ロラン・バルトは『エッセ・クリティック』において「メタ書物」という概念について語っている。
いわば文学をたえず明日に延ばして、いつまでもいまに書くぞと宣言し、この宣言そのものを文学と化す[……]。(「文学と記述言語」p142)
端的な言い方をするならば、これは要するに「書かない」ということである。何を書くか、どのように書くか、そのことばかりを言い続け、しかしそれを決して文字として固定しない。それが理想の文学のあり方ではないか、とバルトは述べているのだ。何故にそれが理想か。何故ならその文学は、常に流動的であるからだ。流動的であるが故に、いかなる形式の批評でも成功しない。つまりは固定した解釈を許さない。別の言い方をすれば無限に多様な解釈を許容するということでもある。
レムはバルトと逆である。逆でありながらバルトと同じ地点を目指す。存在しない書物の批評によって。それは「非=在」の指示である。「そこだよ」と「ないもの」を指さす。それと同じことだ。「私はこの本を、このように読んだ」と言いながら、「この本」そのものは存在しない。ただ批評だけがある。批評は畢竟、余剰である。その「余剰」しか存在するもののないパラドクス。批評は解釈の固定であると言ったが、存在しないものを固定することなど不可能である。つまりは「メタ書物」の作者と同じことを、逆方向から行なうのがレムの「批評」である。この批評によって、批評された書物が「メタ書物」として現前する。現前するとは言うが、実はそんな書物は存在しないわけで、従って正確には「不在として」現前するのだ。その上、この虚構批評の中には『完全な真空』そのものの書評まで抜かりなく収録されている。つまりは実体として存在するはずの書物が、形式上「存在しないもの」として扱われているわけだ。周到に構築されたクラインの壺。一言で言えば「ややこしい」。
それはともかくも、例えば『とどのつまりは何も無し』や『生の不可能性について』などは、読んでみたいと強く思う。
存在しないんですけどね、そんな本。
全5巻からなるアンソロジーの第3巻。編纂が古いだけに、内容の古さもさすがに拭いきれない。加えて本書は「見えない何か」が物語の肝である作品が多いのも気になる。それで統一されているのかといえばそうでもないところに、編纂の中途半端さを感じるのである。とはいえ、チャールズ・ディケンズ「信号手」はやはり傑作と言えるだろう。収録作は他にナサニエル・ホーソーン「ラパチーニの娘」、イーディス・ワートン「あとになって」、フィッツジェイムズ・オブライエン「あれは何だったか?」、R・キップリング「イムレイの帰還」、A・E・コッパード「アダムとイヴ」、ウィルキー・コリンズ「夢のなかの女」、H・P・ラブクラフト「ダンウィッチの怪」、A・ビアース「怪物」、ウォルター・デ・ラ・メア「シートンのおばさん」。