【評価段階】
★★★★★──傑作。
★★★★───秀作。
★★★────凡作。
★★─────駄作。
★──────困作。
【た】
百人一首カルタのコレクターとして有名な、会社社長・真榊大陸が自宅で惨殺された。一枚の札を握りしめて……。関係者は皆アリバイがあり、事件は一見、不可能犯罪かと思われた。だが、博覧強記の薬剤師・桑原崇が百人一首に仕掛けられた謎を解いたとき、戦慄の真相が明らかに!?〈第9回メフィスト賞受賞作〉 |
高田崇史のQEDシリーズは、現代の殺人事件の解決と歴史的事象の解釈とが平行して進められるのが特徴である。記念すべき第一作では百人一首が解釈の題材に取り上げられる。何故百人「一首」であって百人「百首」ではないのか、何故このような選別であるのか、これまで幾多の研究者がその「何故」を説明してきたが、その中でももっとも説得力を持つ解釈が繰り広げられる。問題なのは、歴史的事象の解釈の方が謎としては――歴史的であるだけに――あまりにも大きく、ために殺人事件の謎がかすみがちになってしまうことである。つまりはこうした物語では、ともすれば事件の解決が付け足しに陥ってしまいかねないし、であるならば推理小説という体裁ではなく学術論文の形式の方が相応しい、ということになる。本書はそのバランスの点で悪くはない。不可能犯罪の解決の物語としても新機軸であると思う。とはいえ、やはり歴史的事象の「重み」に関して事件の「重み」が足りないのは確かである。従って読み終えて記憶に残るのは「解釈」であって「解決」ではない。「止むに止まれぬ動機」なり「そうせざるを得ない状況」なりが事件にあればより一層読み応えのある作品になっただろう。
「明邦大学・七福神の呪い」――大学関係者を怯えさせる連続怪死事件は、歴史の闇に隠されていた「呪い」を暴こうとする報いか!? ご存じ、桑原崇が膨大な知識を駆使し、誰も辿り着けなかった「七福神」と「六歌仙」の謎を解き明かす。そして浮かび上がった事件の真相とは? 前作「百人一首の呪に続く驚異のミステリ! |
欠点は前作以上。事件に必然性がないことに加え、その「凶器」そのものが反則である。従ってこれは一種の歴史ミステリとして読むべきであり、その点では非常に面白い。七福神と六歌仙を結びつける傍証の時間的な格差――六歌仙のある人物が七福神のある神に比定できる証拠が古今集から隔たること数百年の江戸時代の寺院に辿られる、など――という大きな問題点はあるにせよ、「もしかしたらそうではないか」と思わせる博覧強記が楽しい上に、読み終えれば「六歌仙」と「七福神」についての知識が増えるのは間違いない。紀貫之あたりの、歴史上の人物を主人公とした「伝奇小説」に仕上げた方がすっきりして骨太の物語となるかもしれない。
次々と惨殺されるシャーロキアン。「ホームズ譚」の解釈を巡る諍いが動機なのか? ダイイング・メッセージを読み解き犯人像に迫る、桑原崇の推理は? ホームズに隠された驚くべき秘密を発見した時、連続殺人犯が浮かび上がった! 文献を駆使し、大胆な発想でミステリの新たな地平を拓く、「QED」第三弾! |
シャーロック・ホームズにおける記述上の「断絶」とその解釈を巡る物語。ホームズの解釈は実に鋭いのだが、「〈それ〉が一体〈誰〉であるのか」という詰めがないため胸落ちに足りない。
なお、ここでのホームズ解釈はその前提として、「作者の行為は無からの創作なのか発見報告なのか」という、物語世界の解釈に関わる二つの対立する立場においては後者に立脚し、「物語とは作者による〈出来事の報告文〉である」という世界観を踏まえている。従ってホームズの一連の物語はコナン・ドイルの創作したフィクションであり、「印刷された文字の外には何もない」という立場ではないことを受け容れる必要がある。実はそのような前提に至るまでの過程が面白いのだが。
他方で事件の方はというと、残念ながらかなりご都合主義であると言わねばならない。これもまた、「虚構論」を通過してホームズ解釈へと進む「真っ当な」物語解釈の入門書として構築し直した方が面白いのではないだろうか。
「日光東照宮陽明門」「山王権現」「三猿」「北極星」「薬師如来」「摩多羅神」「北斗七星」そして「三十六歌仙絵連続強盗殺人事件」。東照宮を中心軸とする膨大な謎は、ひとつの無駄もなく線でつながり、時空を超えた巨大なミステリは、「深秘」と知る崇によって見事解き明かされる。ミステリ界に屹立する「QED」第四弾!!
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相変わらず歴史に関する蘊蓄は汲めども尽きぬ感があるが、しかし今回は謎解きがそれ程多くもなく、劇的でもない。かつまた、殺人に至るその動機も、そのようなものが考えられない訳ではないが、それを読者にリアルだと感じさせるためにはそれなりの紙幅を費やさねばならないだろう。
高田崇史『QED 式の密室』★★★(20110605)
講談社ノベルズ2002(講談社文庫2005)
密室で、遺体となって見つかった「陰陽師の末裔」。“式神”を信じる孫の弓削和哉は他殺説を唱えるが……。果たして、崇の推理は事件を謎解くばかりか、時空を超えて“安倍晴明伝説”の闇を照らし、“式神”の真を射貫き、さらには“鬼の起源”までをも炙り出す。これぞ、紛うことなきQED! 20周年特別描き下ろし作品!!(ノベルズ版) |
密室トリックとしては些かありがちな展開ではあるが、その論理が新機軸だと言えないこともない。とは言えすっきり納得、というわけにはいかない。一方、歴史の読み解きの点でも問題なのは、仮に「人とは見なされない」がゆえに、鬼や妖怪という形で記述された人々がいた、という解釈が正しいとして、では何故それらを記録として遺すのか、という疑問が残る点である。「人とは見なされない」モノたちの行動など取るに足らないことではないのか? ましてそれが「虐げられた」人々の記録であるならば、それを「虐げた」側が記録として遺す意味が一体どこにあると言うのだろうか? そういう理由で、ここに繰り広げられた作者の推理には納得できないのである。
“鷹群山の笹姫様は……滑って転んで裏庭の、竹の林で右目を突いて、橋のたもとに捨てられた”。不吉な“手毬唄”が残る奥多摩は織部村。この村で、まるで唄をなぞったような殺人事件が発生。崇は、事件の本質を解き明かすべく、「竹取物語」の真実から「かぐや姫」の正体にまで迫る。まさに「QED」の真骨頂!
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前作『式の密室』同様の難点が本作にも存在する。『竹取物語』もまた、虐げられた人々の記録がその本質である、という点である。その拘り方に、作者はマルクス主義批評を歴史の読解に応用しているのか、と疑いたくなるほどだ。加えて本作でもまた、事件と歴史解読とが必然性をもってリンクしているとは言い難い。さらに事件の動機とその手口に関しても説明不足の感が否めない。
伊賀忍者の末裔にして、出賀茂神社のお気楽跡取り・鴨志田甲斐。しかし、その平穏は、秘密の社伝『蘇我大臣馬子傳暦』の盗難によって破られる。謎を追って、現役東大生のアルバイト巫女・貴湖と飛鳥へ向かった甲斐は、そこで密室殺人事件に巻き込まれ……。日本の歴史へのまなざしが変わる、新シリーズ開幕!
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狙い所がどうも良く分からない。人物設定が何も考えていないも同然、徹底的にベタであることは、内容の紹介文を見ても明らかだろう。その上美貌の許嫁まで存在するとあっては、素人漫画家でもあるまいに、「自らの願望を全開にしました」的で読む側が照れる。その上で「忍者」である。しかもそれがあからさまなのは痛い。せめて半村良の如く「伝奇」っぽく加工して欲しい。加えて「裏の歴史」。ジュブナイル好き目当てなのか、伝奇小説ファンへ向けられたのか、それとも歴史好きを狙ったのかがさっぱり判断できない。しかも本書においてはタイトルの「カンナ」の意味が不明なのは困る。それどころか「光臨」さえ明らかになっているとは言い難い。第一巻以後化けるのかもしれないが、少なくとも本書だけでは中途半端さ120%。
東京・大田区の高台に樹影荘と名づけられた古びた洋館があった。かつて産婦人科医院として建てられたもので、かたわらには鬱蒼とした樫の大木が生えていた。ここには六組の入居者が住んでいた。この樹影荘で怪事件があいつぐ。トイレの血文字、廊下の血痕、中庭の白骨……血塗られた洋館と住人たちの過去が、今あばかれる! |
今となっては決してすんなりと出版されそうにないタイトルではある。そのタイトル通り、湿り気が多く、じめじめと陰鬱な不気味さに溢れた内容でもある。単なるホラーではなく、それが最終的に合理的な解決を果たすのも美しいと言えば美しいのだが、結末の佇まいが物足りないのは確か。
竹本健治『ウロボロスの偽書』★★★(20110825)
講談社ノベルズ1993(講談社文庫2002)
この作品が発表された当時、「そこはそれ」という締めの言葉が推理作家周辺で含み笑いと共に、瞬間的に流行した。デュルケーム、ウィトゲンシュタイン、ラッセル、ダリオ・アルジェント、人間原理、パラドクス、シュレディンガーの猫、『幻影城』、スズキGSX1100刃……。多彩なペダンティズムに支えられ、幾つもの殺人事件と失踪事件が錯綜しつつ繰り出される。現実の人間関係と架空の人間関係とが絡まり合い、時制は混乱し、構造は転倒する。それをどのように収束させるか、が肝心なのだが、「読者への忠告状」が添えられている通り、すっきりした解決、とはいかない。解決はメタ・ミステリ的ではあるのだが、今日においてはその手法ももはややり尽くされた感がある。
多島斗志之『症例A』★★(20121021)角川文庫2003
精神科医の榊は美貌の十七才の少女・亜左美を患者として持つことになった。亜左美は敏感に周囲の人間関係を読み取り、治療スタッフの心理をズタズタに振りまわす。榊は「境界例」との疑いを強め、厳しい姿勢で対処しようと決めた。しかし、女性臨床心理士である広瀬は「解離性同一性障害(DID)」の可能性を指摘し、榊と対立する。一歩先も見えない暗闇の中、広瀬を通して衝撃の事実が知らされる……。正常と異常の境界とは、〈治す〉ということとはどういうことのなのか? 七年の歳月をかけて、かつてない繊細さで描き出す、魂たちのささやき。
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この物語は二つの流れを持つ。一つは博物館における所蔵品の真贋問題であり、もう一つはとある精神病患者が果たして解離性同一性障害であるのかどうかということである。精神科医と臨床心理士との「病への視点の違い」も、その点を巡って語られる。真贋問題と、精神病患者をどの病気と判断すべきか、いずれもが「本物とは何か?」という同一の問いを始点として展開するように見えるし、作者の狙いでもあったはずだ。しかし問題は、こと精神の病に関しては、そもそもそれが果たして本当に“精神の”病であるのかという点にこそ求められねばならないだろう。たとえば、真実の病といわゆる演技との違いは一体どこにあるのか? これについて物語は沈黙を決め込んでいる。美術品本来の存在意義に照らすなら、真贋など実は大した問題ではないだろうし、精神病の「病としての問い直し」に比べれば、それが多重人格であるかどうかなども些末な問題である。ところが、所蔵品の問題は棚上げにされた一方、精神病については主人公が「解離性同一性障害」を直に「体験」したことによって、にわかにその真実性が増してくるのだ。しかしながら、体験に最大の説得力を持たせるという点でもっとも相応しくない人物像こそ「精神の専門家」ではないのか? 自分も体験したならばそれを信じるというのは体験至上主義以外の何ものでもないし、それでは「専門家」としての資質に欠けると言わねばなるまい。とすれば、これは反語的な意味において、精神医学の堕落を描いた物語なのだ。
「ブラックホールの中にホトケはいるかおらぬか、そもさん」史上初めて傍受された知的生命体からのメッセージは、なぜか敵意むきだしの禅問答であった!?――〈人類圏〉存亡の危機に立ち向かう伝説の高僧・弘法大師の勇姿を描く表題作、大量のゲロとともに銀河を遍歴した男の記録「嘔吐した宇宙飛行士」など、人類数千年の営為がすべて水泡に帰す、おぞましくも愉快な遠未来宇宙の日常と神話、5篇を収録するSF短篇集!
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アイザック・アシモフ『銀河帝国の興亡』に甚だ失礼なタイトルを持つ本作は、言わば日本SF界の最終兵器であり、本格推理小説界の最終兵器『六枚のとんかつ』に比肩しうる作品である。解説の我孫子武丸も言う通りに「ダジャレを取ってしまったら何一つ残らない作品」でもある。要するに「バカバカしい」作品なのだが、しかしそのバカパワーの充実ぶりが半端ない。しかも各短編は結局、必ず最後にダジャレで落とすのである。これは頭を抱えるしかないではないか。
聖徳太子による「人類滅亡」を意味する預言は真実か? 冬山で遭難した
奈美江
が洞窟で見たものは? 望まぬ妊娠、殺人事件、不気味な宗教団体、秀吉の埋蔵金……その背後に見え隠れする奇怪な「猿」の影。運命の嵐に
翻弄
される奈美江は、やがて世界の根源の謎に迫っていく。著者渾身の文庫書下ろし伝奇小説。
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日本神話、聖徳太子、豊臣秀吉……と、道具立てには贅沢だが、それらで組み上げた「物語」が何と痩せさらばえて見窄らしいことか。結局は「猿」が支配する世の中を作ろうという何とも意味不明な宗教団体の暗躍であったという、『ムー』でさえもう少しましな法螺を吹くぞ、と言いたくなるようなお粗末さである。または伝奇小説版『猿の惑星』。ならば映画を見ていれば良い。
銀河系に一大王朝を築きあげた帝国と、民主主義を掲げる自由惑星同盟が繰り広げる飽くなき闘争のなか、若き帝国の将“常勝の天才”ラインハルト・フォン・ローエングラムと、同名が誇る不世出の軍略家“不敗の魔術師”ヤン・ウェンリーは相まみえた。この二人の知将の邂逅が、のちに銀河系の命運を大きく揺るがすことになる。日本SF史上に名を刻む壮大な叙事詩、星雲賞受賞作。(第1巻 黎明篇)
自由惑星同盟でクーデター発生。叛徒鎮圧の命令がヤンに下るが、首都を制圧したその首謀者は、彼が厚く信頼を寄せていた人物だった。一方帝国でも、皇帝崩御以降激化する貴族間の権力闘争の渦中に身を置くラインハルトに、新たな試練が課されようとしていた。不敗の魔術師と常勝の天才、二人の英雄の決断が、銀河史に新たな波瀾を呼ぶ。巻置く能わざるスペース・オペラ、
第二巻。(第2巻 野望篇)
亡き親友との銀河の覇者となる約束を果たすべく決意を新たにしたラインハルトに、イゼルローン攻略のための大計が献じられた。その裏で暗躍する第三勢力フェザーンの狙いとは。一方、ユリアンの初陣からの帰還に安堵する間もなく、ヤンは査問会に召喚され、同盟首都に向かう。だがその隙を衝くようにイゼルローンの眼前に帝国軍要塞が出現。巨大要塞同士の戦いの火蓋が切られた!(第3巻 雌伏篇)
第三勢力フェザーンに操られた門閥貴族の残党が七歳の皇帝を誘拐、自由惑星同盟の協力を得て帝国正統政府樹立を宣言した。だが、フェザーン高官と密約を交わしていたラインハルトはこの状況を逆手に取り、フェザーン回廊を通って同盟へ大進攻することを目論む。その真意を見抜きながらもイゼルローン防衛から動けぬヤンと、帝国軍の一人ロイエンタールの死闘が幕を開けた!(第4巻 策謀篇)
フェザーンを制圧下に置いた帝国軍は、今や同盟首都の目前にまで迫っていた。ヤンはイゼルローン要塞放棄を決断、民間人を保護しつつ首都へ急行する。圧倒的な優勢を誇る敵軍に対し、ヤンは奇策を用いて帝国の知将たちを破っていくが、ラインハルトの大胆な行動により、彼との正面対決を余儀なくされる。再び戦火を交える“常勝”と“不敗”。勝者となるのははたしてどちらか?(第5巻 風雲篇)
今や至尊の冠を戴く存在となったラインハルトを襲う暗殺事件。各処で暗躍する〈地球教団〉の差し金と知り、ラインハルトは彼らの聖地たる地球に軍を派遣する。一方、悠々自適の退役生活を楽しむヤンも、己の周囲に監視網が巡らされていることに気づく。やがてある日、彼の元を黒服に身を包んだ男たちが訪れた。一度は平穏の時を迎えた銀河は、再び動乱に呑まれようとしていた。(第6巻 飛翔篇)
退役生活に別れを告げ、“不正規隊”を連れエル・ファシルの独立革命政府と合流したヤンは、二度目のイゼルローン攻略を目論む。一方、自由惑星同盟を完全に粉砕するべく、首都ハイネセンへ艦隊を差し向けたラインハルトに、同盟軍の宿将ビュコックが最後の抗戦を試みた。圧倒的劣勢のなか、護るべきもののために立ち上がった老将と若き皇帝の激戦は、英雄たちに何をもたらすのか。(第7巻 怒濤篇)
宿敵ヤン・ウェンリーと雌雄を決するべく、帝国軍の総力をイゼルローン回廊に結集させた皇帝ラインハルト。ついに“常勝”と“不敗”、最後の決戦の火蓋が切って落とされた。激戦に次ぐ激戦の中、帝国軍、不正規隊双方の名将が相次いで斃れる。ようやく停戦の契機が訪れたその時、予想し得ぬ「事件」が勃発し、両陣営に激しい衝撃を与えた。銀河英雄叙事詩の雄編、怒濤の展開!(第8巻 乱離篇)
前指導者の遺志を継ぎ、共和政府を樹立した不正規隊の面々。司令官職を引き受けたユリアンは、周囲の助力を得て、責任を全うすべく奔走する。帝国では皇帝暗殺未遂事件が発生、暗殺者の正体を知ったラインハルトは過去に犯した罪業に直面し、苦悩する。そして新領土総督ロイエンタール謀叛の噂が流れるなか、敢えて彼の地に向かうラインハルトを、次なる衝撃が待ち受けていた。(第9巻 回天篇)
腹心の部下ヒルダを皇妃に迎え、世継ぎの誕生を待つばかりとなったラインハルト。旧同盟領に潜む地球強残党のテロ、元自治領主の暗躍、度重なる病の徴候など懸念は尽きないが、数々の苦難を経て、新王朝はようやく安泰を迎えたかに見えた。一方、“魔術師ヤン”の後継者ユリアンは、共和政府自らが仕掛ける最初にして最後の戦いを決断する。銀河英雄叙事詩の正伝、堂々の完結。(第10巻 落日篇)
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大雑把に「スペース・オペラ」と分類することはできる。だがこの言葉では汲み尽くせない豊饒さが存在する大作。『銀河英雄伝説』といういかにもなタイトルからは、その豊饒さは想像できない。その点において潜在的な読者を獲得し損なっているとも思えるのだ。他の作家ならばかなりの密度をもって描いていくところを素描で済ませ、大規模な戦闘シーンにも関わらず文字数を使わない。およそ同ジャンルの作家とは似ても似つかない筆致によって、しかしながら生き生きとした群像と、その生き方が血肉を持って立ち上がる。しかもここには、「堕落した民主主義と高潔な専制政治とではどちらが有益か」という永遠のテーマを始め、統治についてのシミュレーションも含まれている。登場するキャラクターも実に魅力的である。特に、物語を錯綜させ、弛緩させかねない「引っかき回し役の女性」が一切登場しない。文句のつけようがない傑作。
自由惑星同盟との不毛な戦闘を繰り返す銀河帝国。ラインハルト・フォン・ミューゼルは、皇帝に奪われた最愛の姉を取り戻すため、親友とともに現王朝打倒を誓う。二人は多くの敵に囲まれながら、時機をまっていた。そしてある夜、危機に瀕した僚友を救うため、金銀妖瞳の青年士官が彼らのもとを訪れる。正伝を遡ること一年、新帝国の枢軸を担った勇将たちの邂逅を描く外伝第1弾。
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正伝を支える重要な位置にある外伝。正伝以前の状況から始まり、2巻辺りまでの「邂逅と連帯」がテーマである。作者の頭の中には存在したが、紙数の都合で割愛したエピソードを纏めた、言わば拾遺物語集。出来れば1巻を読み終えた直後に読む、というのが最も正伝との繋がりが味わえる読み方であるかもしれない。
最前線イゼルローン要塞への引越を機に、日記をつけ始めた少年ユリアン。彼は師父ヤン・ウェンリーをはじめとする、個性豊かな同盟軍の面々と過ごす日々を綴ってゆく。その日常の裏で、銀河帝国を二分する権力闘争や同盟内の不穏分子の動向に目を向けるヤンは、次なる戦いに思いを馳せていた。そして、帝国との捕虜交換式がイゼルローンで行われる事になり……。外伝第2弾。
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これもまた、正伝2巻までの間に読むと面白さが増す作品。とは言えこちらは外伝1巻とは異なり、拾遺集ではない。一登場人物の目から見た同盟軍の日常、という、むしろ外伝に相応しい内容である。そしてこの外伝の肝は、一癖も二癖もある登場人物の漫才的な掛け合いであるだろう。その点でのサービス振りは正伝を遥かに凌ぐ。
お気に入りの定食屋で知り合った老紳士・田中氏。夢のCAという職業を失ったばかりの押切可南(33)は、彼の会社に誘われ、快諾した。彼の経営する翻訳会社、その名も「タナカ家」は、社員を家族、社訓を家訓と呼び、六本木にある社屋もボロい平屋の一戸建てというなんともヘンテコな会社で――。現在も翻訳会社に勤める著者が描く、翻訳ウンチクがちりばめられた、極上翻訳エンターテインメント小説!
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翻訳を巡るドタバタを中心とした短編集。翻訳という仕事の詳細がよく分かるのだが、翻訳ウンチクそのものはそれほど多くない。会社お取りつぶしの危機の中、いかに再建するか、ということを描いた物語は数多いだろう。その中で何ゆえに本書を選択したのか、ということを考えれば、翻訳ウンチクはあざといほどに盛り込むべきである、と思うのだ。
大学受験間近の高校三年生が行方不明になった。家出か事件か。世間が騒ぐ中、木村浅葱だけはその真相を知っていた。「『i』はとてもうまくやった。さあ、次は、俺の番――」。姿の見えない『i』に会うために、ゲームを始める浅葱。孤独の闇に支配された子どもたちが招く事件は、さらなる悲劇を呼んでいく。(上巻)
「浅葱、もう少しで会える」『i』は冷酷に二人のゲームを進めていく。浅葱は狐塚や月子を傷つけることに苦しみながら、兄との再会のためにまた、人を殺さなければならない――。一方通行の片思いが目覚めさせた殺人鬼『i』の正体が明らかになる。大人になりきれない彼らを待つ、あまりに残酷な結末とは。(下巻)
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たとえば「スクリーンセイバー(セーバーではなく)」が動いていて、それがしかも「フライングトースター」であるという状況に、「一体いつの時代だ」と感じないではいられないし、ipアドレスについて警察も学生たちも一言も言及しなかったりというように、IT関連の現状と知識についての瑕疵があり、そしてこれもまた、その当否についてかなり問題がある心理学的現象を下敷きとして――その上、双子の二人が実は……、という設定もまた、使い古されたものなのだが――物語を組み上げている(ベイトソンの「ダブルバインド」が、懐かしいなあ)ことにもまた、首を傾げたくなるのだが、にも関わらず「物語」として実に力強い。おそらくその理由は人物の性格設定及びその絡まり合いが「ピタリと填って」いるからなのだろう。ある意味無色透明の「狐塚」の周りを、どちらかと言えばアクの強い人々が取り囲み、その触れ合いが加速力を持って物語を推進していく。「それが誰で、そして誰とどんな関係にあるのか」ということが実に巧みに隠されているのも素晴らしい。かなり厚みのある上下巻ではあるが、まったく長さを感じさせず読ませる手際は見事。
高校卒業から十年。元同級生たちの話題は、人気女優となったキョウコのこと。クラス会に欠席を続ける彼女を呼び出そうと、それぞれの思惑を胸に画策する男女たちだが、一人また一人と連絡を絶ってゆく。あの頃の出来事が原因なのか……? 教室内の悪意や痛み、十年後の葛藤、挫折そして希望を鮮やかに描く。 解説・宮下奈都
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思いがけぬ二重のトリックが鮮烈。おそらくは読み込むほどに繊細な手法に感じ入ることになるであろう作品。問題の中心であるべきとある人物が微かに触れる程度でしかないこと、そして登場人物たちの「その後」の話がないことなどに多少残念な思いも残るが、それでも読ませる内容であることに変わりはない。表紙及び章扉の静けさを感じさせるイラストもしっくりと填っている傑作。
筒井康隆『家族八景』★★★★★(20101017)
新潮文庫1975
幸か不幸か生れながらのテレパシーをもって、目の前の人の心をすべて読みとってしまう可愛いお手伝いさんの七瀬――彼女は転々として移り住む八軒の住人の心にふと忍び寄ってマイホームの虚偽を抉り出す。人間心理の深層に容赦なく光を当て、平凡な日常生活を営む小市民の猥雑な心の裏面を、コミカルな筆致で、ペーソスにまで昇華させた、恐ろしくも哀しい本である。 |
通常一般には、物語において「地の文」が登場人物の心情や本音や思惑を明らかにする役目を負う。そうした心情や本音や思惑を主人公の「聞こえ」へと括り出したところにこの物語の特徴がある。つまりテレパシーの持ち主である主人公は、「地の文」を読むことのできる「読者」という存在とぴったりと一致する訳だ。従って、
「ウイスキーになさいますか」と、咲子が訊ねた。(お酒はもう、あまり残っていない。ウイスキーにしてほしい)(p19)
という文章の、主人公に読み取られた( )内の咲子の心中は、
「ウイスキーになさいますか」と、咲子が訊ねた。というのもお酒はもうあまり残っていなかったからだ。だから咲子としては、ウイスキーにしてほしかった。
という文章へと変換可能である。ならば「読者」とは、仮想的なテレパスであるとも言える。
「読者」を物語中に取り込んで擬人化したのが七瀬であるが、これによって物語のテンポは驚くほどスピーディになるようだ。何しろ隠された心中を主述の整った文章にすることなく、単に( )内に収めてしまえばよいのだから。その上に相反する心情をも同時に、説明することなく投げ出すことすら可能だ。従ってこれは当初は純粋な実験小説として読めるものなのだが、それが最終話「亡母渇仰」に至って、むしろホラー小説へと一気に相貌を変える様は見事である。
筒井康隆『七瀬ふたたび』★★★★(20101019)
新潮文庫1978
生れながらに人の心を読むことができる超能力者、美しきテレパス火田七瀬は、人に超能力者だと悟られるのを恐れて、お手伝いの仕事をやめ、旅に出る。その夜汽車の中で、生れてはじめて、同じテレパシーの能力を持った子供ノリオと出会う。その後、次々と異なる超能力の持主とめぐり会った七瀬は、彼らと共に、超能力者を抹殺しようとたくらむ暗黒組織と、血みどろの死闘を展開する。 |
シオドア・スタージョン『人間以上』、半村良『岬一郎の抵抗』等、超能力者集団を描いた作品は他にも多いが、そこで必ずテーマとなるのは「進化」であり、そして超能力者への「迫害」である。この作品でもそれは踏襲されているが、主人公たちを抹殺しようとする組織の意図が今ひとつ明確ではない。従ってテーマそのものも明らかとはならず、描かれた内容も「迫害からの逃走」を超えるものではない。これは前作と次作を繋ぐ役割を持つ、言わば「連結点」という位置づけなのだろうか。
筒井康隆『残像に口紅を』★★★★(20100916)
中央公論社1989(中公文庫1995)
「君は、ただのことばに感情移入できるかい。たいていの人はそのことばに感情を動かされるんじゃなくて、そのことばが示しているイメージに感情を動かされるものだがね。抽象的なことばは別としてだが」 「うーん。そこまで言われると、ちょっとねえ」佐治は、さすがに断言をためらった。「しかし、たとえばことばそのものは好きだけど、実物はよく知らないとか、または嫌いだなんてこともわりと多いよ」 「では、それを試してみようじゃないか。もしひとつの言語が消滅した時、惜しまれるのは言語かイメージか。つまりは言語そのものがこの世界から少しずつ消えていくというテーマの虚構。それが今日ぼくの持ってきたプランなんだけど、現在君とぼくとがこうやって話している現実がすでに虚構だとすれば、この小説はもう始まっているわけだし、テーマ通りのことが冒頭から起っているということにもなる」(中央公論社版p13-4) |
文字どおりの実験小説。章ごとに使える文字数を制限していき、それでも物語であることができるか、というテーマに挑戦した意欲作。既に上の引用において「あ」の使用が禁止されている。それはいいのだが、筒井康隆の問題点は、その言語理解が似非構造言語学であることだろう。その理解不足は後に『文学部只野教授』においても変わらないのだが、本書でも「言語かイメージか」という選択を「記号内容か記号表現か」という構造言語学の用語で表現している部分があるのだが、これは明らかに間違った理解である。記号表現と記号内容は表裏一体であり、どちらかを選択可能なものではないはずだ。日本語の体系内における「猫」という語が消える時、「猫」という概念も消滅し、従って現実の「猫」という枠組みも消えてなくなるはずである。言語とイメージが切り離せると考えているあたり、筒井はいわゆる「言語名称目録観」を脱却できていない。それが物語そのものにとっての欠点であるというわけではないのだが、蘊蓄を語るならばまず正確に理解せねば恥をかく、という見本。
身の毛のよだつようなコワーイおはなしをたのまれたがうまくいかない。ふと盗作を思いつき、アメリカのミステリを時代小説じたてで書いていくが、街なかを散歩中、謎めいた女との出合いによって私自身しだいに幻想的世界に誘いこまれてゆく…。ポルノグラフィのようで推理小説のようでSFのようでもある。エッセーとも創作ともつかぬ奇妙な味の怪奇譚。一読三嘆 摩訶不思議 魔境魔界 乞御期待!!! 解説・色川武大(集英社文庫版) |
当初は海外の怪奇小説の紹介や自身の怪奇体験の話を綴るエッセイ風に始まるが、事態は次第に混迷を極めて行き、最終的には○○小説めいて終わる。つまりはあらゆる小説ジャンルのごった煮。その錯綜ぶりが返って痛快であり、また面白さでもある。集英社文庫1980年版は黒田征太郎のカバー表紙絵も全く意味不明でありながらしみじみとした怪奇性を醸し出していて良かったし、新装版でもこの絵は残しておいて欲しかったのだが。文体は王城舞太郎とは正反対に、地の文では読点が多すぎてリズムが取りづらい。
恒川光太郎『夜市』★★★(20111128)
角川書店2005(角川ホラー文庫2008)
大学生のいずみは、高校時代の同級生・裕司から「夜市にいかないか」と誘われた。裕司に連れられて出かけた岬の森では、妖怪たちがさまざまな品物を売る、この世ならぬ不思議な市場が開かれていた。 夜市では望むものが何でも手に入る。小学生のころに夜市に迷い込んだ裕司は、自分の幼い弟と引き換えに「野球の才能」を買ったのだという。野球部のヒーローとして成長し、甲子園にも出場した裕司だが、弟を売ったことにずっと罪悪感を抱いていた。 そして今夜、弟を買い戻すために夜市を訪れたというのだが――。
幻想的かつ端正な文体、そして読む者の魂を揺さぶる奇跡のエンディング。選考委員が驚嘆・畏怖した類い稀なる才能の登場!(角川書店版) |
表題作の「夜市」と「風の古道」の二編を収録。「夜市」は、その光景描写が肝となる幻想的な小説ではあるが、その描写が舌足らずで幻想感にやや欠けるのが残念である。またエンディングについても、おそらくはこのようになるだろう、という予定調和的な結末であって決して「奇跡」という形容詞を冠せられるようなものではない。総じて穏当な作品。むしろ「夜市」とかすかに関連している「風の古道」の方が味わいがある。
津原泰水『綺譚集』★★★★(20120706)創元推理文庫2008
散策の路上で出合った少女が美しく解剖されるまでを素描する「天使解体」、白痴の姉とその弟が企てる祖父殺し「サイレン」、陵辱された書家の女弟子の屍体が語る「玄い森の底から」等、妖美と戦慄が彩る幻想小説や、兎派と犬派に分かれた住民たちの仁義なき闘争を綴る「聖戦の記録」の黒い笑い、失われた女の片脚を巡る「脛骨」の郷愁、ゴッホの絵画を再現した園に溺れゆく男たちの物語「ドービニィの庭で」の技巧等々。文体を極限まで磨き上げた十五の精華を収める。孤高の鬼才による短篇小説の精髄。
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物語とは所詮文章が並ぶものであって、文章とそれに続く文章の間には何ら因果関係はなく、必然的な関係もない。それゆえ、どのように文章を連ねようとも自由である。しかし、自由である中に、ある種の蓋然性を含めなければそもそも物語たりえないのも確かである。ならば「関連のない文章の単なる羅列」と「物語」との境界とはどこにあるのか? たとえば「約束」の最後の二行はそれ以前の行に対していかなる蓋然性を持つのか? 「天使解体」はいつ、どこから、どのようにして物語が捻れてしまっているのか? 文章相互が関連しているようでそれを裏切っているようでもある不思議な短篇集。特に早見純的な「玄い森の底から」や「脛骨」などが退廃的で素晴らしい。
戸梶圭太『赤い雨』★★★★(20150118)幻冬舎文庫2000
赤い雨が降った日を境に、いじめ、やくざ、詐欺商法などに泣き寝入りしていた市井の人による「私刑」ともいえる残虐な暴力事件が激増。私刑はエスカレート、遂に未成年犯罪者がテレビカメラの前で無残に処刑され、日本中が狂喜する。穏やかな生活を望む主婦、志穂は、嬉々として私刑に参加する夫に怯え逃亡を謀るが――。大興奮のパニックホラー。
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ピーター・ガブリエルに「レッド・レイン」という曲がある。それに関係があるのかないのか、同名のタイトルである。狂気ホラーものではあるのだが、冒頭からしばらくはむしろ痛快ささえ感じるストーリー展開であるのが通常のホラーとは異なるところだろう。そういう意味では後半に一ひねり欲しい気もする。ともかくスピード感は充分で一気に読み終えられる。もちろん読み終えて、「赤い雨を浴びなかった人はそんなに少なかったのか」という疑問は残るのだが。
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友成純一『覚醒者』★(20120729)光文社文庫2005
「ドン!」。200X年、突然、福岡市中心部を突き上げるような巨大な揺れが襲った! それはただの地震ではなかった。この世ならぬ者たちがゾロゾロと地上に這い出てくる、カタストロフィの前兆だったのだ……。 インドネシアの辺境の島々から始まった、古代の神々の「文明への逆襲」――いま、凄絶な闘いが始まる! ホラー界の魔王が4年ぶりに放つ、戦慄の本格ホラー。
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「文庫書き下ろし」と謳ってはいるものの、まるで「前回までのあらすじ」のような説明が章毎に繰り返され、とにかく冗長である。しかも出来事はまだ始まったばかりであって、本編には到っていない。クトゥルー神話を題材にした展開を目論んだらしいが、本書ではそれは殆ど展開されていないに等しい。そもそも「この世ならぬ者たち」はまだ「ゾロゾロと地上に這い出て」きていないではないか。その上続編は未だ発表されていないらしい。「長い長いプロローグだけ」を読まされた、という印象しかないのは困ったものである。
鳥飼否宇『非在』★★★(20150430)角川文庫2005
奄美大島の海岸に流れ着いた一枚のフロッピー。そこに記されていたのは奇怪な日記だった。ある大学のサークル一行が古文書を元に、人魚や朱雀、仙人が現れるという伝説の島“沙留覇島”へ渡った調査記録だった。だが、日記の最後に記されていたのは、殺人事件を告げるSOS――フロッピーを拾った写真家の猫田は警察へ届け、大規模な捜索が行われるが、それと思しき島には誰一人いない。猫田は幻の島探しに乗り出すが……絶海の孤島を舞台にした、驚天動地の本格+ネイチャーミステリ!
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「非在」という、哲学やその隣接分野で一般に多く使われる用語をタイトルとした物語。とは言え内容は決して哲学的ではなく、「不在」ではない島、くらいの意味である。むしろ島田荘司『眩暈』に代表されるような、あるテクストを解読する過程で殺人をはじめとする事件が暴露され、なおかつその事件の真相が明らかにされる、というパターンの推理小説である。しかし『眩暈』ほどに意外な顛末があきらかになるわけでもなく、驚きはそれほどでもない。しかもメインテーマである「人魚」の正体についてがかなり曖昧である。曖昧なのは人魚の実在を仄めかしたかったからだろうと思われ、それはそれで結構なのだが、プレゼンテーションの仕方如何では論理において構築された本格推理の世界観を台無しにしかねないし、その点本書は成功しているとは言い難い。 と、いうことはともかく、本書においてもジェネシスの「フォックストロット」、ピンク・フロイドの「ウィッシュ・ユー・ワー・ヒア」などのプログレ系の名曲名や、「無慈悲な夜の女王」という、ハインラインの傑作SFのタイトルを下敷きにした文章などが散見されるわけで、どうやら本格推理作家とプログレファンとSFファンはかなりの部分を共有しているのではないのか、と思われるのである。
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