章「言語」、そして第五章「メディア」という五章構成からなる哲学の入門書。このうち第一章と第五章は他の入門書ではあまり扱われていない内容であり、それだけでも読んでみる価値がある。特に第五章は、著者自身がかつてNHKの番組ディレクターを務めていた経験を背景にして、通常一派の切り口とは異なる角度からの斬新な視点が魅力である。哲学のみならず、法理論や社会学の考察なども含まれた盛り沢山な一冊。
大澤真幸
大澤真幸『生権力の思想 ――事件から読み解く現代社会の転換』★★★★★(20130401)

ちくま新書2013
死を迫る権力から、生かすための権力へ――これこそ近代への転換であった。そして規格化された従順な身体を規律と訓練によって創り出してきた近代の権力は今や「管理型権力」という新たな形式へと転換しつつある。身体の扱いはどのように移り変わってきたのか。そして現代の我々の生を取り巻く不可視のメカニズムはいかなるものなのか。ユダヤ人虐殺やオウム、宮崎事件などの様々な事例と、フーコーらの権力分析を交差させ、社会を根底で動かすものの正体を暴き出す。
 フーコーの述べた「生権力論」を踏まえて、その後の日本社会での権力形式の変容を考察した書。視点は鋭いし、分析についても学ぶべきところが多くある。ところが大澤の論述は常にある意味難解だという点に加えて、本書は新書という形式であるがゆえに、言葉が足りず、説明がある種短絡しているという印象を免れ得ない。特に宮崎事件についてはその感が強い。決して薄い本ではないが、述べていることの枠組が巨大であるので、さらなる分量を使ってより緻密に述べてほしいと思う。
小沢牧子
小沢牧子『「心の専門家」はいらない』★★★★★(20100301)

洋泉社2002
現在、社会で良きもの、必要とされているものを根底から問う!
ここ五、六年、事件・事故が起こるたびに声高に叫ばれるものに「心のケア」「心の教育」という耳に心地いい言葉がある。
なぜ、この風潮はかくも社会に浸透し、蔓延したのか?
日常の関係に目を向けることを避け、「心の専門家」に依存し、そこに救済願望を託す「心主義」と言いたくなる傾向に対し、長年、臨床心理学の問い直しに携わってきた著者が、この学問の何が問題かを白日の下にさらす。
「相談という商品」を「一緒に考え合う日常の営み」へと取り戻す道を探る試み!
 フーコーの『狂気の歴史』、『監獄の誕生』、そして『性の歴史T 知への意志』において、心理学は常に「権力」構造を構成するものとして描写されていると言える。〈正常/異常〉を振りかざし、その二項対立がいかなる基盤に立つのかを問い直すことのない、いわゆる「俗流」心理学はとりわけその傾向が顕著である。
 小沢はより具体的に、より生々しい場面において、日本社会における「カウンセリングについての資格権限を持つ、とある心理学の一学派」の「権力化」を暴いてみせる。と同時に、カウンセリングという行為そのものに潜む「権力構造」をも明らかにする。「物より心が大事だ」などと脳天気なクリシェを飽きもせず繰り返している間に事態はここまで深刻化しているのである。「心のケア」=「社会・制度へのケアレス」であることを説得力を持って説く書。
小田亮
小田亮『構造人類学のフィールド』★★★★★(20110605)

世界思想社1994
文化は変換の中にしかない!
「異なるもの」との交流を軸に、閉じられた体系を打ち破り、異文化間コミュニケーションの足場を築く、レヴィ=ストロースの構造人類学――その切れ味を鍛え直す。
 従来の異文化の翻訳には、非西欧の異文化を、自文化(すなわち西欧近代の文化)を頂上とする進歩ないし歴史の単線的な階梯の下位に置いたり、自文化の文化の秩序の中に同化させるようなものが多かった。それらは異文化の差異を消す(隠す)ような普遍主義的な翻訳と言えよう。そして一方で、そのような自文化中心主義を克服するために、逆に、異文化は通訳不可能な別の秩序をもっているのだから、そもそも異文化の翻訳は不可能なのではないかという相対主義的な疑問も出されている。
 しかし、構造人類学は、普遍的と称する単一性の秩序に異文化間の差異や多様性を解消しようとも、また、人類文化の普遍性そのものを否定して、文化の差異を各文化の特殊性に閉じ込めようともしない。人類文化の普遍性は、単一性の秩序にあるのではなく、人類文化の多様性を生みだすような翻訳可能性(変換可能性)にあると捉えるのである。(pxiii)
 構造人類学の解説書としてはこれも優れた一冊。レヴィ=ストロース自身が扱ったものではない人類学的な資料を切ってみせることで、レヴィ=ストロースの意図した意味を示してみせるという構成が、これをその他の数ある構造人類学の解説書とは趣の異なるものとしている。まさに「切れ味を鍛え直す」という表現が言い得て妙の一冊。



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