【評価段階】
★★★★★──傑作。
★★★★───秀作。
★★★────凡作。
★★─────駄作。
★──────困作。

【C】
Arthur C. Clarke
アーサー・C・クラーク『2001年宇宙の旅』★★★★★(20150220)
Arthur C. Clarke“2001:A Space Odyssey,1968”

伊藤典夫訳・ハヤカワ文庫1977
原始的な道具さえ使うすべを知らず、時代遅れになった本能の命ずるままに滅びの道をたどるヒトザルたち。しかし、彼らは謎の石版によって進化の階梯へ一歩を踏み出した。そして三百万年の後、人類は月面に同じ石版を発見したのだった。この石版は人類にとって何を意味するのか? また、宇宙船ディスカバリー号のコンピューターハル9000は、なぜ人類に反乱を起こしたのか? ディスカバリー号の唯一の生存者ボーマンはどこに行き、何に出会い、何物に変貌したのか? なぜ……? 巨匠クラークが、該博な知識を総動員してひとつの思弁世界を構築する現代SFの金字塔!
 最も早い時代に人工衛星のコンセプトを発案していたサイエンティストであり、そしてサイエンスフィクションの巨匠クラークの代表作と言えば『幼年期の終わり』を挙げるか、または本書を挙げねばならない。加えて本書はスタンリー・キューブリックによる同タイトルの映画の解説=解決編という趣きもある。もちろん私見だが、SF映画史上のベスト5は、『エイリアン』、『ブレードランナー』、『コンタクト』、『宇宙戦争』、そして『2001年宇宙の旅』である。五作品のうちでも最も製作年代が古い(1968年!)にもかかわらず、その古さは僅かに登場人物のヘアスタイルに見出せるのみ、という恐るべき耐久性を持つ映画『2001年宇宙の旅』は、物語の難解さでも有名で、観ているうちに上記あらすじに語られている通り幾つもの「?」が浮かぶ。本書はその謎に答えるべく、映画のコンセプトを構築した本人によるノヴェライズである。ただし映画では木星であった物語後半の舞台が、本書では土星へと変更されていたりといった異同も少なからず存在する。いわば「宇宙船地球号」という、後の時代に流行するあの安易なエコロジー思想の原型ともなり、さらにその後も繰り返し繰り返し、飽きることなく再生産され続けている「生命」のモデルが本書にある。
アーサー・C・クラーク『2010年宇宙の旅』★★★★★(20150220)
Arthur C. Clarke“2010:Odyssey Two,1982”

伊藤典夫訳・早川書房1984
2010年、宇宙船アレクセイ・レーノフ号は、いま地球を旅立とうとしていた。めざすは木星衛星群――10年前、はるか木星系で4名が死亡、1名が失踪したあの衝撃的事件の真相を究明すべく、遺棄された宇宙船ディスカバリー号を調査・回収し、あわせて木星軌道上に浮かぶ謎の物体、巨大なモノリスを探査するのがその任務であった。乗員は、タチアナ・オルローワ船長をはじめとする、ソビエト宇宙飛行士7名と、もとアメリカ宇宙飛行学会議議長ヘイウッド・フロイド、ハル9000の生みの親チャンドラ、ディスカバリー号内のシステム専門家ウォルター・カーノウのアメリカ人科学者3名。選び抜かれたスペシャリストたちだ。しかし、彼らが解明しなければならぬ謎もまた、怖るべき難問ばかりである。知性を持つ忠実なコンピュータ、ハル9000を乗員殺害にかりたてたものは何か? ボーマン船長はどこへ行ってしまったのか? 宇宙空間で発見された巨大なモノリスは、だれによって、またなんのためにそこにおかれたのか? さまざまな謎を解決すべく旅立ったレオーノフ号……だが、その行く手には想像を絶する驚くべき出来事が待ちかまえていたのだった!
 『2001年宇宙の旅』の続編である。続編と言っても小説のそれではなく、映画の方である。従って主な舞台は木星である。しかもまた、本書にかなり忠実な映画『2010』も製作されている。それゆえ小説版『2001年』において、「物語の語り手」と、失踪したボーマンの視点とから描かれていた出来事が――それゆえ地球に居る者にとっては知り得ない謎であり、手懸かりはただ、地球との交信でボーマンが最後に残した言葉「なかはからっぽだ――どこまでも続いている――そして――信じられない――星がいっぱい見える!」のみである――もう一度、「謎に挑戦する地球人」の視点から語り直されることになる。また、幾つもの小さな仕掛けが施されているのもいかにもクラークらしい。たとえば木星の衛星イオの表現を『指輪物語』のモルドールと表現したり、「ハル9000」という名についての有名な裏話(IBMより進んでいる、という意味でHAL)に作者自ら言及したり、精神分析学者ジークムント・フロイトの名を挙げたり、哲学者ギルバート・ライルの言葉であり、またアーサー・ケストラーの本のタイトルでもある「機械のなかの幽霊」という言葉を引用したり……。そして何よりも、木星の核についての発想が素晴らしいのである。
 とはいえ自然科学者ゆえの疑問点も存在するのは確かだろう。その典型例がコンピュータと感情との関係である。
コンピュータに感情はない、感情があるようなふりをしているだけだ――そう主張する哲学者は次第に少なくなっているが、チャンドラは遠い昔に彼らとの交際を絶っていた。
〔あるときそんな批判者のひとりに、冷かし半分にこう反論したことがある。「あなたが不愉快そうなふりをしているのではないと証明できるなら、私もまじめに聞きますよ」すると相手はいかにも本当らしく怒ったふりをした〕(ハードカバー版p38-9)
 この反論は自らを切り刻む刃である。自分が感情を持っていることは、誰にも証明できはしない。それは人間でも同じことだ。確かに「私」には感情がある。だが、他の人々にも同じように感情があるとどうして言えるのか? 引用した文脈に従うならば、コンピュータにも感情はあると考える哲学者が増えていることになるが、それは幻想である。幻想でなければその哲学者たちが二流なのである。これに対してはホーガン『星を継ぐもの』の文章を改変してこう答えよう。「コンピュータに感情があると仮定したところで、一体何がどう変わるのか?」と。
 さすがに書かれた年代が年代だけに、ソ連が存在していたり、第三次大戦が起こりかけたりしているという「古くささ」はあるものの、前作よりスピード感もあり、サスペンスも盛り込まれている傑作。また、これを読んだならば、映画も観るべきである。
アーサー・C・クラーク『遙かなる地球の歌』★★★★(20150206)
Arthur C. Clarke“The Songs of Distant Earth,1986”

山高昭訳・ハヤカワ文庫1996
太陽系の壊滅を察知した人類は、自らの子孫を残すべく、遺伝情報を搭載した自動播種船をつぎつぎと近隣の星々に送り出した。そのひとつ、青い海に囲まれた楽園サラッサでは、何世代かのうちに新たな人類が自由で理想的な社会を築きあげていた。だがその長い平和をうち破るかのように、サラッサの空に謎の宇宙船が……! 地球の滅亡から数百年を経た遠未来を舞台に、新たな道を歩みだした人類の姿を壮大に描く傑作長編。
 これといって特に劇的な展開があるわけではなく、斬新な世界が描かれるわけでもなく、植民惑星で生まれ育った人類と、地球からやって来た人類との出会いと別れが淡々と綴られる。通常ならば異なる星に生まれた人類同士の出会いに絡めて、様々な葛藤や対立や闘争などが語られそうなものだが、本書の場合そうした問題は起きかけた途端に解決される。この物語はとどのつまり、「故郷とされる地球からやって来た、我らと祖先を同じくする人々がやって来ては去っていたあの日々」のことである。植民惑星の日常にちょっとだけ立ったさざ波。因みにタイトルの「遙かなる地球の歌」は、星野之宣『2001夜物語』の章題に使われている。
アーサー・C・クラーク&フレデリック・ポール『最終定理』★★★(20130420)
Arthur C. Clarke and Frederik Pohl“The Last Theorem,2008"

ハヤカワ文庫2013
コロンボの大学に通う青年、ランジット・スーブラマニアンの熱烈な興味の対象は数学だった。なかでも夢中だったのはフェルマーの最終定理で、彼はその新たなる証明方法を日々追究していた。いっぽう宇宙の彼方では、超知性をも異星人たちが強力な破壊兵器を生み出す人類を憂い、地球へと艦隊を発進させていた……。巨匠アーサー・C・クラークが、フレデリック・ポールとともに自身の愛するものすべてを詰め込んだ遺作
 フェルマーの定理を中心に据えて、果たしてどのような物語が展開されるのかと期待したのだが、フェルマーの定理についての新証明が生み出されるまでの前半部と、その後主人公が重要人物になってからの後半部という実質二部構成の展開であり、しかもまた、(それも当然ではあるが)定理の証明の詳細には立ち入らず、他方異星人とのコンタクトも至極あっさりと描かれていて肩すかしは否めない。その上スリランカの風俗習慣宗教や歴史・地理が何の説明もないままに頻出するのために読者は置いて行かれざるを得ない。救いなのはクラーク独特の語り口で、それが読後「まあ面白かった、と言えないこともない」という感想を生じさせるのである。加えて「崇敬すべき指導者さま」の北のあの国家が壊滅する作戦が描かれているのも珍しい。ただその作戦の詳細もかなりな御都合主義ではあるのだが。ともあれ、クラークの遺作がこれなのはかなり残念ではある。

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