【評価段階】
★★★★★──傑作。
★★★★───秀作。
★★★────凡作。
★★─────駄作。
★──────困作。

【COMICS】
星野之宣
星野之宣『2001夜物語(01)/(02)/(03)』★★★★★(20100602)

スコラ漫画文庫シリーズ1997
【収録作品】
[01]
第1夜 大いなる祖先
第2夜 地球光
第3夜 豊饒の海
第4夜  大渦巻(メールシュトローム) V
第5夜 宇宙の孤児
第6夜 宇宙への門
第7夜 遙かなる旅人
第8夜 悪魔の星
  
[02]
第9夜 天の光はすべて星
第10夜 明日を越える旅
 PART1 われはロケット
 PART2 地球からの贈り物
第11夜 石化世界
 探検隊A 都市
 探検隊B 渚にて
 探検隊C メドゥサとの出会い
第12夜 見知らぬ者たちの船
第13夜 共生惑星
第14夜 最終進化
第15夜 楕円軌道
  
[03]
第16夜 鳥の歌いまは絶え
第17夜 植民地(コロニー)
第18夜 愛に時間を
第19夜 緑の星のオデッセイ
第20夜 遙かなる地球の歌
 連作短編によって、1960年から遙かな未来に到るまで、約500年にわたる人類の宇宙開発史を描く星野SFの金字塔。各話は独立した作品としても読めるが、お互いに密接な結びつきを持つ作品群もある。なおまた、各短編のタイトルの殆どは既存のSF作品のタイトルとなっているのもその特徴である。以下、判明している短編についてのみ、元となる小説を作者とともに挙げておく。また、その他気付いた点も付記しておく。
 第1夜→F.L.ウォーレス「大いなる祖先」・第2夜→A.C.クラーク『地球光』・第3夜→三島由紀夫『豊饒の海』・第4夜→A.C.クラーク「大渦巻U」&E.A.ポー「メエルシュトレエムに呑まれて」・第5夜→R.A.ハインライン『宇宙の孤児』・第6夜→D.ビスチョフ『星界の猟犬3 超宇宙への門』・第7夜→A.B.チャンドラー『銀河辺境シリーズ8 遙かなる旅人』・第8夜→J.ブリッシュ『悪魔の星』、なお物語中に登場するプラカードの文句“EARTHMAN COME HOME”はJ.ブリッシュ『地球人よ、故郷に還れ』の原題であり、主人公のラモン博士とは、映画『エクソシスト2』のラモント神父のもじりであろう。・第9夜→F.ブラウン『天の光はすべて星』、なお物語中のマックス・ミュー博士は神話学者マックス・ミュラーから取られた名前か? ・第10夜→R.シェクリィ『明日を越える旅』及びI.アシモフ『われはロボット』とL.ニーヴン『地球からの贈り物』・第11夜→J.G.バラード『結晶世界』か? またN.シュート『渚にて』及びA.C.クラーク『メデューサとの出会い』・第12夜→B.ショウ『見知らぬ者たちの船』・第13夜→E.C.タブ『デュマレスト・サーガ4 共生惑星ソリス』・第14夜→J.W.キャンベル・ジュニア「最終進化」・第16夜→K.ウィルヘルム『鳥の歌いまは絶え』・第18夜→R.A.ハインライン『愛に時間を』・第19夜→P.ホセ・ファーマー『緑の星のオデッセイ』・第20夜→A.C.クラーク『遙かなる地球の歌』。不明は第15夜(これは『2001夜物語』以前に発表された短編であるためだと思われる)、第11夜、第17夜。
星野之宣『スターダストメモリーズ』★★★(20090913)

スコラ漫画文庫シリーズ1997
   
   
【収録作品】[スターダストメモリーズ」
vol.1 詩人の旅
vol.2 木霊の惑星
vol.3 メリー・ステラ号の謎
vol.4 射手座のケンタウロス
vol.5 鯨座の海
vol.6 セス・アイボリーの21日
「ウラシマ効果」
「ウォー・オブ・ザ・ワールド」
「ターゲット」
「大いなる回帰」
()ける男」
「宇宙からのメッセージ」
「メビウス生命体」
 「スターダストメモリーズ」と題された一連の物語に加えて、既に他の単行本に収録された七つの作品を含む。おそらくは書かれた年代も幅広く、この中では「ウラシマ効果」が最も古いと思える。ともかくも「宇宙」ものという点で全作品は共通しているわけだが、それは言い換えれば「宇宙」が舞台となっているという点でしか共通点はない、ということでもある。コアとなる「スターダストメモリーズ」そのものでも同じことが言える訳で、個々のエピソード相互に共通項はない。それゆえこの中の一つの物語を、例えば『2001夜物語』に紛れ込ませたところで違和感は感じられないだろう。つまりは「スターダストメモリーズ」というタイトルは、そこに収められた一群の物語が同じ媒体に発表された、ということ以上の何かを意味しているのではない。従ってこれらは相互に独立した13の物語から成る、と考えることもできる。そしてこの13の物語の中でももっとも傑作であるのは「セス・アイボリーの21日」であるだろう。これについては既に永井均『マンガは哲学する』において批評がなされているが、ここでそれとは別の角度からの批評をしておこう。
『セス・アイボリーの21日』――あるいは行方不明者の帰還――
 「私」とは誰か。  何をもって「私」という主語は、「私である」という述語を獲得するのか。
 この発言はあまり正確ではない。と言うのも、これでは主語である「私」と、述語としての「私」とがあらかじめ分離されているからである。すなわち【主語=私】と【述語=私】は当初「異なったもの」として把握され、それが反省的な意識によって「私は私である」と判断されているからである。ということはつまり、当初「異なった二つのもの」が最終的には「同じ一つのもの」になるということを意味する。だが何が「同じ」なのか? 何から何まですべて、というはずがない。なぜなら、少なくとも比較対照され、「同じである」ことが判断されるためには、その二つのものは――空間的もしくは時間的に――異なっているはずだからである。それらさえも共有しているならばそれは既に「二つのもの」ですらなく、「一つのもの」であり、従って「同じ」という言葉自体が無意味なものになる。我々はたった一つのものを指さして「同じ」ということはない。
 『セス・アイボリーの21日』には、そのような難問が隠されていると言えるだろう。
 物語は「私の名はセス・アイボリー」で幕を開け、そして救援隊を前にしての「セス・アイボリーです」で幕を閉じる。その二人のセス・アイボリーの姿形は同一である。ならば当然、この二人の人物は同一人物である。どこにも不整合は存在しない。「同じ」という言葉さえ無意味である。それが実際には、「二人」と数えられるセス・アイボリーたちであり、さらに言えば、その間を繋ぐ人物としてのもう一人のセス・アイボリーが存在したとしても、である。セス・アイボリーは複数存在するわけではない。だからこそタイトルが『セス・アイボリーの21日』なのである。『セス・アイボリーたちの21日』ではない。  「その人が誰であるか」を人は外見において判断する。より局所的には、顔において判断する。同じ顔をしていればそれは同一人物である――まれに双子などの場合はあるが、通常ある人物の同定に際して「双子の可能性」をあらかじめ考慮することはほとんどない――。まして同じ名前なら紛れもなく同一人物だ。その同一性への疑いは、多様な書類のかすかな差異や軋み、書類に添付された「顔」と実際の「顔」の食い違い、あるいは同じ「顔」の人物が同時に二箇所以上に存在していること、などにおいて生じるのである。従って、第三者の視点からは、冒頭の「セス・アイボリー」と結末の「セス・アイボリー」の間に一切の齟齬はない。「遭難したセス・アイボリーが21日ぶりに救出された」、ただそれだけの話なのである。
 それゆえ、この物語は「行方不明だった21日の間に、セス・アイボリーに何があったか?」というミステリーとして読むことができる。  さて、そこで作者の腕が冴え渡る。冒頭のセスと結末のセスが同一人物ではなく、それどころか冒頭にも結末にも登場しない――ということはその存在が他者には決して知られることのない、永遠のミッシング・リンクとしての――「第二の」セスが現れる。そして物語は、この、存在しない人物としてのセスを中心に展開する。悲劇とは、主観と客観の噛み違いであり、そして本人の視点と第三者の視点のズレこそが、この物語の味わいである。クローン技術と圧縮学習機という舞台装置によって、三人のセスは寸分違わぬ「同一」人物である。それゆえに「第二の」セスが発する叫びとしての「私がおまえだったら!!」は、結局は「私は私である」という呟きへとすり替えられ、「私には過去もない 未来もない!」という慟哭もまた、過去は「第一の」セスによって回収され、未来は「第三の」セスによって担われていくこととなるだろう。そして、その間にあって「第二の」セスこそが「今」である。「今」とは、過去と未来とに無限に分割可能な「線」であり、そこにはいかなる厚みもない。「今」こそは、過去が未来へと性質を変えて行くその境界でしかない。その意味で、「第二の」セスはまさしく「今」の体現者なのである。「今・ここにいること」の無意味さ。now+here=nowhere。
 しかしそれは、あくまでもセス・アイボリーの個人史レベルにおいてであって、客観的にはセスはただ一人の人物である。既に述べたように、これは単に「事故により、行方不明となった人物が生還した物語」でしかないのだ。しかし一見厚みのないその物語の奥に、さながらフランス装の小説のように複雑で充実した人生の物語が隠されているのである。
丸尾末広
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丸尾末広『瓶詰の地獄』★★★★★(20120716)

エンターブレイン2012
【収録作品】
「瓶詰の地獄」
 「聖アントワーヌの誘惑」
 「黄金餠」
 「かわいそうな姉」
 タイトルに示されている通りに夢野久作「瓶詰の地獄」の原作に忠実な漫画化作品に加えて、絵画「聖アントワーヌの誘惑」や古典落語「黄金餠」を題材に取った作品が並ぶ。影の少ない端正な絵で、独特な異世界を描く筆致は素晴らしい。特に、収録作品では唯一原作を持たない「かわいそうな姉」のように、不幸に見舞われたままの美少女を描かれたらおそらく丸尾の右に出る者はいない。

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