【評価段階】
★★★★★──傑作。
★★★★───秀作。
★★★────凡作。
★★─────駄作。
★──────困作。

【ま】
舞城王太郎
舞城王太郎『煙か土か食い物』★★★★(20100920)

講談社ノベルス2001(講談社文庫2004)
 腕利きの救命外科医・奈津川四郎なつかわしろうが故郷・福井の地に降り立った瞬間、血と暴力の神話が渦巻く凄絶な血族物語ファミリー・サーガが幕を開ける。
 前人未踏のミステリーノワールを圧倒的文圧で描ききった新世紀初のメフィスト賞/第19回受賞作。
 とにかく強烈なキャラクター造形が圧倒的な作品。こうしたキャラクターは夢枕獏の『サイコダイバー・シリーズ』における毒島獣太ぶすじまじゅうた以来ではないだろうか? その強烈なキャラクターに牽引されるかのようにスピード感溢れた物語が展開する。作中のトリックそのものは反則すれすれなものではあるが、そのトリックの出来如何に関わらず「読ませる」作品。
舞城王太郎『暗闇の中で子供』★★★★★(20110619)

講談社ノベルズ2001
あの連続主婦殴打生き埋め事件と三角蔵密室はささやかな序章に過ぎなかった!

「おめえら全員これからどんどん酷い目に遭うんやぞ!」


模倣犯(コピーキャット)運命の少女(ファム・ファタル)/そして待ち受ける圧倒的救済(カタルシス)……。
奈津川家きっての価値なし男(WASTE)にして三文ミステリ作家、奈津川三郎(なつかわさぶろう)がまっしぐらにダイブする新たな地獄。

――いまもっとも危険な“小説”がここにある!

 前作『煙か土か食い物』以上に過激かつ破壊的な作品。ミステリの体裁を取りながら、その実紡ぎ出されるのは「幻想」である。軽快かつ残虐な文体において綴られた「幻想小説」。従って、この物語に「事件の解決」を求めたとしても無駄である。事件は常に「本格推理小説作家」のリアリティへの努力を嘲笑うような形で解決する――どころか、投げ出されさえする。だが、一貫して語られるのは「身近な遠さ」であり、あるいは「見えない深淵」であって、従ってこれは形式はともかく、テーマとしては「純文学」でありさえするのだ、少なくとも石原慎太郎の小説よりは上品な(石原慎太郎は芥川賞候補作に二度なった舞城王太郎の作品を選考委員である石原慎太郎は積極的に批判しているが、作家の資質からすれば勿論石原は舞城に及ぶべくもない)。尚、奈津川三郎の書いたミステリ小説が『世界は密室でできている。』であると考えれば、『煙か土か食い物』『暗闇の中で子供』『世界は密室でできている。』を三部作と見なすことも可能だろう。文庫化が望まれる。
舞城王太郎『世界は密室でできている。』★★★★★(20110604)

講談社ノベルズ2002(講談社文庫2005)
「何とかと煙は高いところが好きと人は言うようだし父も母もルンババも僕に向かってそう言うのでどうやら僕は煙であるようだった。」
 ――煙になれなかった「涼ちゃん」が死んで二年。十五歳になった「僕」と十四歳の名探偵「ルンババ」が行く東京への修学旅行は僕たちの“世界と密室”をめぐる冒険の始まりだった!
 『煙か土か食い物』の舞城王太郎が講談社ノベルズ二十周年に捧げる極上の新青春エンタ。
 もう誰も王太郎を止められない!(ノベルズ版)
 改行の殆どない文体で畳み掛けるように物語は進んでいくのだが、見かけとは裏腹に読み易くテンポも良く、『煙か土か食い物』同様に、密室構成の謎は解き明かされたとしてもそれで満足できたり納得できたりするものではない――驚きはするが――し、くだらなさで比較すれば蘇部健一『六枚のとんかつ』と互角とも言えるものではあるのだが、笑える文体のゆえにそれが決して不快ではない、どころかタイトルこそ「密室」であるが、推理の要素はむしろ脇役で、文体に後押しされた“物語”こそが主役である。
牧野修
牧野修『黒娘 アウトサイダーフィメール』★★★(20141104)

講談社文庫2003
超快楽主義者ウランとウルトラバイオレンスの女神アトムの美少女二人組。彼女たちの行く先々で女神たちの鉄槌は振り下ろされ、馬鹿な男たちは皆殺しに。死屍累々たる 血塗(ちまみ) れ行脚はどこに向かうのか? 全人類必読の奇書が古屋兎丸の美麗な描き下ろしイラストで甦る! 
文庫版あとがき収録。 解説・小谷真理。
 こうした、タブー塗れの物語を書こうとした心意気は賞賛に値する。しかし、スプラッター描写の背後にある世界観の設定が今一つだと言わなければならない。むしろ書きたかった内容に深みを与えようとしたが深めきれずに終わってしまったという印象であり、ならば世界観などない方がすっきりしたのではないかとさえ思われるし、その方が心意気もまた強調されたのではないだろうか。
松崎有理
松崎有理『あがり』★★★(20131214)

創元SF文庫2013
舞台は〈北の街〉にある蛸足型の古い総合大学。語り手の女子学生と同じ生命科学研究所に所属する幼馴染みの男子学生が、一心不乱に奇妙な実験を始めた。夏休みの研究室で密かに行われた、世界を左右する実験の顛末は。第1回創元SF短編賞受賞の表題作をはじめ、少し浮き世離れした、しかしあくまでも日常的な空間――研究室を舞台に贈る、大胆にして繊細なアイデアSF連作全6編。
 名前以外では片仮名表記を徹底的に排除して――「大型旅客車両」、「らあめん」などの言い換えを用いることによって――、独特の文体を作り上げているSF短編集。帯には「理系女子ならではの、大胆にして繊細な連作集」とあるが、だからと言っていわゆるハードSFではない。表題作「あがり」だけはその例外だが――。どちらかと言えば、大学を舞台にしたファンタジーというべきだろう。雰囲気は認めるものの、傑作であると絶賛するべき要素は見つからない。何よりいわゆる人文科学に対する無知を露呈する部分に苛立つ。
眉村卓
眉村卓『司政官』★★★★★(20130322)

ハヤカワ文庫1975
 眉村卓のSFは、一般に、社会SF派だとか、産業SFという名で呼ばれている。彼が、好んで産業社会を題材に取るという意味では確かにそういえるし、現代社会の中に存在する歪みや、それをつくりだす機構の欠陥をえぐりだそうとしていることからしても、そう呼ばれることは間違いではあるまい。しかし、より本質的に眉村は、そうした社会の中で、より積極的に――野心的に生きようとする――そして、なしうべくんば、自己を組み込んだ社会を、逆に制御しようとする個人の問題を扱っているように、筆者には思われる。(「解説〈司政官〉に至る道」福島正実 p316)
 眉村卓の提唱する「インサイダー文学」は、現実の「体制」を揺るがし得るのか否か。「解説」においてはそれに懐疑的な平井和正や小松左京と眉村との討論が収録されている。その討論に正直なところ興味はない。「文学」が「文学」という形式を持ったままで、権力に対して何かをなし得るのならば、直接的間接的な「発言」の方がより強力な力を持つことは明らかだからだ。その点、眉村であれ、小松や平井であれ、悪い意味でのナイーヴさが露呈されている、と言わねばならない。
 そのことを措いても重要なのは、「司政官」という発想が一つには理想の統治のあり方と、その理想を実現しようと苦闘する人物の思考や行動を、SFという形で具体的に示してくれたことにあり、加えてそこには、文化人類学におけるフィールドワークの異星人版シミュレーションもまた同時にそこに描かれているからである。さらには、異星を植民初期に統治していた連邦軍と司政官との統治技術の食い違いに由来する葛藤(これはいわゆる「殺す権力」と「生権力」との衝突と読み替えられそうだ)までもが盛り込まれているからでもある。
 地味なタイトルと地味な表紙ではあるが、「インサイダー文学」の現実への効果云々は別としても、日本SFにおける最重要な短編集。収録作品は「炎と花びら」「遙かなる真昼」「遺跡の風」「限界のヤヌス」の四編。なお、作中に『消滅の光輪』の舞台である「ラクザーン」の名が登場する。
眉村卓『消滅の光輪(1)/(2)/(3)』★★★★★(20100912)

ハヤカワ文庫1981(創元SF文庫2008)
 若き司政官マセは、初めての担当惑星となる1325星系唯一の惑星、ラクザーンについての情報を受けとっていた。最初の入植以来、わずか50年で異常なまでに繁栄しているラクザーン。だが、まもなくラクザーンの運命も終焉を迎える。太陽が新星化するというのだ。全住民、全企業体のすみやかな異星への移住──それは、かざりものとなりさがってしまっている司政官にとって、とてつもなく困難な仕事と思えた……惑星を覆う壮大なドラマを背景に、体制内で真摯に生きるひとりの司政官の生きざまを見事に描き出し、泉鏡花文学賞に輝いたSF巨編。(ハヤカワ文庫版1巻)
 太陽新星化にともなう全住民退避という課題を与えられた惑星ラクザーンの司政官マセは、かざりものの司政官から、絶対権力者たる司政官へと変貌をとげた。そして、緊急事態対策会議を乗りきり、住民投票により移住先を決定することに成功する。投票日当日、ロボット官僚から次々に送られてくる投票経過報告。だが、先住者ラクザーハはひとりとして投票場に現われない。結局、投票は植民者だけで終わった。やがて、ラクザーハ説得のため、マセは科学センターのランとともに先住者居住区を訪れたのだが……泉鏡花賞受賞に輝く眉村SFの白眉(ハヤカワ文庫版2巻)
 1325星系の惑星ラクザーンの司政官マセは、太陽の新星化による全住民退避計画を推し進めていた。すでに390万人の住民が移住先の惑星ノジランに旅立っていった。だが、通貨ラックスは日ごとに下落し、ロボット官僚や司政施設は頻繁に暴徒に襲われるようになっている。そして、ついに首都ツラツリットに大規模な暴動が起きた。治安部隊はすでに辺境地の暴動鎮圧に赴き、いない。堅固な司政庁の壁も多数の反乱者によってつぎつぎと打ち破られていく。しかも、反乱者たちは連邦軍の装備を身につけていた……泉鏡花賞受賞に輝くSF巨編ここに完結(ハヤカワ文庫版3巻)
 眉村が書き続けてきた一連の「司政官シリーズ」の一つの到達点にして、日本SFの金字塔。新星化しつつある恒星を持つ植民惑星からの住民退避を遂行する「司政官」の苦悩、それはすなわち管理し、統治する側の苦悩である。管轄地域住民のエゴと企業の利害を前にしての、行政の遂行がいかに困難な作業であるかが手に取るようにわかる。与えられた職務の遂行に当たって、与えられた“力”を使うべき際に躊躇なく用いる。それを支えているのは司政官としての信念である。発言の動機、その裏の意味など、言動の一つ一つに対する緻密な裏付けが物語の厚みを増す。その文体は従って、有川浩と近似する。
眉村卓『司政官 全短編』★★★★★(20130323)

創元SF文庫2008
星々に進出した地球人類。だが連邦軍による植民惑星の統治が軋轢を生じさせるに及び、連邦経営機構が新たに発足させたのが司政官制度である。官僚ロボットSQ1を従えて、人類の理解を超えた原住者種族を相手に単身挑む若き司政官たちの群像。著者を代表する、遠大な本格SF未来史の短編全7作を年代順に配し、初野一巻本として贈る。巻末には詳細な作品世界ガイドを収録した。
 司政官をテーマとしてハヤカワ文庫から出版されたものの、長らく入手難であった二冊の短編集、『司政官』と『長い暁』を一冊に纏めた待望の書。さらに加藤直之の表紙もまた素晴らしい一冊。一冊通して読んでみると、解説の中村融も述べている通り、「異星文化人類学SF」というタイトルが相応しい物語群であることがよく分かる。それは単に「原住者種族」の生態や文化を緻密に描くのみならず、「原住者種族」と接する司政官の思いまでもが文化人類学的であるということなのだ。文化人類学以上に言葉の厳密な意味での「他者」と出逢い、その出逢いさえもを反省するような、自らの立場さえ掘り崩しかねない自問を繰り返す様は、たとえばレヴィ=ストロース『悲しき熱帯』のそこここに満ちている「憂い」と共通したものである。
真梨幸子
真梨幸子『殺人鬼フジコの衝動』★★★★(20120212)

徳間文庫2011

 一家殺人事件のただひとりの生き残りとして新たな人生を歩み始めた十一歳の少女。だが彼女の人生はいつしか狂い始めた。「人生は、薔薇(ばら)色のお菓子のよう」。呟きながら、また一人彼女は殺す。何がいたいけな少女を伝説の殺人鬼にしてしまったのか?精緻に織り上げられた謎のタペストリ。最後の一行を読んだ時、あなたは著者が仕掛けたたくらみに戦慄し、その哀しみに慟哭する……!
 一見シリアルキラーの行動を「カルマ」という宗教概念で裏打ちする、と見せかけて、それを裏切る結末を見せる点、我孫子武丸『殺戮にいたる病』のような本格推理と同じ地平にあると言えるだろう。しかし『殺戮にいたる病』は出来事の主体を二重化するトリックを仕掛けたのだが、本書は出来事自体を二重化する。従って本書は『殺戮にいたる病』の一変形であると言える。裏返せば本書の変形版が『殺戮にいたる病』でもある。ただし本書では最終的に焦点となるべき「出来事の二重化」が読者の「読み」にかなりの部分委ねられているため、構図がはっきりとは見えてこない。それを難点と取るのか、あるいは作者の方法と取るのか、これは読み手次第であるだろう。
真梨幸子『女ともだち』★★★★(20120715)

講談社文庫2012
同日に同じマンションで、二人の独身キャリアウーマンが殺された。一流企業のOLだった被害者の“裏の顔”とは? 二つの殺人をつなぐ接点とは? 新人ルポライターの楢本野江(ならもとのえ)が辿り着いた真相は、驚くべきものだった……。衝撃の結末が女たちの心の闇をえぐり出す、ドロドロ濃度200%の長編ミステリー。
 裡に秘める狂気を描いた作品。いかにも現代的な淵源から発する複数の女性の狂気を、ルポライターが追うという形式で物語は進む。作者の言う通り、「ワイドショーでとりあげられそうなステレオタイプな人たち」が、複合的に絡まり合う様も面白い。ルポライターの描く「絵」が、ありがちな物語のように「真相の解明」へと素直に繋がっていかないのも好ましい。
三上延
三上延『ビブリア古書堂の事件手帖 〜栞子さんと奇妙な客人たち〜』★★★★★(20120312)

メディアワークス文庫2011

不思議な事件を呼び込むのは一冊の古書

 鎌倉の片隅でひっそりと営業をしている古本屋「ビブリア古書堂」。そこの店主は古本屋のイメージに合わない若くきれいな女性だ。残念なのは、初対面の人間とは口もきけない人見知り。接客業を営む者として心配になる女性だった。
 だが、古書の知識は並大抵ではない。人に対してと真逆に、本には人一倍の情熱を燃やす彼女のもとには、いわくつきの古書が持ち込まれることも。彼女は古書にまつわる謎と秘密を、まるで見てきたかのように解き明かしていく。
 これは“古書と秘密”の物語。
 古本屋の主人といえば、あの葬式にでも参列しているかのような仏頂面の男が思い浮かぶが、その人物を裏返しにしたかのようなキャラクター設定が冴える。本がテーマで舞台が書店、かつ主人公が女性ということであれば、大崎梢「成風堂書店」シリーズとも共通する。さらには「栞子」という名前には、諸星大二郎のあの「栞と紙魚子」シリーズを思い浮かべずにはいられない。ともあれ、なめらかな文体ですらすらと読み進められる上に、二重三重に張り巡らされた伏線も見事で、紛うことなき徹夜本。アンナ・カヴァン『ジュリアとバズーカ』やピーター・ディキンスン『生ける屍』など、マニアックな小細工も効いている傑作。
三上延『ビブリア古書堂の事件手帳2 〜栞子さんと謎めく日常〜』★★★★★(20120315)

メディアワークス文庫2011

古書と秘密、大人気ビブリオミステリ


 鎌倉の片隅にひっそりと佇むビブリア古書堂。その美しい女店主が帰ってきた。だが、入院以前とは勝手が違うよう。店内で古書と悪戦苦闘する無骨な青年の存在に、戸惑いつつもひそかに眼を細めるのだった。
 変わらないこともひとつある――それは持ち主の秘密を抱えて持ち込まれる本。まるで吸い寄せられるかのように舞い込んでくる古書には、人の秘密、そして想いがこもっている。青年とともに彼女はそれをあるときは鋭く、あるときは優しく紐解いていき――。
 前作より更に緻密な構成の作品。何も考えずに読んでも十分楽しめる内容であるが、注意深く読むとその「謎解き」の手がかりが周到に散りばめられていて、一字一句たりともゆるがせにしない作者の気配りがうかがえる。多少人間関係の進展が早過ぎる、というより些か唐突なのが気にかかるが、それも小さな瑕疵でしかない。「その絵」は誰が描いたものであり、どういう背景を持っているのか、が明らかにされていないが、それが第3巻で示されたならば、本書の構成は一際大きな構成をもって2巻にまたがっていることになるだろう。
三上延『ビブリア古書堂の事件手帳3 〜栞子さんと消えない絆〜』★★★★★(20120623)

メディアワークス文庫2012

古書と絆、大ベストセラー人気ミステリ


 鎌倉の片隅にあるビブリア古書堂は、その佇まいに似合わず様々な客が訪れる。すっかり常連の賑やかなあの人や、困惑するような珍客も。
 人々は懐かしい本に想いを込める。それらは予期せぬ人と人の絆を表出させることも。美しき女店主は頁をめくるように、古書に秘められたその「言葉」を読みとっていく。
 彼女と無骨な青年店員が、その妙なる絆を目の当たりにしたとき思うのは? 絆はとても近いところにあるのかもしれない――。
 これは“古書と絆”の物語。
 物語を巡る物語の第三巻。または虚構を取り巻く虚構の第三弾。相変わらずの緻密さで物語は展開する上に、全巻を貫くより大きな謎が提示されることで深みも一層増している。ただ、第二話『タヌキとワニが出てくる、絵本みたいなの』については近年少々話題になっただけに、解決が示される前にある程度推測できる気もする。とは言えそれによって面白さが減ずるわけではない。問題なのは、登場する幾多の本もまた連鎖的に読みたくなることである。しかもそれが多くの場合入手難だ――でなければそもそも物語のアイテムたり得ない――から困ったものである。かろうじてボブ・ショウ『去りにし日々、今ひとたびの幻』が手元にあるだけでもましか。本好きにはたまらない作品なのだが、読み終えると今度は読めない本のことを思ってもどかしくなる罪作りな作品であることも確か。
三上延『ビブリア古書堂の事件手帳4 〜栞子さんと二つの顔〜』★★★★★(20130226)

メディアワークス文庫2013
 珍しい古書に関する特別な相談――謎めいた依頼に、ビブリア古書堂の二人は鎌倉の雪ノ下へ向かう。その家には驚くべきものが待っていた。
 稀代の探偵、推理小説作家江戸川乱歩の膨大なコレクション。それを譲る代わりに、ある人物が残した精巧な金庫を開けてほしいという。
 金庫の謎には乱歩作品を取り巻く人々の数奇な人生が絡んでいた。そして、深まる謎はあの人物までも引き寄せる。美しき女店主とその母、謎解きは二人の知恵比べの様相を呈してくるのだが――。
 シリーズ初の長編である本書は、江戸川乱歩の数作品を巡っての物語である。この巻に至って五浦のキャラクターがかなり生きてきた感がある。とともに、キャラクター同志も有機的に絡まり合ってきて、単なる謎解き物語以上の「雰囲気」を持ちつつある。幾つもの伏線も無理なく回収されていて、読後感もすっきりとしている。さらに、乱歩の読者であるか、かつて読者であったならば尚更楽しめる上に、本書で乱歩に興味を持った人にとっても、少なくとも乱歩作品はこれまでの巻で取り上げられた古書よりは入手しやすいはずなのが有り難い。
三上延『ビブリア古書堂の事件手帳5 〜栞子さんと繋がりの時〜』★★★★★(20140206)

メディアワークス文庫2014
 静かにあたためてきた想い。無骨な青年店員の告白は美しき女店主との関係に波紋を投じる。彼女の答えは――今はただ待ってほしい、だった。
 ぎこちない二人を結びつけたのは、またしても古書だった。謎めいたいわくに秘められていたのは、過去と今、人と人、思わぬ繋がり。
 脆いようで強固な人の想いに触れ、何かが変わる気がした。だが、それを試すかのように、彼女の母が現れる。邂逅は必然――彼女は母を待っていたのか? すべての答えの出る時が迫っていた。
 長編形式だった前作から短編形式へ戻っての第五巻。書き急いだのか、不注意な記述がなくもない。第三話『われに五月を』では、次男の職業が明記されてはいないにも関わらず、既に説明済みのこととして物語が進行するとか、これも第三話だが、264ページ最後の行に誤植が一箇所存在するとか、第一話では、志田と老人の出会いのきっかけが不自然であるとか(そんな細かい仕草が果たして通行人に見えるものなのか?)、遺漏は散見される。にも関わらず、推理ものとしての全体の水準は高いままである。その上、物語そのものの決着へ向かって発条を撓めていくような緊張感が溢れていて、次巻が待ち遠しい作品となっている。
三上延『ビブリア古書堂の事件手帳6 〜栞子さんと巡るさだめ〜』★★★★★(20141229)

メディアワークス文庫2014
 太宰治の『晩年』を奪うため、美しき店主に危害を加えた青年。ビブリア古書堂の二人の前に、彼が再び現れる。今度は依頼者として。
 違う『晩年』を捜しているという奇妙な依頼。署名ではないのに、太宰自筆と分かる珍しい書きこみがあるらしい。
 本を追ううちに、二人は驚くべき事実に辿り着く。四十七年前にあった太宰の稀覯本を巡る盗難事件。それには二人の祖父母が関わっていた。
 過去を再現するかのような奇妙な巡り合わせ。深い謎の先に待つのは偶然か必然か?
 物語の締め括りへ向けて、出来事と出来事が徐々に関連を示し始める。伏線と伏線が繋がり合い、大きな絵を形作り始める。もちろんそれだけではない。この巻で決着する「謎」についても手は抜かれていないので、宙吊りな印象はない。とは言え謎の対象は太宰である。それだけが個人的には瑕疵である、と思う。いわゆる「太宰好き」も多いことを考えれば太宰には太宰なりの良さがあるのだろう。しかし他の作家とは異なり、太宰は常にその生涯の影がつきまとう。素封家の息子であったことや心中未遂を繰り返したことなど、作品を作品として単独で読むには結構邪魔な「人生のエピソード」に溢れすぎているのだ。そこが好きだというファンもいるのかもしれないが、こちらはそれが太宰の煮え切らない文体とも相俟ってともかく鬱陶しいのである。
深木章子(みきあきこ)
深木章子『鬼畜の家』★★(20140725)

講談社文庫2014
我が家の鬼畜は、母でした――保険金目当てで次々と家族に手をかけた母親。巧妙な殺人計画、殺人教唆、資産収奪……唯一生き残った末娘の口から、信じがたい「鬼畜の家」の実態が明らかにされる。人間の恐るべき欲望、驚愕の真相! 第3回ばらのまち福山ミステリー文学新人賞を受賞、衝撃のデビュー作。 解説・島田荘司
 冒頭から暫くの間、独白調の台詞が続く。というより、質問者の台詞が消され、回答者の言葉のみが綴られてゆく。その意図は分かる。だがしかし、この形式は気をつけなければいかにも「作った」様な印象を招きかねない。つまり回答者が、質問者の台詞までも語ってしまう可能性があるからだ。たとえば以下を見てみよう。
「事実をありのままに話してさえくれれば、公表したりしないと約束する、って言われても、初対面でバックも素性も分からない人間の話を、はあ、そうですか、って信用できるわけがないだろう? おまけに、協力してくれないのなら、これまでの調査内容を公表するがそれでもいいのか、っていうんじゃ、まるで脅迫じゃないの?」(p8)
 およそ現実的ではない台詞回しである。そこにいるのは一人だけであり、その一人の人物が、自分の問いに自分で答えている些か不気味な光景を思い浮かべてしまう。しかもこの形式がトリックに一役買っているとはいえ、この形式でなければならないというわけでもない。また、全体としても、キャラクターに厚みや迫真性が感じられない。これもまたたとえば以下の文に明らかである。
「警察ってところはしょせんお役所だから、変死体が見つかるとか、被害者が駆け込んで来るとか、はっきりと目に見える被害がない限り、こっちから動くことはないんですからね」(p96)
 こんな台詞を、後輩であるはずの刑事が、元刑事であるという設定の榊原に対してなぜ言わねばならないのか? プロット段階の、まだ「物語」としては完成されていない文章を読まされている感がある。
御坂真之(さねゆき)
御坂真之『ダブルキャスト』★★★★(20110925)

新潮社1992
こんなに痩せました!
扇情的なキャッチフレーズの傍らに
「使用前」「使用後」というキャプションのついた2枚の写真。
なるほど相撲取りが案山子に化けている。
それ(、、)以前とそれ(、、)以後。
ダイエット食品ならともかく
それ(、、)
人間の存在そのものにかかわる重大なことだったらどうなるのか――。
ひとつ自分流の
「それ以前とそれ以後」の
ストーリーを作ってみようというところから出発したのが
『ダブルキャスト』である。
私の悪い癖で
読み手の予想をいちいち外してやろうという思いが先走り曲折の多いストーリーになった。
書いているときは毎日が愉快で充実したものだった。
お読みいただく方にも
同じように愉快で充実した時間をプレゼントできていたらと思う。
この第一作が
私の作品の中で二番目三番目に面白い話になるよう
次もその次も頑張るつもりである。

御坂真之

 第4回日本推理サスペンス大賞佳作にして島田荘司の推薦文付き『ダブルキャスト』で御坂真之はデビューした。そして、知りうる限り、第二作長編『火獣』の他に二つの短編を発表して以後は、理由は不明だが実に長い沈黙を続けている。ところで、『ダブルキャスト』が発表された同じ年に島田荘司『眩暈』も出版されていて、しかも両者は「精神年齢の幼い人物の手になる形式の日記」を共通項として持つ。奥付によれば『ダブルキャスト』は二月、『眩暈』は九月発行であり、かつ島田はこの作品が受賞したサスペンス大賞の選考委員であったことを考え合わせるならば、『眩暈』は『ダブルキャスト』をヒントとまでは言えないにしても何らかのきっかけにはなったと推測できる。一方、『ダブルキャスト』の、記憶喪失の主人公という設定はやはり島田の『異邦の騎士』に共通する。島田の実質第一作が『異邦の騎士』であるから、時間軸に沿って並べるならば『異邦の騎士』→『ダブルキャスト』→『眩暈』という順序になる。さらに上に述べた理由から、『異邦の騎士』+『眩暈』=『ダブルキャスト』とも言える。つまりは島田作品と通底し(影響を受けたかどうかは定かではない)、島田作品へと影響を与えたのがこの『ダブルキャスト』なのだ。残念ながら文庫化されていず、ハードカバー版も絶版状態であるが、島田作品を論ずる上では恐らく欠かせない書ではないだろうか。内容はと言えば、本格の形式を貫いた、水準以上の面白さを持つ作品である。
三島浩司
三島浩司『ダイナミックフィギュア(上)/(下)』★★★★★(20130602)

ハヤカワ文庫2013
地球に飛来した謎の渡来体が建設した軌道リング・STPFは“究極的忌避感”と呼ばれる苦痛を生物に与える作用があった。リングの一部は四国に落下、そこから発生した生物・キッカイは特殊な遺伝メカニズムで急速に進化し、人を襲った。日本政府はキッカイ殲滅のため、二足歩行兵器・ダイナミックフィギュアを開発する。19歳の栂遊星(とがゆうせい)はその操縦士として訓練を受けていたが――。実力派による究極のリアル・ロボットSF(上巻)
香川県善通寺市に拠点を置く、対キッカイ要撃組織・フタナワーフは栂遊星の活躍で第一次要撃戦に勝利するが、その代償として全権司令官を失った。一方、遊星の恋人・公文土筆(くもんつくし)は、反政府的思想集団と行動を共にする。計り知れぬ無力感を覚える遊星の想いをよそに、第二次要撃戦予定日が迫る。さらに進化を繰り返すキッカイとの戦いの行方は? 渡来体の真の目的とは?――異星生命体と二足歩行兵器の最終総力戦がはじまる(下巻)
 帯の文句そのままに、「惜しげもないし類例もない」異色の傑作。物語はもちろんハインライン『宇宙の戦士』に始まる「パワードスーツ」の長い歴史の末席に連なるものではある。が、「二足歩行兵器」の運用に国連や周辺国の思惑を絡めたり、複数の「異星生命体」を登場させたり、さらにまた「反ニュータイプ」的な人間がいわばヒーローとなるような設定を中心に据えたりと、これほどまでに多様な要素を詰め込んで、果たしてまとまりのある結末へと持っていけるのか?」と危ぶむばかりの盛り込みようでありながら、見事な大団円(しかしそれは全面的なハッピーエンドではない)へと持っていく力業が冴える。圧縮され、読み込みと推理が必要な癖のある文体という難点はあるが、その文体が物語をより一層引き立たせているのは確か。何よりキャラクターが際立つ。特に脇役が光っているのだから、紛れもない傑作だと言えるだろう。そしてまた、「パノプティコン」という命名が小憎らしい。
三島浩司『高天原探題』★★★★★(20140511)

ハヤカワ文庫2013
突如現れた謎の土塊(つちくれ)に生き埋めとなった少女が救われた事件を発端に、京都周辺に数多く出現し始めた謎の弁別不能体(べんべつふのうたい)不忍(シノバズ)。それは人の動機(、、)を殺すため存在を感知できず、視界に入れた者は行動不全に陥る。7年後、シノバズの討伐・処理組織「高天原探題(たかあまはらたんだい)」に参入した寺沢俊樹(てらさわとしき)は、かつて己が救い出すも危険な異能者として強制隔離されてしまった少女・皆戸清美(みなときよみ)との再開を望むが……比類なき独創性を放つ戦いと純愛の伝奇SF
 いかなる理由から、何を目的として、一体何が起こっているのか、冷静に考えてみればさっぱり分からない。まるで長編の一部を抜き出して示されたような説明不足かつ曖昧模糊とした設定を背景にしつつ、しかし日本神話等を背景とした用語が独特の彩りを生み、実にリアルな雰囲気が構築される。何が起こっているのか環分からないのだが、それでいて否応なく惹き込まれる。何とも形容し難く、読者を選ぶかもしれないのだが傑作であることは確かである。
三島由紀夫
三島由紀夫『金閣寺』★★★★(20100831)

新潮文庫1960

 朝鮮動乱が勃発して間もない昭和25年7月1日、“国宝・金閣寺消失”の報道が世人の耳目を驚かせた。材をこの放火事件にとり、その陰に秘められた若い学僧の悩み――どもりに生れついた宿命の児の、生への消しがたい呪いと、それ故に金閣の美の魔性に魂を奪われ、ついには幻想と心中するにいたる悲劇を、鬼才三島が全青春の決算として告白体の名文に綴った不朽の金字塔である。
 「仏教体験のいっさいにおいて、たいせつなのは、言語をいわく言いがたいものの神秘的な沈黙のもとに押しつぶすことではなくて、言語に「見切りをつける」ことなのであり、たえず象徴が執念深く事物にとってかわろうとする働きを独特の旋回運動のなかにまきこんで、表現へと導いてしまう言葉の独楽(こま)を停止させることなのである」(ロラン・バルト『表徴の帝国』p118)
 金閣は美の象徴である。それ故バルトに従えば、言語に「見切りをつける」筈の禅寺に金閣寺たる美の象徴が存在するのは矛盾である。そして主人公の溝口は吃りである。つまり彼は言語から「見切りをつけられた」人物であり、であるならば生まれながらの、真の「禅僧」である。その真の禅僧が、言葉ではなく行動で示す=金閣に放火することは、作中に見える「南禅斬猫」と全くの相似形である。であるから、この物語全体がまた一つの禅の公案を成している、と言わねばならない。
三島由紀夫『豊饒の海(一) 春の雪』★★★★★(20100907)

新潮文庫1977
維新の功臣を祖父にもつ侯爵家の若き嫡子松枝清顕と、伯爵家の美貌の令嬢綾倉聡子のついに結ばれることのない恋。矜り高い青年が、〈禁じられた恋〉に生命を賭して求めたものは何であったか?――大正初期の貴族社会を舞台に、破滅へと運命づけられた悲劇的な愛を優雅絢爛たる筆に描く。現世の営為を越えた混沌に誘われて展開する夢と転生の壮麗な物語『豊饒の海』第一部。
 主人公は一方で、目の前にある事物や出来事悉くの「裏の意味」を読まずにはいられない、際限のない記号学者であるとともに、他方では、欲しいものが手の届かないものであればあるほど喜ばしい気持ちになる人物である。とすれば前者は間違いなくいわゆる「濃いマニア」――オカルトファンや解釈オタクのような――姿勢であり、後者もまた、例えばRPGにおける「縛り」プレイに典型的な、ゲームマニアの姿勢であると言える。その意味では実に「濃い」悲恋小説であるのが『春の雪』なのだが、一方でこれはSF小説でもある。『豊饒の海』四部作を貫くのは常に「傍観者=観察者」たる人物と、その視界の中で転生してゆく主人公の物語であるからだ。従って『春の雪』だけでは、全体の四分の一しか読んだことにならない。三島由紀夫最期の、そして最大の、メタファーとメトニミーによって直接的にではなく、爬行的に描出される典雅な物語の綾。
三島由紀夫『豊饒の海(二) 奔馬』★★★★★(20100912)

新潮文庫1977
今や控訴院判事となった本多繁邦の前に、松枝清顕の生れ変りである飯沼勲があらわれる。「神風連史話」に心酔し、昭和の神風連を志す彼は、腐敗した政治・疲弊した社会を改革せんと蹶起(けっき)を計画する。しかしその企ては密告によってあえなく潰える……。彼が目指し、青春の情熱を(たぎ)らせたものは幻に過ぎなかったのか?――若者の純粋な〈行動〉を描く『豊饒の海』第二巻。
 『奔馬』は、『春の雪』の陰画であると言える。主人公の対照的な作品である。『春の雪』の主人公、松枝清顕は、学習院の学生であり、他者の感情を操ろうとする一方で、自己の感情が意のままにならぬことを悟り(「何事にも興味がない」と言い、「感情のままに生きる」と言いつつ、それこそが既に「感情の統御」であるのだが、その意志とは裏腹な「感情による翻弄」がこの物語であるから)、結果として病を得て破滅するが、『奔馬』の主人公、飯沼勲は國學院の学生であり、自己の感情を統御する術(「剣道の達人」であるのだから)を身に付けているが、他者の感情を考慮せず、結果として他者の感情に裏切られ、自刃する。さらに細かく考察するならば、この二つの著作の間には多種多様な二項対立が存在するだろうが、ともかくも『春の雪』の静寂に対して『奔馬』の鳴動は印象的である。
三島由紀夫『豊饒の海(三) 暁の寺』★★★★★(20100912)

新潮文庫1977
〈悲恋〉と〈自刃〉に立ち会ってきた本多には、もはや若き力も無垢の情熱も残されてはいなかった。彼はタイで、自分は日本人の生れ変りだ、自分の本当の故郷は日本だと訴える幼い姫に出会った……。認識の不毛に疲れた男と、純粋な肉体としての女との間に架けられた壮麗な猥雑の世界への橋――神秘思想とエロティシズムの迷宮で生の源泉を大胆に探る『豊饒の海』第三巻。
 一転して主人公は松枝清顕の友人であった本多繁邦となり、その傍観者としての有様がこの物語の主題となる。ミシェル・フーコー『監獄の誕生』によれば、「自らは見られずに一方的に他者を見る者」が権力を持つのだが、それはしかし「見られている」ことが、当の「見られている者」において意識されている限りにおいてである。その点、本多の「他者の運命を操ろうとする意志」はあらかじめ挫折を余儀なくされている。というのも彼は、転生という知識を本人に告げず、だからこそその人物を「見ている」のだと語らず、かつ「監視している」事実すら語らないからである。それ故本多の思惑は思うに任せず、最終的には本多が「転生」に振り回される結果に至る。ならば本書は前二巻のパロディなのだ。
三島由紀夫『豊饒の海(四) 天人五衰』★★★★★(20100912)

新潮文庫1977
妻を亡くした老残の本田繁邦は清水港に赴き、そこで帝国信号通信社につとめる十六歳の少年安永透に出会った。彼の左の脇腹には三つの黒子が(すばる)のようにはっきりと象嵌されていた。転生の神秘にとり憑かれた本多は、さっそく月光姫(ジン・ジャン)の転生を賭けて彼を養子に迎え、教育を始める……。存在の無残な虚構の前で逆転する〈輪廻〉の本質を劇的に描くライフワーク『豊饒の海』完結編。
 四人の人物の間を「転生」してきた魂とは果たして何であったのか? 最終巻において「生の横溢」が描かれ、物語は円環を為して結末に至る、と思いきや、むしろ予想とは裏腹に、様々な伏線と人間関係の錯綜が、投げ出される。『春の雪』と『奔馬』の連結点である「滝」に例えるならば、ベネズエラのエンジェルフォールのように、その水流は遂に滝壺へと届くことなく、落ちる途中で霧のように雲散霧消してしまう。「転生」は存在したのか、それとも存在しなかったのか? このような終わり方はいっそ清々しくさえある。『暁の寺』で散々考察された「転生の神秘」は本書において『般若心経』の「空」へと至る。『豊饒の海』にみっしりと詰め込まれていたのは「空」である。
水沢あきと
水沢あきと『彼女と僕の伝記的学問』★★(20120913)

メディアワークス文庫2012
 明応大学・民間伝承研究会のメンバーは、ある《祭事》の『実地調査(フィールドワーク)』のため、山奥にある葦加賀村を訪れた。
民俗学初心者の大学1年・能見啓介(のみけいすけ)はその矢先、村の入口で謎の人物を目撃する。その人物に大学の友人「弓立桜花(ゆみたちおうか)」の面影を見た啓介は、訝しみつつも村の見学を始めた。
 だが交流を深めるうち、彼らは村人たちの言動に不審な点があることに気づきだす。深夜に蠢く松明をもった人の列。メンバー以外のよそ者への過剰な対応……果たしてこの村に隠された真実とは!?
 タイトルの「伝奇的学問」とは「日本民俗学」のことであり、主として民俗学的知見が物語を裏打ちしていく構成である。その狙いは良い。良いのだが、やや“俗流”民俗学に走っている感が否めない。何より問題なのは吉野裕子の多大なる引用だ。「何であろうとそれは蛇」という説を繰り返し展開する吉野の説は、拝聴する側としてはいかにもアヤしい。それは物語構成の材料であるとして目を瞑るにしても(ちなみに吉野説の引用部分(p236)に「八咫鏡は八岐大蛇の目から作られた」というくだりがあるが、これは何を典拠としているのだろうか? 少なくとも『記紀』にそうした記述は存在しない。また吉野裕子の『蛇 日本の蛇信仰』にもそのような説明はない筈だ)、ではなぜ「蛇」がその祭において繰り返し登場するのか、ということの説明が物語中には無いように思える。
さらに、そもそも、そのような「裏の神事」をわざわざ作らねばならない必然性がない。「表の神事」が既に「秘祭」であると設定されているのに、その神事に「裏」があるのは屋上屋を架すことになる。「裏」の神事のみを秘かに行えば済むことであり、ならば結果的に、「表の神事」はただ単に主人公たちに知られるためのみに存在しているような不可解な存在なのだ。何よりその「表の神事」を許可無しに取材しようとした二人の人物は結局どうなったのか? 
 加えて――以降は本書の直接の批評ではない――、作者の「民俗学」に対する屈託の無さにも多少眦が吊り上がる。言うまでもない。「民俗学や、それに近い分野である文化人類学」(p131)というくだりだ。急いで付け加えるが、「民俗学」と「民族学」の音の同一性については措いておく。いつの間に民俗学は、自身に内在していた「方法論の無さ」をクリアしたのだろうか? いつの間に民俗学は、もともとは文化人類学(=民族学)においての難問であった「倫理的不整合」を自家薬籠中のものとするまでに「成長」したのか? いつの間に民俗学者は「不幸」(大月隆寛『民族学という不幸』参照)でなくなったのだろうか? 勿論「屈託の無さ」は作者のものではなく、作者を取り巻く研究室に由来するのかも知れない。だが「民俗学と民族学の学問的不整合」について彼が知っているのか否かが多少不安ではある。
道尾秀介
道尾秀介『向日葵の咲かない夏』★★★(20121202)

新潮文庫2008
夏休みを迎える終業式の日。先生に頼まれ、欠席した級友の家を訪れた。きい、きい。妙な音が聞こえる。S君は首を吊って死んでいた。だがその衝撃もつかの間、彼の死体は忽然と消えてしまう。一週間後、S君はあるものに姿を変えて現れた。「僕は殺されたんだ」と訴えながら。僕は妹のミカと、彼の無念を晴らすため、事件を追いはじめた。あなたの目の前に広がる、もう一つの夏休み。
 これはミステリーではない。ともかくも序盤において、S君が生まれ変わってきた時点で、物語はミステリーの地平を外れて幻想小説へと踏み出してしまっている。そしてその判断は読み終えるまで覆されることはない。こうした物語構成を選択した著者の意図は分かる。解説の千街晶之も言うように、「人間は自分が思っているよりも遙かに、現実と幻想が複雑に入り混じったグレーゾーンで暮らしている」(p469)のだろうし、それこそが描かれた内容であるのかもれない。しかし、物語においては必ず、現実と幻想が区別されねばならない。なぜなら物語そのものがまさに一つの閉じた「幻想」であるからだ。それゆえ「現実と幻想が複雑に入り混じったグレーゾーン」を際限なく拡大していけば、やがてその輪郭は「物語」そのものと等しくなる。この小説で示された論理を徹底してゆくならば、『向日葵の咲かない夏』という物語全体が、主人公であるミツオの「幻想」でしかない、とも言えてしまうはずである。そのとき物語の内容は「何でもあり」ということにならないだろうか? だからこそどこかに歯止めが必要なのであり、物語内の「現実」と「幻想」の分離は行われねばならないのだ。すべての発端になった主人公の「嘘」のエピソードが果てしなく悲劇的なだけに勿体ないと思う。また、S君はなぜアルファベット一文字で示されるのかが明かされないのも不満である。
三津田信三
三津田信三厭魅(まじもの)の如き憑くもの』★★★(20120722)

講談社文庫2009
神々櫛(かがぐし)村。谺呀治(かがち)家と神櫛(かみぐし)家、二つの旧家が微妙な関係で並び立ち、神隠しを始めとする無数の怪異に彩られた場所である。戦争からそう遠くない昭和の年、ある怪奇幻想作家がこの地を訪れてまもなく、最初の怪死事件が起こる。本格ミステリーとホラーの魅力が圧倒的世界観で迫る「刀城言耶(とうじょうげんや)」シリーズ第一長編。
 まるで横溝正史のような、しかし横溝ならば徒に民俗学的事象を盛り込まず、むしろ「村の因習の為せる業」へと向かったであろうものを、敢えて衒学的な方向へ針路を執った、その心意気については高く評価できるだろう。そこに醸し出される雰囲気は良い。しかし残念ながら登場人物の顔が見えない。この物語には、人物の姿形の描写が殆ど無いからだ。表情の記述も同様で、「険悪な表情(p90)」などの通り一遍の修飾語が置かれるきりである。風景に関しても「深い峡谷の向こう側に奇岩の群れが連なっている光景(p190)」と言われても、どのように想像すればよいのか途方に暮れる。その「奇岩」の有様を描いてこその情景描写ではないのか? だからこの物語は、まるで書き割りの中で木偶人形がギクシャクと角張った演技をしているような、覚束ない様相において進んで行くのである。最後の最後で明かされる「真相」についても、京極夏彦『姑獲鳥の夏』で用いられたある解明の二番煎じであるとともに、その人物がそれだけ長く気付かれずにいたことにも無理があるように思える。総じて、材料は完璧であったが料理人の腕が伴わなかったとの印象を受けた。
湊かなえ
湊かなえ『告白』★★★★(20100503)

双葉文庫2010
「愛美は死にました。しかし事故ではありません。このクラスの生徒に殺されたのです」
我が子を校内で亡くした中学校の女性教師によるホームルームでの告白から、この物語は始まる。語り手が「級友」「犯人」「犯人の家族」と次々と変わり、次第に事件の全貌が浮き彫りにされていく。衝撃的なラストを巡り物議を醸した、デビュー作にして、第6回本屋大賞受賞のベストセラーが遂に文庫化! 〈特別収録〉中島哲也監督インタビュー『「告白」映画化によせて』。
 この物語は全編が、ある事件の関係者達の独白において構成されていて、それが長所とも欠点ともなっている。長所とは読みやすさであり、速ければ一日で読めてしまう筈だ。そして欠点とは、迫真性の欠如である。物語自体が、事件から日にちが経ってから始まる、という理由もあるだろうが、全体として感情描写に迫力が乏しい傾向があるように思える。事件が事件であるだけにそれがもどかしい。人物の心理描写なり映像的な描写なりがあればその乏しさを補うこともできただろうが、告白形式ではそれも頼れない。この感情描写の力不足は果たして作者の力量なのか、それとも物語構成の故なのか。それは第二作以降での判断に付すこととしよう。
湊かなえ『少女』★★★★★(20130729)

双葉文庫2012
親友の自殺を目撃したことがあるという転校生の告白を、ある種の自慢のように感じた由紀は、自分なら死体ではなく、人が死ぬ瞬間を見てみたいと思った。自殺を考えたことのある敦子は、死体を見たら、死を悟ることができ、強い自分になれるのではないかと考える。二人とも相手には告げずに、それぞれ老人ホームと小児科病棟へボランティアに行く――死の瞬間に立ち会うために。高校2年の少女たちの衝撃的な夏休みを描く長篇ミステリー。
 主人公の2人を軸にして、その周りを巡る他の登場人物たちの関係が明らかになるにつれて、もはや物語でしか表せない濃密な相関図が現われてくる。結晶構造のような緊密な相関図は、読み手によっては「御都合主義」であるとか、「非現実的」であると受け取りかねないだろう。しかしそのような批判は承知の上で描かれた物語なのだから、読者はそうした「新しく現われたある人物が、少なくとも他の2人以上の登場人物と知り合いである」という構図を単純に楽しめばよいのである。
湊かなえ『贖罪』★★★★★(20130816)

双葉文庫2012
15年前、静かな田舎町でひとりの女児が殺害された。直前まで一緒に遊んでいた四人の女の子は、犯人と思われる男と言葉を交わしていたものの、なぜか顔が思い出せず、事件は迷宮入りとなる。娘を喪った母親は彼女たちに言った――あなたたちを絶対に許さない。必ず犯人を見つけなさい。それができないのなら、わたしが納得できる償いをしなさい、と。十字架を背負わされたまま成長した四人に降りかかる、悲劇の連鎖の結末は!?
〈特別収録〉黒沢清監督インタビュー。
 過去において起こった悲劇の記憶と現在の時点における悲劇とが絡まり合いつつ語られる四人の物語。過去の悲劇は「他者のもの」であり、現在の悲劇は「自己のもの」である。しかも現在の悲劇は、辿れば過去の悲劇へと行き着く。四方向へと波及する悲劇の螺旋が、淡々とした文体で語られる。注目すべきは、しかしながら四人の人物に実は罪とされるべき落ち度は「何もない」ということである。ならば四人は被害者の母親の「償いなさい」という言葉にのみ取り憑かれていたということになる。「贖罪」というタイトルは、それゆえ読み進めるにつれて四人とは異なる人物の方向へ収斂する。抜群のタイトルを持つ傑作。
湊かなえ『白ゆき姫殺人事件』★★★(20140504)

集英社文庫2014
化粧品会社の美人社員が黒こげの死体で発見された。ひょんなことから事件の糸口を掴んだ週刊誌のフリー記者、赤星は独自に調査を始める。人人への聞き込みの結果、浮かび上がってきたのは行方不明になった被害者の同僚。ネット上では憶測が飛び交い、週刊誌報道は過熱する一方。匿名という名の皮をかぶった悪意と集団心理。噂話の矛先は一体誰に刃を向けるのか。傑作長編ミステリー。
 被害者の周辺にいた人物の証言のみで構成される、という点では有吉佐和子『悪女について』など多々あるが、その構成が狙うのは人物像のブレであり、一概に固定されないところに面白さがあると言える。しかし本書ではその構成が生きているとは言いがたいし、返って証言する側として登場してくる犯人の輪郭を曖昧なものにしてしまった印象さえある。また、ネットでの記述を意識的に物語に使用した作品、との予測をもって読んだのだが、その期待も空振りに終わる。さまざまな部品がかっちりと組み上がらないまま、な読後感である。
宮部みゆき
宮部みゆき『東京殺人暮色』★★★★(20150306)

光文社カッパノベルズ1990
 八木沢順(やぎさわじゅん)(13歳)が父・道雄(みちお)と二人だけの生活をはじめたのは、ウォーター・フロントとして注目を集めている隅田川と荒川にはさまれた土地だった。
 道雄は警視庁捜査一課の刑事。そのころ町内では“ある家でひと殺しがあった”という(うわさ)で持ち切りだった。
 はたして、荒川でバラバラ死体の一部が発見され…!?
 さわやかな筆致(タッチ)(えぐ)る現代社会の奇怪な深淵! サスペンスと、ほのぼのとした情感とを見事に融合させた新感覚の本格推理秀作!
 『魔術はささやく』で日本推理サスペンス大賞を受賞した新鋭が、満を持して書き下ろした受賞第一作!
 登場人物の関係から、これはアシモフの『黒後家蜘蛛の会』シリーズと同じ形式を持ったものではないかと予想したのだが、そうではなかった。とはいえ、家政婦の「ハナさん」がほのぼのとした味わいのある長編。そして殺人犯の姿には、後の『模倣犯』に繋がる要素も僅かながら読み取れそうである。だが、全体としてもう一つ散漫な印象を受ける。悪くはないのだが、結末部分が急ぎすぎで説明不足な感が拭えない。言い換えれば登場人物たちの相関図が突如として、最後の二十ページほどで完成されていく様に、読者は置いて行かれてしまいかねないのである。
宮部みゆき『火車』★★★★★(20110711)

双葉社1992(新潮文庫1998)
智には、まだ話して聞かせてもわからないだろう。だが、もう二、三年したら、きちんと教えておかなくてはなるまい。これから先、お前たちが背負って生きぬいていく社会には、「本来あるべき自分になれない」「本来持つべきものが持てない」という忿懣(ふんまん)を、爆発的に、狂暴な力でもって清算する――という形で犯罪をおかす人間があまた満ちあふれることになるだろう、と。
 そのなかをどう生きてゆくか、その回答を探す試みは、まだ端緒についたばかりなのだということも。(双葉社版p303)
 これは「名前」についての物語であり、「名前」を探す物語である。「名前」を巡って二人の人物が立体的に浮き彫りにされていく。何気ない日常のシーンの描写も実に見事で飽きさせない。派手な事件が起こるわけでもなく、逃亡する側は追われていることを知らず、追う側は何が起こっているのかについての確信が持てない。主人公は文字通り「爬行的」に、「名前」の足跡を辿ってゆく。そして、最終29章において遂に「追う者と、追われていることを知らない、追われる者」との邂逅が果たされる。たった数ページのこの章が実に美しく、そして果てしなく重みを持つ。
宮部みゆき『長い長い殺人』★★★★(20110715)

光文社1992(光文社文庫プレミアム2011)

輪舞(ロンド)形式の異色推理小説

保険金殺人の犯人は、この男(、、、)しかいないのだが、いつも完全アリバイがある。少年、刑事、旧友など10人が持つ財布が事件を語る輪舞(ロンド)形式の異色小説。
 持ち主の財布が語る、という変わった形式を採る小説。財布であるだけに、持ち主の行動を常に「見て」いるわけではなく、それゆえに音を手がかりにして物語が進行する場面も多々ある。それを記述トリックの一つとして使うこともできただろうが、本書にはそれがないのがもったいない。であるから、ただ財布が語るだけ、という気もしないではない。とは言え物語そのものが面白くないわけではないどころか、『模倣犯』の原型としての趣さえある秀作。
宮部みゆき『淋しい狩人』★★★★(20110712)

新潮社1993(新潮文庫1997)
通勤電車の網棚から由紀子がふと手にとった一冊の文庫本。
頁をめくると、中には一枚の名刺が挟みこまれていた……。
本をきっかけに、普通のOLが垣間見た男女関係のもつれを描く「歪んだ鏡」。
遺された本から父親の意外な素顔が浮かび上がる「黙って逝った」。
そのほか表題作を含め、東京下町の古書店を舞台に本にからむ人間模様を描く連作ミステリー。
(新潮社版)
 古書店を舞台に、本から始まる六つの短編。突拍子もない謎や、意外な結末があるというわけではなく、キャラクターもそれほど際立っているわけではない。とは言えさすがに宮部みゆき、安心して読める。また、「柿崎家の地下から遺骨が出たという話は、田辺町のなかに、小さな子が三輪車で走り抜けた程度のスピードで広がった」のような、何気ない場所で突如登場する見事な比喩が印象的である。
宮部みゆき『理由』★★★(20100804)

朝日文庫2002
東京都荒川区の高級マンションで起きた凄惨な殺人事件。殺されたのは「誰」で「誰」が殺人者だったのか。事件の前には何があり、後には何が残ったのか。ノンフィクションの手法を使って心の闇を抉る宮部みゆきの最高傑作がついに文庫化。《解説・重松清》
 この物語にトリックはない。事件そのものが明確に描かれることはない。焦点があてられるのは、事件の渦中にいたのは「誰」であるのか、ということだ。そのことが多数の証言者の言葉を通じて明らかにされて行くのだが、そこにおいて同時に浮き彫りにされるのが「家族」の多様な有り様である。生活感豊かに、生き生きと描写される家族のあり方。そして一方、「誰」を探る「語り手」そのものは匿名のままである。視野に必ず存在する盲点のように。そこで最後まで明らかにされない(する必然性もない)「話者」とは「誰」なのかを考えてもみたくなる。それが『模倣犯』で事件に関わることになる女性ルポライター、と考えていけないわけはないだろう。
宮部みゆき『今夜は眠れない』★★★★(20110327)

角川文庫2002
母さんと父さんは今年で結婚十五年目、僕は中学一年でサッカー部員。そんなごく普通の平和な我が家に、突然暗雲がたちこめた。“放浪の相場師”とよばれた人物が母さんに五億円もの財産を遺贈したのだ。周囲の人たちは態度がかわり、見知らぬ人たちからは脅迫電話、おまけに父さんは家出をし……。相場師はなぜ母さんに大金を遺したのか? 家族の絆を取り戻すため、僕は親友で将棋部のエースの島崎と真相究明にのりだした!
 語り口はアメリカのジュブナイル風であり、殺人事件が起こる訳でもなく、安心して読める作品。後半多少急ぎ過ぎで、説明的な文章が多く、それによって物語の「意外」感が削がれる印象があるのが難点。ではあるが、視点によっては恐るべき作品であり、その視点からすれば、法月綸太郎や京極夏彦のとある作品を凌ぐものであるとも言えるだろう。
宮部みゆき『夢にも思わない』★★★★★(20110407)

中公文庫1999(角川文庫2002)
秋の夜、下町の庭園での虫聞きの会で殺人事件が。殺されたのは、僕の同級生のクドウさんの従姉だった。被害者には少女売春組織とのかかわりがあったらしい。無責任な噂があとを絶たず、クドウさんも沈みがち。大好きな彼女のために、僕は親友の島崎と真相究明に乗り出した……。中学生コンビの推理の行方は!? 好評の古川タク描き下ろしパラパラマンガも収録(中公文庫版)
 『今夜は眠れない』の続編であり、かつ前作よりも出来が良い。作中に登場する「組織」のリアリティには首を傾げたくなるものの、それ以外の点では間違いなく高水準。主人公を中学生の一人称においた、形式上のジュブナイルだからといって侮ってはいけない。ラストで明かされる「些細な真実」は、些細でありながらもやりきれないほどに重く、読後暫くは「鬱」にならざるを得ない。
宮部みゆき『模倣犯(一)-(五)』★★★★★(20061119)(20100330再録)

新潮文庫2006
 墨田区・大川公園で若い女性の右腕とハンドバッグが発見された。やがてバッグの持主は、三ヵ月前に失踪した古川鞠子と判明するが、「犯人」は「右腕は鞠子のものじゃない」という電話をテレビ局にかけたうえ、鞠子の祖父・有馬義男にも接触をはかった。ほどなく鞠子は白骨死体となって見つかった──。未曾有の連続誘拐殺人事件を重層的に描いた現代ミステリの金字塔、いよいよ開幕!(一巻)
 鞠子の遺体が発見されたのは「犯人」がHBSテレビに通報したからだった。自らの犯行を誇るような異常な手口に、日本国中は騒然とする。墨東署では合同特捜本部を設置し、前科者リストを洗っていた。一方、ルポライターの前畑滋子は、右腕の第一発見者であり、家族を惨殺された過去を背負う高校生・塚田真一を追い掛けはじめた──。事件は周囲の者たちを巻込みながら暗転していく。(二巻)
 群馬県の山道から練馬ナンバーの車が転落炎上。二人の若い男が死亡し、トランクから変死体が見つかった。死亡したのは、栗橋浩美と高井和明。二人は幼なじみだった。この若者たちが真犯人なのか、全国の注目が集まった。家宅捜索の結果、栗橋の部屋から右腕の欠けた遺骨が発見され、臨時ニュースは「容疑者判明」を伝えた──。だが、本当に「犯人」はこの二人で、事件は終結したのだろうか?(三巻)
 特捜本部は栗橋・高井を犯人と認める記者会見を開き、前畑滋子は事件のルポを雑誌に連載しはじめた。今や最大の焦点は、二人が女性たちを拉致監禁したアジトの発見にあった。そんな折、高井の妹・由美子は滋子に会って「兄さんは無実です」と訴えた。さらに、二人の同級生・網川浩一がマスコミに登場、由美子の後見人として注目を集めた──。終結したはずの事件が、再び動き出す。(四巻)
 真犯人Xは生きている──。網川は、高井は栗橋の共犯者ではなく、むしろ巻き込まれた被害者だと主張して、「栗橋主犯・高井従犯」説に拠る滋子に反論し、一躍マスコミの寵児となった。由美子はそんな網川に精神的に依存し、兄の無実を信じ共闘していたが、その希望が潰えたとき、身を投げた──。真犯人は一体誰なのか? あらゆる邪悪な欲望を映し出した犯罪劇、深い余韻を残して遂に閉幕!(五巻)
 五巻の紹介文には「真犯人は一体誰なのか?」と書かれてはいるが、この物語はそうした「犯人当て」ものではない。むしろ犯人と被害者の周辺を巡る人間ドラマである。であるからいっそう、読み進めていく側の負担は大きい。特に三巻・四巻の展開は時間軸が逆行して結末を知らされたあと、そこに至るまでの経緯が描かれていて、1ページ毎に悲劇的な結末へと近づいていくわけで、この山を越えるのには相当のエネルギーが必要であった。事件そのものの実行部分も、ごくあっさりと書かれてはいるが、それだけに「行間を読ませる」手法であって、この上なくやりきれない気持ちになる。むしろ内容的にはかなりどぎつい我孫子武丸『殺戮にいたる病』の方が楽に読めたろうと思われるくらいだ。
 ところで近代社会以降になって、「社会」が発見され、「大衆」が見出される。デュルケームは「社会」を「社会的事実」として「物のように」扱うことを提唱し、その実践においてコントの命名になる「社会学」を確立した(『社会学の根本概念』)。オルテガ・イ・ガセットは「大衆」という無名の権力を「社会」の直中に見出した(『大衆の反逆』)。一方、リースマンはそうした「大衆」の指向性について鋭い考察を投げかけた(『孤独な群衆』)。“真犯人X”は、そうした集合性、無名性、他者指向性を特性とする「大衆」を操る術に長けた人物として設定されている。そして、それに対抗するのは、お互いに日常生活において触れ合い、そして言葉を交わす共同体としての「世間」である。観念的な「社会」と経験的な「世間」。そして、被害者の祖父が“真犯人X”に向かって投げつける最後の台詞において、「世間」は「社会」に対し、自らの勝利を高らかに告げるのである。なお『模倣犯』というタイトルの意味は最後になって明らかになる。
宮部みゆき『誰か Somebody』★★★★★(20120906)

文春文庫2007
今多コンツェルン広報室の杉村三郎は、事故死した同社の運転手・梶田信夫の娘たちの相談を受ける。亡き父について本を書きたいという彼女らの思いにほだされ、一見普通な梶田の人生をたどり始めた三郎の前に、意外な情景が広がり始める――。稀代のストーリーテラーが丁寧に紡ぎだした、心揺るがすミステリー。解説・杉江松恋
 一人の人間の過去を掘り起こす作業という点では同作者の『火車』にも見られた手法だが、それが『誰か』では、連鎖的に主人公も含めた他の人物の人生を明るみに出す作業へと繋がることで物語は進んでゆく。とは言え焦点が曖昧になることはなく、緊張感は最後まで維持される。そして行き着く先に存在するのはある人物の欲望であり、ある一つの事件である点もまた、全体をしっかりと引き締めている理由だろう。なお、続編『名もなき毒』では、核心そのものではないものの、本作『誰か』の一部ネタバレがあるので注意。
宮部みゆき『楽園(上)/(下)』★★★★★(20100401)

文春文庫2010
未曾有の連続誘拐殺人事件(「模倣犯」事件)から9年。取材者として肉薄した前畑滋子は、未だ事件のダメージから立ち直れずにいた。そこに舞い込んだ、女性からの奇妙な依頼。12歳で亡くした息子、(ひとし)が“超能力”を有していたのか、真実を知りたい、というのだ。かくして滋子の眼前に、16年前の少女殺人事件の光景が立ち現われた。(上巻)
16年前、土井崎夫妻はなぜ娘を手にかけねばならなかったのか。(ひとし)はなぜその光景を、絵に残したのか? 滋子は二組の親子の愛と憎、鎮魂の情をたぐっていく。その果てにたどり着いた、驚愕の結末。それは人が求めた「楽園」だったのだろうか――。進化し続ける作家、宮部みゆきの最高到達点がここにある!(下巻)
 「この世には不思議なことなど何一つ無いのだよ」。京極夏彦の「京極堂シリーズ」における中禅寺秋彦の言葉である。にもかかわらず、言葉とは裏腹に「不思議なこと」が常に一つだけ存在する。それは他でもない榎木津礼二郎の「他人の記憶を見る能力」である。彼等を巡る出来事は論理的に解決されるが、彼等自身に関わるこの能力だけは何故か説明が放棄されているのである。
 『楽園』は、榎木津と同様の「能力」を中心に据えた物語である。その能力は本物なのか、それとも論理的説明がなされ得るものなのか。出来事はそこから始まる。だがその「能力」の持ち主は既にして故人であり、それ故に調査は思いがけぬ方向へ引きずられ、予期せぬ人物が想像の埒外にある過去を晒す。家族を巡る秘密は、幾つもの「事件」を巻き込んで渦中の人々を揺さぶる。過去の発掘、複数の家族の「歴史」の再構築。果たしてその結末は? 繊細で巧みな文体によって綴られる物語の終局は、多分予定調和と言えば言えるが、それにしても美しい物語の閉じ方ではある。
宮部みゆき『ICO ―霧の城―(上)/(下)』★★★★★(20101206)

講談社文庫2010
霧の城が呼んでいる、時が来た、生贄を捧げよ、と。イコはトクサ村に何十年かに一人生まれる角の生えたニエの子。その角を持つ者は「 生贄(ニエ)(とき)」が来たら、霧の城へ行き、城の一部となり永遠の命を与えられるという。親友トトによって特別な御印(みしるし)を得たイコは、「必ず戻ってくる」と誓い、村を出立するが――。(上巻)
断崖絶壁に建つ霧の城にやってきたイコは、鳥籠に囚われた一人の少女・ヨルダと出逢う。「ここにいちゃいけない。一緒にこの城を出よう。二人ならきっと大丈夫」。なぜ霧の城はニエを求めるのか。(いにしえ)のしきたりとヨルダの真実とは。二人が手を取り合ったとき、この城で起きた悲しい事件の幻が現れ始める。(下巻)
 荒涼とした廃墟たる城、風の音。『ICO』という名のゲームは、実に静かで物寂しい雰囲気を持つ異色作であった。アクションの要素そのものとしては『トゥームレイダー』シリーズと類似するものを持ちつつも、方向性が正反対である。後者が「隠された場所へ入っていく、その内奥へと突き進んでいく」ことが目的ならば、『ICO』は「その閉じ込められた場所から出ていく」ことが目的であるからだ。『トゥームレイダー』は「その先に何がいるか分からない恐怖」がプレイヤーの原動力たり得るが、『ICO』においてそれに相当するのは「存在そのものの不安、実存の不安」である。なにゆえにか角を持ち、そして城の地下に置き去りにされた少年と、鳥籠に閉じ込められ、理解できない言葉を話す少女という組み合わせからして既に充分不条理であり、少女を連れ去ろうと現われる人型の影、そして二人の他には誰一人見出せない広大な城、その全てが「不安な世界」の輪郭を構成する。
 宮部みゆきの『ICO』は、そうした世界を壊すことなく見事に「言葉」としている。言葉が殆ど存在しないゲーム版『ICO』のノヴェライズには、それゆえに作者のセンスが問われる。ありがちな勇者物語に堕すことなく、その上で世界観を言葉によって理屈付けねばならない。世界を言葉によって埋め尽くすのでないならば、「単なるゲームの説明」なのであって、独立した物語ではない。その点この小説版『ICO』は、決して過剰にならず、かといって舌足らずにもならない適度な言葉によって、あの「静謐」が再現されていると言えるだろう。
宮部みゆき『名もなき毒』★★★★★(20120828)

文春文庫2011
今多コンツェルン広報室に雇われたアルバイトの原田(げんだ)いずみは、(たち)の悪いトラブルメーカーだった。解雇された彼女の連絡窓口となった杉村三郎は、経歴詐称とクレーマーぶりに振り回される。折しも街では無差別と思しき連続毒殺事件が注目を集めていた。人の心の陥穽を圧倒的な筆致で描く吉川英治文学賞受賞作。解説・杉江松恋
 しみじみと怖い長編。シックハウスという「毒」、土壌汚染という「毒」、さらには睡眠薬、そして青酸カリ。実体であるそうした「毒」を材料にして、はっきりした方向性を持たない「悪意」という抽象的な「毒」が描かれる。その「悪意」とはより明確には不特定の他者に向けられた「怒り」であるが、これが二つの容貌で登場する。それらは「どこかの誰かさんが“自己実現”なんて厄介な言葉を考え出したばっかりに」(p414)生じた「怒り」であるとまとめられるだろう(「自己実現」という言葉を誰が考え出したかを指摘しても良いのだが、今は控えておく)。自己実現が内的に阻害されるのか、それとも外的要因によって阻まれるのかが、「悪意」の容貌を二つに分ける。
 さて、それら「悪意」は最終的に「権力」を志向する。すなわち殺人である(「究極の権力は、人を殺すことだ」(p320)――ここでフーコーの「生権力」の脇道へ逸れることもできるだろう)。一方はそれを実現するが、他方はそれを模倣する。二つの「悪意」は鏡に映したように見事に対照的である。それら対照的な「悪意」が対決する場面がこの物語のクライマックスとなる。「毒」に読む者まで侵蝕されるようなやるせなさが全編に漂うが、ラストシーンの明るさで救われる傑作。
宮部みゆき『ソロモンの偽証 第T部「事件」/第U部「決意」/第V部「法廷」』★★★★★(20130127)

新潮社2012
彼の死を悼む声は小さかった。
けど、噂は協力で、気がつけばあたしたちみんな、それに加担していた。
そして、その悪意ある風評は、目撃者を名乗る、匿名の告発状を産み落とした――。

真相は
雪が覆い隠した――
死体は何を
目論んだのか!?

新たな殺人計画。
マスコミの過剰な報道。
狂おしい嫉妬による異常行動。
そして犠牲者が一人、また一人。
学校は汚された。
ことごとく無力な大人たちには
もう、任せておけない!(第T部「事件」)

騒動の渦中にいるくせに
僕たちは何も知ろうとしなかった。
けど、彼女は起ちあがった。
校舎を覆う悪意を拭い去ろう。
裁判でしか真実は見えてこない!
彼女の覚悟は僕たちを揺さぶり、学校側の壁が崩れ始めた……。

気がつけば、走り出していた。
不安と圧力の中、教師を敵に回して――

他校から名乗りを上げた弁護人。
その手捌きに僕たちは戦慄した。
彼は史上最強の中学生か、それともダビデの使徒か――。
開廷の迫る中で浮上した第三の影、そしてまたしても犠牲者が……。
僕たちはこの裁判を守れるのか!?(第U部「決意」)

事件の封印が次々と
解かれていく。
私たちは真実に一歩ずつ
近づいているはずだ。
けれど、何かがおかしい。
とんでもないところへ
誘き寄せられているのではないか。

もしかしたら、この裁判は
最初から全て、仕組まれていた――?

一方、陪審員たちの間では、ある人物への
不信感が募っていた。
そして最終日。
最後の証人を召喚した時、私たちの法廷の
骨組みそのものが瓦解した。(第V部「法廷」)
 読んでいる間中、「これはすごい」と呟いていた。
 第T部で挫折した読者もいるようだが、実に勿体ない。
 方向性はまったく逆だが、『模倣犯』に匹敵する傑作である。
 物語は中学校で起きたある生徒の転落死を巡る、生徒たちによる「裁判」を核とする。第T部は事件発生から裁判を決意するまでの約8ヶ月の出来事、第U部では裁判の準備が進められて行く一月余りの出来事、そして第V部は僅か六日間の裁判そのものに割かれている。
 宮部みゆきの物語に名探偵は登場しない。名探偵がいない代わりに、多様な人物が多様な立場から謎を解明して行く。『ソロモンの偽証』は、その役割を中学生たちによる「裁判」が担う。その物語の結構は実に緻密である。それを緻密どころか粗雑であると判断する読者も少なくはない。しかしその見解は決定的に間違っている。
たとえば舞台が高校であるならば、被告人の行動はより悪質であったとともに、暴力団などとの関連も生じてきて、物語は一際錯綜したことは間違いない。それゆえ舞台は中学にせざるをえなかったのだし、ブログやメールなどの「記述」を取り除いて最終的な解決をすっきりとさせるため、「公衆電話」という小道具を有効にするためにも90年代という時代を選択せねばならなかったのである。だからこそ、そこに登場する中学生は現実よりも「頭が良い」。これも一部の読者によって批判されていることだが、明らかに、批判する側に誤りがある。物語は現実の記述ではない。虚構である。超能力者が主人公の物語において、超能力そのものを批判する読者がいるだろうか? もちろんそれにも「御都合主義」と呼ばれるのも仕方ないような「程度」というものがあるが、本書がその「程度」を逸脱しているとは言えない。
 大人が協力的過ぎるという批判もあるが、これも「木を見て森を見ず」の類である。名目上「課題活動」としての裁判を潰す方策は即座に五つや六つは誰でも思いつくはずであり、そうした妨害者を幾人も登場させたならば、「協力的な大人」の数もさらに一層増加しただろうし、数を減らすとすれば一人の大人が複数の活躍をするしかない。結果として大人がヒーローとなってしまう可能性がある。それは本書の目的に反するのだ。
 物語は最終的に「実存」を焦点とする。いや、肥大した自我が、肥大したにも関わらず「実存」というあり方に気付けないがゆえの悲劇と言った方が適切だろう。その悲劇を回収するのは法廷用語である。法廷用語をそのような方法で用いるには現実の裁判では不可能だ。だからこその舞台設定でもある。一人の人間の死によって傷ついた多くの人々の傷口が、「告白すること」によって次第に塞がれていく。傷跡は残るとしても、もはや血を流すことはない。ここでは「法廷」は、自己修復システムである。
 主人公クラスではない登場人物の何人かの佇まいも実に粋である。藤野剛、河野所長、井上康夫、そして一際「奇跡の男」、山崎晋吾。
宮部みゆき『小暮写眞館(上)/(下)』★★★★★(20140722)

講談社文庫2013
家族とともに古い写眞館付き住居に引っ越ししてきた高校生の花菱英一(はなびしえいいち)。変わった新居に戸惑う彼に、一枚の写真が持ち込まれる。それはあり得ない場所に女性の顔が浮かぶ心霊写真だった。不動産屋の事務員、垣本順子(かきもとじゅんこ)に見せると「幽霊(そのひと)」は泣いていると言う。謎を解くことになった英一は。待望の現代ミステリー。(上巻)
人の想いは思いもかけない場所に現れることがある。たとえば写真とか。英一(えいいち)の小学生の弟、(ピカ)の様子がおかしい。友人のテンコによれば、彼は写眞館の 元主(もとあるじ)小暮(こぐれ) さんの幽霊に会いたいのだという。そして垣本順子(かきもとじゅんこ) 、英一と家族、各々(おのおの)が封印してきた過去が明らかになる。読書の喜びがここにある。感動の結末へ。(下巻)
 さながら立ち回りとおっさん抜きの『三匹のおっさん』と言ったら良いだろうか。会話のテンポが良く、しかも笑える内容であるにも関わらず、実はテーマ自体はかなり重い。しかしその重いテーマが上記文体によって支えられているため、読み始めたらまず止められない。JR九州の「かもめ」や、『遊星からの物体X』、『ガメラ 大怪獣空中決戦』などの名詞が登場するのも見逃せないし、キャラクターが「際立つ」という点では有川浩と双璧をなすだろう。そしてラスト近くの英一の啖呵が何より素晴らしい。それは『模倣犯』のラストの啖呵とは逆の位置にある内容である。
村上龍
村上龍『愛と幻想のファシズム(上)/(下)』★★★★(20140114)

講談社文庫1990
激動する一九九〇年、世界経済は恐慌へ突入。日本は未曾有の危機を迎えた。サバイバリスト鈴原冬二をカリスマとする政治結社「狩猟社」のもとには、日本を代表する学者、官僚、そしてテロリストが結集。人々は彼らをファシストと呼んだが……。これはかつてない規模で描かれた衝撃の政治経済小説である。(上巻)
世界恐慌を迎えた一九九〇年、世界に奇妙な動きが相次いだ。日本でもパニックとクーデターが誘発する。暗躍する巨大金融企業集団「ザ・セブン」に全面対決を挑む政治結社「狩猟社」が企てたのだ。若きカリスマ、トージの意識が日本を動かし始める。この危険な小説に描かれた世界はすでに現実である!!
 いわゆる「世界企業」に侵蝕されつつある日本社会に、一人のカリスマを頂点とするファシズム組織が登場する、という、単純に言えばそんな物語である。そのカリスマが目指すのは、精神的な意味での「弱肉強食」の世界であるあたり、ニーチェの『ツァラトゥストラ』を背景にしたものだろうが、しかしカリスマの「カリスマ性」を描き切れていない気がするし、多用される御都合主義もマイナス点だろう。ただし、世界が主として経済的な動機付けにおいて回っている、という指摘は的を射ているだろうし、その結果としてもたらされる惨状、ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』末尾で嘆いてみせたようなあの状況が、多様な方向から迫真力を持って描写されていて、良い意味でうんざりする。
村上龍『希望の国のエクソダス』★★★★★(20120717)

文春文庫2002
 2002年秋、80万人の中学生が学校を捨てた。経済の大停滞が続くなか彼らはネットビジネスを開始、情報戦略を駆使して日本の政界、経済界に衝撃を与える一大勢力に成長していく。その後、彼らのエクソダス(脱出)が始まった──。壮大な規模で現代日本の絶望と希望を描く傑作長編。
 不登校の中高生がネット上で結びつきつつ、政府を翻弄するような勢力へと展開していく様を描いた近未来テーマのSF。後半部分において語られる言葉に、この物語を貫くテーマが凝縮されている。
「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」(p314)
 この社会には政治が存在しない。政治について無知であり、ただ選挙に勝てる資金力があるだけの数百人もの老人が国の中枢で官僚の笛に合わせて見苦しい踊りを踊るばかりである。そして官僚は、これも非効率性を最大限に発揮する、内部に対しては至って人間的である一方、外部に対しては極めて非人間的な悪の組織と化している。民主主義システムがこのような形態を生み出したのなら、民主主義はもはや不要ではないか。現在のシステムを捨て去ったとして、ではそれに代わる意志決定システムがあり得るか? それについては歌田明弘の「クジ引き政治」がヒントとなるだろう。

 少なくともその「希望」は物語中にあるように中学生に託せるかというと、さすがにそれは現実には無理だと思う。
村上龍『半島を出よ(上)/(下)』★★★★★(20101003)

幻冬社2005(幻冬社文庫2007)
 北朝鮮のコマンド9人が開幕戦の福岡ドームを武力占拠し、2時間後、複葉輸送機で484人の特殊部隊が来襲、市中心部を制圧した。彼らは北朝鮮の「反乱軍」を名乗った。(上巻)
 さらなるテロの危険に日本政府は福岡を封鎖する。逮捕、拷問、粛正、白昼の銃撃戦、被占領者の苦悩と危険な恋。北朝鮮の後続部隊12万人が博多港に接近するなか、ある若者たちが決死の抵抗を開始した。(下巻)
 『五分後の世界』及び『ヒュウガ・ウイルス──五分後の世界2』に見られたような、戦争の現実を戦いの最中にいる人物の視点から冷酷かつ冷静に描く視点と、『希望の国のエクソダス』に描かれた異能集団の権力への抵抗というテーマとの合流点に位置する大作。ここまで話を拡大して、果たして如何に着地するかと危ぶんだが、結末の見事さは力業でありつつも鮮やかで絶句するしかない。こうしたことが起これば、政府の対応はおそらくこの通りであって、危機管理という言葉すら空しく、国際紛争についての対応能力の無さのみを露呈しつつ推移していくであろう。痛烈なマスコミ批判も的を射て痛快である。この国家の、ここに描かれたような無能さがノンフィクションとしてしみじみと怖い作品。それはそれとして、そうした状況を解決するのは、『希望の国のエクソダス』同様、ここでも社会から「はみ出した」少年たち――即ちアウトサイダー――である点には少々疑問が残る。だからこそ眉村卓は『消滅の光輪』を書かねばならなかったのだ。
室積光
室積光『達人 山を下る』★★★(20140816)

中公文庫2011
誘拐された孫娘・安奈を救うため、八十歳の山本俊之は岡山の賢人岳を下り、四十二年ぶりに東京へやってきた。犯人はあるカルト教団だという。戦国時代から伝わる昇月流柔術の唯一の継承者である俊之は、安奈の妹で引きこもりの寛奈とともに動き出すが、渋谷の不良にヤクザ、与党幹事長が立ちはだかる。達人が教える「世の中で一番強い技」とは!?
 深く考えずに楽しめる物語ではあるのだが、残念ながら深みがないために、繰り返し読もうという気持ちにはならない。暇潰しにはなる、という程度の作品。
室積光『達人の弟子 海を渡る』★★★(20140816)

中公文庫2011
十年前、たった一人でカルト教団を崩壊させた八十歳の老人がいた――世界最強の技を持つ達人・山本俊之の存在を知った謹慎中のサッカー部員・晃吉とクロアチア人の留学生・マルコ。二人は達人がこもる山へと向かい、イルジスタン人のアバスとともに修行を始めるが……。戦争・テロにも打ち克つ、本当の強さとは!? 抱腹絶倒のシリーズ第二弾! 文庫書き下ろし
 一作目同様の評価である。何しろ達人の柔術が全く架空のものであり、かつそれをリアリティを持って描こうとしていないために、読み手ののめり込み度は低い。取り敢えず面白いのだがしかしそれだけの内容である。
室積光『史上最強の内閣』★★★★★(20130707)

小学館文庫2013
 北朝鮮が、日本に向けた中距離弾道ミサイルに燃料注入を開始した。中味は核なのか。支持率低迷と経済問題で打つ手なしの自由民権党の浅尾総理は、国家的な有事を前に京都に隠されていた「本物の内閣」に政権を譲ることを決意した。
 指名された影の内閣は、京都の公家出身の首相を筆頭に、温室育ちの世襲議員たちでは太刀打ちできない国家の危機を予測し、密かに準備されていた強面の「ナショナルチーム」だった。果たして、その実力は? 書店員さん熱狂。「こんな内閣があったら」と願わずにはいられない全国民待望(のはず)の内閣エンタテインメント!!(解説は立川談四楼氏)
 文字通り「こんな内閣があったら」と願わずにはいられない。もちろんその願いは現実の「自称政治家」に対する幻滅と表裏の関係にある。いわゆる一般的な意味での「政治家」は、政治能力に秀でているがゆえに政治の専門家となり得たわけではない。ただ単に、選挙に当選したからに過ぎない。しかもまた、昨今の「政治家」は、親が既に「政治家」であったというアドバンテージによって遙かに楽にその地位を手に入れたからには、当然「乳母日傘」という形容を決して免れうるものではない。
「皆さんも、あの二世、三世ばかりの政治家に何ができるかと思ったでしょう? 地盤、看板、鞄を引き継いだだけのボンボンばかりで大丈夫か? って思ってたでしょうが、本当のところ」(P18)
 思ってました。民主主義の制度そのものが実は政治能力とは関係のないところで「政治家」を輩出する以上、そして選挙民の数が日常の交流範囲を越えて増えていくほどに、「政治家」と政治能力の関係は希薄化するのは明らかである。本書はその矛盾の中に生まれた傑作である。
室積光『史上最強の大臣』★★★★★(20130707)

小学館2013
北朝鮮との戦争を回避し、惜しまれつつも京都に帰った二条内閣。
知事の依頼で、休む間もなく、大阪府の教育改革に裏方として乗り出した。
しかし、衰えない二条内閣人気に嫉妬する現政権の陰謀で、影の内閣を危険視する「世論」が形成された。最大のピンチに、ひとりの大臣が立ち上がる!!
 物語自体は前作ほど「派手」ではないが、しかし安心して読める傑作であることに変わりはない。特に注目すべきは「団塊の世代」の位置関係の再検討と、その再評価だろう。もちろんこれは単なる「物語」に過ぎないのだが、60年及び70年安保においての「敗北の経験」を何かと語り、そして勲章としたがるあの世代に対する理解のあり方としてはこれほどに明快なものはない、と思える。
室積光『小森生活向上クラブ』★★★★(20140807)

双葉文庫2014
小森正一、40歳。最近何を食べてもまずく、笑うこともない。家庭では妻子との会話もなく、会社では無気力な部下の態度にイライラしている。そんなある日、通勤電車の車内で他人に迷惑をかけていた女を思わず殺してしまった。するとどうだろう。活力が湧いてきたのだ! 読むとあなたの毎日が楽しくなる、ブラックユーモアの快作。熱狂的なファンを生んだ映画「小森生活向上クラブ」原作。
 筒井康隆作品を彷彿とさせるような、常識や道徳に対してチャレンジングな内容で物語は進む。それゆえ当然のことながらいわゆる「お行儀の良い」視点からすれば言語道断との判断はせざるを得ないだろう。しかしこれは単なる物語である。そして物語としては実に痛快である。その上結末においては「主体的」であったはずの主人公の意志や行動に対するどんでん返しまで用意されている。何も考えずに楽しめる一冊。
森晶麿
森晶麿『黒猫の遊歩あるいは美学講義』★★★(20140610)

ハヤカワ文庫2013
でたらめな地図に隠された意味、しゃべる壁に隔てられた青年、川に振りかけられた香水、現れた住職と失踪した研究者、頭蓋骨を探す映画監督、楽器なしで奏でられる音楽……日常に潜む、幻想と現実が交差する瞬間。美学・芸術学を専門とする若き大学教授、通称「黒猫」と、彼の「付き人」をつとめる大学院生は、美学とエドガー・アラン・ポオの講義を通してその謎を解き明かしてゆく。第1回アガサ・クリスティー賞受賞作
 ベルクソンやロラン・バルトなどという人名を散りばめた美学の思考をスパイスに、謎解きが進められる。カバー裏の紹介文だけ読めば実に魅力的な謎なのだが、それらの殆どが主人公「黒猫」の知人であるという構成が興を削ぐ。謎の手がかりはあらかじめ主人公の手にあるからだ。そういう意味で竜頭蛇尾な読後感は否めない。前後の名詞を「あるいは」で繋ぐタイトルも、一昔前の社会科学系論文にありがちな形式で、それがまた恥ずかしい。
森絵都
森絵都『風に舞いあがるビニールシート』★★★★(20091013)

文春文庫2009

才能豊かなパティシエの気まぐれに奔走させられたり、犬のボランティアのために水商売のバイトをしたり、難民を保護し支援する国連機関で夫婦の愛のあり方に苦しんだり……。自分だけの価値観を守り、お金よりも大切な何かのために懸命に生きる人々を描いた6編。あたたかくて力強い、第135回直木賞受賞作。 解説・藤田香織
 ここでは事件は起こらない。劇的な展開も存在しない。全ては日常の出来事である。日常の出来事における日常的な会話と、その会話によって引き起こされる主人公の心境の変化が綴られた短編集である。その「心境の変化」が、例えば「器を探して」のように、読者にとっては多少物足りない終わり方をするものもあれば、「風に舞いあがるビニールシート」のように、結末があらかじめ見えていて、どちらかと言えば平凡な印象のものもある(従ってこの作品においての直木賞受賞は解せないし、NHKによるドラマ化はもっと解せない。TVメディアではこの物語の夫婦関係のあり方の核心は――断じて――描けないし、それゆえにうんざりするほど平凡な「女性の自立のドラマ」と堕してしまうのは確実だ)。しかしその二編に挟まれた残り四編は、結末の(ある程度の)意外性も兼ね備え、読後感も心地良い秀作である。特に「ジェネレーションX」の展開は予定調和とは言いながら敢えて「正確に」型に嵌めた潔さと、そこに生じる格好良さに唸るしかない。
 それにしても、紹介文の「お金よりも……」以降の文章の主はこのようなことを大真面目に書いて恥ずかしくはないのだろうか? こうした価値観は、敢えてこの本を読まなければ分からないものではない。おそらくは百人中百人が「この世にはお金では買えないものがある」と答えるだろう。それは物語という形でしか伝えられない価値観ではない。むしろそのような決めつけによって物語の佇まいそのものが卑俗なものと化してしまう危険もある。同じことは解説中でも繰り返されている。解説とは畢竟、作品を「自らの理解の枠に収める」ことであるにせよ、その理解の枠そのものが平凡では解説の意味がない。物語を読み、そして解説に触れて新たな発見がなければその存在価値はない筈だ。
森岡浩之
森岡浩之『夢の樹が接げたなら』★★★★(20120701)

ハヤカワ文庫2002
独自の言語を設計する言語デザイナーの主人公は、奇妙な偶然から、これまでのものとはまったく構造の異なる言語に遭遇する.言語理解と人間の認識能力、そしてその未来を描いて第17回ハヤカワ・SFコンテストに入選した表題作をはじめとして、緻密な世界観に裏づけられた、名品8篇を収録。大反響をまきおこした、スペースオペラ《星界シリーズ》で、日本SFの新時代を切りひらく、森岡浩之のエッセンスを、ここに凝集!
 表題作や「ズーク」に見られるような、言語を軸に置いた作品は佳作である。いや、総じて悪くない作品は並ぶものの、どうにも読後感が良くない物語の方が目立つのはどうしたことだろうか。その典型が「スパイス」である。物語の中心を描かずに終える、という手法をとることが返って不快感を助長する。物語の佇まいそのものが醜い、というわけではなく、むしろアイデアも構成も優れてはいるのだが、だからこそ生まれる不快感を持て余す。むしろ友成純一のようにすべてを描いてくれた方がすっきりするのだろうが、それではジャンルを超えてしまう。そんな、ぎりぎりSFであるような、しかし質は認めざるを得ないような問題作が幾つか並ぶ短篇集。
森岡浩之『突変』★★★★★(20141110)

徳間文庫2014
 関東某県 酒河(さかがわ) 市一帯がいきなり異世界に転移(突然変移=突変)した。ここ裏地球は、危険な 異源生物(チェンジリング) 蔓延(はびこ) る世界。妻の末期癌を宣告された町内会長、家事代行会社の女性スタッフ、独身男のスーパー店長、陰謀論を信じ込む女性市会議員、ニートの銃器オタク青年、夫と生き別れた子連れパート主婦……。それぞれの事情を抱えた彼らはいかにこの事態に対処していくのか。 特異災害(パニック) SF超大作!
 地球の一定の土地が、魑魅魍魎の跋扈する「裏」地球の対応する土地と、いきなり入れ替わるという設定がともかく素晴らしい。「とっぺん」と読ませる、やや据わりが悪く、だからそこはかとない不安を感じるタイトルも見事である。パニックものでありながら、下町人情物語でもあり、なおかつ異世界サバイバルホラーでもあるこの物語は、しかし始まったばかりなのである。725ページの作品でありながら長さを感じさせず、それどころかさらにその先を読みたいと思う数少ない傑作。是非にも『突変2』を期待したい。何しろ主要な登場人物の一組にしか、決着は付いていないのであるから。
森岡浩之『優しい煉獄』★★★★(20150808)

徳間文庫2015
 おれの名は朽網康雄くさみやすお。この街でただひとりの探偵。喫茶店でハードボイルドを読みながら、飲むコーヒーは最高だ。この世界は、生前の記憶と人格を保持した連中が住む電脳空間。いわゆる死後の世界ってやつだ。おれが住むこの町は昭和の末期を再構築しているため、ネットも携帯電話もない。しかし、日々リアルになるため、逆に不便になっていき、ついには「犯罪」までが可能になって……。[解説 池澤春菜]
 バーチャル空間において、記憶と人格をシミュレートされた「人間」たちの暮らす世界、というだけなら凡百の物語と大差ないだろうが、そこにコンピュータの計算能力やメモリ容量という(現実には当然存在する)概念を持ち込み、結果「リソースを喰う出来事は再現されない」という状況を物語の中心に置いたことが秀逸である。結果として当初はコーヒーは冷めず、バーチャル人格は痛みを感じず、街は汚れず……という世界ができあがる。そうした世界で起きるさまざまな事件に主人公は関係していく……というのが本書の展開の基本である。ただし、その世界の存在様式が発生する事件と釣り合っていないような気がするのである。事件は確かに世界の状況を反映しているのだが、解明に驚きがあまり感じられない。そして事件に関係して、最後まで語られなかった出来事も多い(たとえば第IV章において、何故少女は虐殺されたのか、など)。隔靴掻痒という印象である。
森博嗣
森博嗣『すべてがFになる』★★★(20110620)

講談社ノベルズ1996(講談社文庫1998)
 十四歳のとき両親殺害の罪に問われ、外界との交流を拒んで孤島の研究施設に閉じこもった天才工学博士、真賀田四季。教え子の西之園萌絵とともに、島を訪ねたN大工学部助教授、犀川創平は一週間、外部との交信を断っていた博士の部屋に入ろうとした。その瞬間、進み出てきたのはウェディングドレスを着た女の死体。そして、部屋に残されていたコンピュータのディスプレイに記されていたのは「すべてがFになる」という意味不明の言葉だった。(ノベルズ版)
 JISの示す表記法に準じているのか、それとも作者の所属する科学の慣習であるのか、あるいは単に好みの問題であるのかは判然としないが、片仮名表記の名詞において通常以上に、最後の長音が落とされているのが気にかかる。例えば「フィルタ」「エレベータ」「スプリンクラ」「コーヒーメーカ」などだ。しかし一方で「ヘリコプター」「レーシングカー」の表記はそのままで、要するに不統一なのが奇妙さに拍車をかける。内容はと言えば、決して面白くないわけではない。ただ、ある程度コンピュータに詳しければ[Fになる」がどういうことかは容易に分かるかもしれない。トリックそのものは可もなく不可もなく無難な感じではあるが、ドレスは何の為なのか、など、説明忘れはやはり気になる。また、散見される「理系臭さ」が鼻につく。
森博嗣『冷たい密室と博士たち』★★★★(20110626)

講談社ノベルズ1996(講談社文庫1999)
 同僚の喜多助教授の誘いで、N大学工学部の低温度実験室を訪ねた犀川助教授と、西之園萌絵の師弟の前でまたも、不可思議な殺人事件が起こった。衆人環視の実験室の中で、男女二名の院生が死体となって発見されたのだ。完全密室のなかに、殺人者はどうやって侵入し、また、どうやって脱出したのか? しかも、殺された二人も密室の中には入る事ができなかったはずなのに? 研究者たちの純粋論理が導きだした真実は何を意味するのか。(ノベルズ版)
 『すべてがFになる』ではキャラクターは孤島の研究施設から出ることなく、人物の部屋への出入りが問題でもあったために、物語そのもののリズムが単調で動きも少なく、それゆえに面白みが削がれている印象がある。それに対してこちらは人物がより行動的になり、物語も起伏に富んでいて飽きることがない。ただ出来事の解明が決定的ではないところが最大の弱点ではあるだろう。
森博嗣『笑わない数学者』★★★★(20110626)

講談社ノベルズ1996
 伝説的数学者、天王寺翔蔵(てんのうじしょうぞう)博士の住む三ツ星館でクリスマスパーティーが行われる。人々がプラネタリウムに見とれている間に、庭に立つ大きなブロンズのオリオン像が忽然(こつぜん)と消えた。博士は言う。「この謎が解けるか?」像が再び現れた時、そこには部屋の中にいたはずの女性が死んでいた。しかも、彼女の部屋からは、別の死体が発見された。パーティーに招待されていた犀川(さいかわ)助教授と西之園萌絵(にしのそのもえ)は不可思議な謎と殺人の真相に挑戦する。(ノベルズ版)
 謎は更に大がかりになり、より面白さも増した。やはり謎の解明は決定的ではない――それが犀川シリーズのフォーマットか?――上に、少なからず説明を「逃げた」ところも見受けられる。とは言うものの、説得力も増しているし、起伏にも富んでいる。しかしながら、最も大きな仕掛けが(勘がよければ)最も早く読まれてしまうのはいただけないし、何よりも物語中で出題された謎への解答がないために欲求不満が募るのは困る。そして反論。作中の数学者の口癖にあるが、「定義するならば存在する」のではない。逆である。「定義することでそれらの存在は曖昧になる」と考えるのが正しい。
森博嗣『詩的私的ジャック』★★★★(20110628)

講談社ノベルズ1997(講談社文庫1999)
 那古野市内の大学施設で女子大生が立て続けに殺害された。犯行現場はすべて密室。そのうえ、被害者の肌には意味不明の傷痕が残されていた。捜査線上に上がったのはN大学工学部助教授、犀川創平が担任する学生だった。彼の作る曲の歌詞と事件が奇妙に類似していたのだ。犯人はなぜ傷痕を残し、密室に異様に拘るのか? 理系女子大生、西之園萌絵が論理的思考で謎に迫る。(ノベルズ版)
 黙示録的な文体で密やかに進んでいく密室シリーズ第4弾。雰囲気そのものは前作より更に良くなっているのだが、最終的にはこれまでの作品同様に、人間の出入り、及び入れ替わりにおいて形成されるトリックには食傷気味である。それに相変わらず物語の閉じ方に難がある。やはり犯行に至る動機が弱く、それに加えてタイトルに示された「詩」の存在感も弱い。いや、そもそもその「詩」の出来がそれほど素晴らしい出来でもなく、曲そのものも通りすがりに触れる程度であるためにタイトルが空回りしている。
森博嗣『封印再度』★★★★★(20110702)

講談社ノベルズ1997(講談社文庫2000)
 岐阜県恵那(えな)市の旧家、香山(かやま)家には代々伝わる家宝があった。その名は、「天地の(こひょう)」と「無我の(はこ)」。
 「無我の匣」には鍵がかけられており、「天地の瓢」には鍵が入っている。ただし、鍵は「瓢」の口よりも大きく、取り出すことが出来ないのだ。五十年前の香山家の当主は、鍵を「瓢」の中に入れ、息子に残して、自殺したという。果たして、「匣」を開けることが出来るのか? 興味を持って香山家を訪れた西之園萌絵(にしのそのもえ)だが、そこにはさらに不思議な事件が待ち受けていた!(ノベルズ版)
 たとえば会話文を「想像もしてえへんわな」と方言体で記述するのは、リアリティを狙ってのことだろう。では、「CDプレイヤを買ってこよう」と記述するのは何を狙ったものなのか? 工学系の人々は実際にこのように、外来語の名詞は長音を落として発話しているのだろうか? もしそうだとしたなら音として美しくない。そして、そうでないならばリアリティの点で矛盾している、と思う。
 それはさておき、前作よりも更に上手くなっていると言える。ようやく「物語」になってきた。舞台といい小道具といい、京極堂シリーズを彷彿とさせながら、しっかりとオリジナルなものとなっている。特に匣と鍵のトリックは実にエレガント。章題に採られた『十牛図』も小粋である。ただ一箇所、泡坂妻夫『乱れからくり』の(かなり苦しい)翻案が気にかかるものの、傑作は傑作であるだろう。とは言え、相変わらず「渦中の人物の思考や心情」を書き込まず、あっさり流してしまうところは瑕疵である。
森博嗣『まどろみ消去』★★★(20110703)

講談社ノベルズ1997(講談社文庫2000)
 大学のミステリィ研究会が「ミステリィツアー」を企画した。ビルの屋上に案内された参加者たちは、離れた建物の屋上で、三十人のインディアンが踊っているのを目撃する。現場に行ってみると、そこには誰もいなかった。屋上への出入り口には見張りが立てられていたというのに! 参加者たちはこの謎を解くことができるか!?(「誰もいなくなった」)
 著者初の、そして森ミステリィのエッセンスがすべて詰まった全編書き下ろし短編集。(ノベルズ版)
 11の短編のうち、「ミステリィ大戦の前夜」と「誰もいなくなった」の2編に西之園萌絵が登場する他はすべて独立した作品である。どこかで読んだような味わいであり、しかもどこか中途半端な物語ばかりなのが残念。たとえば「ミステリィ大戦の前夜」を読むならば鯨統一郎『ミステリアス学園』を読んだ方が良いし、「誰もいなくなった」のトリックは実現性に大きな難点がある。「やさしい恋人へ僕から」は短編だからある程度成功しているのであって、同じ趣向の『ハサミ男』に緻密さでは及ばない。いわば習作集という感じか。
森博嗣『幻惑の死と使途』★★★★★(20110704)

講談社ノベルズ1997(講談社文庫2000)
 「諸君が、一度でも私の名を叫べば、どんな密室からも抜け出してみせよう」――自信に満ちたせりふと共にあらゆる状況からの脱出を果たす天才奇術師・有里匠幻が、衆人環視の状況の中で殺害された。さらに、彼はなんと遺体となってまで、最後にして最大の奇跡を行う!? 犀川・西之園師弟が明かす驚愕の真実!(ノベルズ版)
 『封印再度』までがごく一般的な密室ものであったのに対して、この作品は奇術の箱や棺という極小の密室ものとなっている点、実にユニークである。そしてテーマが奇術であるだけに、二階堂黎人っぽくもあり、そして泡坂妻夫めいてもいる傑作。その上これまでの作品とは異なり、ここでの「動機」は意外であると同時に素直に納得できるものでもある――「名前」に関する議論については大いに異論がありはするが。しかしさすがに六冊目ともなれば、仮説を立ててはそれが破綻し……という物語の展開は、そろそろ終わりにしても良いのではないかと思う。少なくとも『すべてがFになる』及び『冷たい密室と博士たち』におけるパターンであった、「真実に辿り着く際の、犀川の暴力的な思考」という、あまり効果があるとは思えない演出は無くしたのであるから。尚、この作品の各章は奇数において構成されており、同時に起こった事件という設定の次作『夏のレプリカ』が偶数章だけからなる、という趣向は面白い。
森博嗣『夏のレプリカ』★★★★(20110710)

講談社ノベルズ1998(講談社文庫2000)
 那古野市の実家に帰省したT大大学院生の前に現れた仮面の誘拐者。そこには血のつながらない詩人の兄が住んでいた。誘拐が奇妙な結末を迎えたとき、詩人は外から施錠されていたはずの部屋から消え去っていた。朦朧とするような夏の日に起きた事件の裏に隠された過去とは!? 事件は前作と表裏をなし進展する!(ノベルズ版)
 偶数章だけからなる本作は、『幻惑の死と使途』と平行して起きた事件という趣向である。とは言え、同時に起きた二つの事件そのものが直接に関わりを持つわけではなく、ただ単に関係者が重複しているというだけである。一方の事件が他方の事件の触媒となる、というプロットならば驚愕度は増すだろうが、それではおそらく二分冊にはできない筈で、従ってこれらが二分冊であるのは時系列上の設定以外のものではあり得なかったわけだ。
 さて、どことなく綾辻行人の雰囲気を持つ『夏のレプリカ』であるが、事件の解明そのものは実に綺麗であるのに、やはり「犯人の心情及び動機」に弱く、尻切れな感が否めない。加えて事件の鍵を握るであろう「詩人」の失踪も、読み終えて振り返れば単なる添え物であり、それゆえエピローグも唐突すぎて余韻にならない。中心的なトリックそのものは優れているだけに「物語」としての噛み合いに隙間が散見されるのが残念。
森博嗣『今はもうない』★★(20110710)

講談社ノベルズ1998(講談社文庫2001)
 電話の通じなくなった嵐の別荘地で起きた密室殺人。二つの隣り合わせの密室で、別々に死んでいた双子のごとき美人姉妹。そこでは死者に捧げるがごとく映画が上映され続けていた。そして、二人の手帳の同じ日付には謎の「PP」という記号が。名画のごとき情景の中で展開される森ミステリィのアクロバット!(ノベルズ版)
 典型的な「嵐の山荘」もの。登場人物が悉く怪しげな動きをするが、事件の全貌が判明した後には、それらの大半が「無意味な行動」であることが明らかとなる。加えて、森ミステリーにおいてはもはや定番の「動機の弱さ」がここでは一段と光る。終盤で言及される「薬」すら、その後の展開が無く、実際には意味不明。さらに、核となるトリックが、実は密室とは別のところに存在するのだが、それは一連のシリーズを読んでいなければピンと来ないものであるというのは如何なものか。
森博嗣『数奇にして模型』★★★(20110717)

講談社ノベルズ1998(講談社文庫2001)
 那古野市内で開催された模型交換会で、モデルの首無し死体が発見された。死体と共に密室の中で昏倒していたのは、大学院生、寺林高司。彼には同じ頃に起きた女子大学院生の絞殺事件の容疑もかけられていた。もう一つの事件も、死体が見つかったのは「密室」の中。犀川創平、西之園萌絵の師弟が事件の謎に挑む!(ノベルズ版)
 小道具や人物の佇まいは面白い。扱いようによっては江戸川乱歩あたりの雰囲気を漂わせることもできただろうが、材料は良いのに使い方が悪い。この犯人、この動機であるならば、そのような気配を伺わせる記述を散りばめていなければ余りにも不親切である。関係ない人物が多すぎるのも難点。
森博嗣『有限と微少のパン』★★★(20110724)

講談社ノベルズ1998(講談社文庫2001)
 日本最大のソフトメーカ「ナノクラフト」の経営するテーマパークを訪れたN大生西之園萌絵(にしのそのもえ)と友人たち。そこでは「シードラゴンの事件」と呼ばれる死体消失があったという。彼女らを待ち構えていたかのように事件は続発。すべてがあの天才(・・・・)の演出によるものなのか!? 全編に(みなぎ)る緊張感! 最高潮森ミステリィ!(ノベルズ版)
 犀川&西之園シリーズ最後の長編。明らかにハウステンボスをモデルとしたテーマパークを舞台に、とあるメフィスト賞作家のデビュー作『○○○ッ○』を穏当に縮小したトリックが繰り広げられる。場所が場所であるだけに、『○○○ッ○』よりはまだ合理性がある。『○○○ッ○』を読んでいたならこの展開は頷けるが、そうでないならばどうか。また、相変わらず種明かしは急ぎ足な上に説明不足。そして「天才」の「天才らしさ」についての性格付けも実に凡庸。
森博嗣『地球儀のスライス』★★(20110724)

講談社ノベルズ1999(講談社文庫2002)

内容紹介


「黒窓の会」――それは、那古野市きっての資産家の令嬢、西之園萌絵を囲んで開催される秘密の勉強会である。ゲストとして招待されたN大学工学部助教授、犀川創平は一枚の写真にまつわるミステリィを披露する。それは、インドの石塔の遺跡に関する奇妙な謎であった。(「石塔の屋根飾り」)
 森ミステリィのあらゆる魅力が、一杯につまった珠玉集。(ノベルズ版)
ヴァリエーションに富んだ短編集。面白くないわけではないが、残念ながら傑作と言えるものもない。文体で読ませるわけではなく、本格のトリックが詰め込まれているのでもなく、だからと言ってSF的な想像力豊かなわけでもなく、それゆえ読後の印象にも残らない。
森見登美彦
森見登美彦『有頂天家族』★★★★★(20100326)

幻冬社2007

糺ノ森(ただすのもり) に住む(たぬき) の名門・下鴨(しもがも) 家の父・ 総一郎(そういちろう)はある日、鍋にされ、あっけなくこの世を去ってしまった。遺されたのは母と頼りない四兄弟。長兄・矢一郎(やいちろう)は生真面目だが土壇場に弱く、次兄・ 矢二郎(やじろう)は蛙になって井戸暮らし。三男・ 矢三郎(やさぶろう)は面白主義がいきすぎて周囲を困らせ、末弟・ 矢四郎(やしろう)は化けてもつい尻尾を出す未熟者。この四兄弟が一族の誇りを取り戻すべく、ある時は「腐れ大学生」ある時は「虎」に化けて京都の街を駆け回るも、そこにはいつも邪魔者が! かねてより犬猿の仲の狸、宿敵 夷川(えびすがわ)家の阿呆兄弟・金閣&銀閣、人間に恋をして能力を奪われ落ちぶれた天狗・赤玉先生、天狗を袖にし空を自在に飛び回る美女・弁天――。狸と天狗と人間が入り乱れて巻き起こす三つ巴の化かし合いが今日も始まった!
 とにかく阿呆な小説。ここからどんな教訓を引き出すのも無意味である。阿呆の掛け合いに身を任せて笑いながら読み進むべき。笑いのツボは押さえているし、テンポも良い。通常ならば笑いの合間に泣かせるところを差し挟みたくなるものであるが、そしてそのような場面もないではないが、決して気負ってはいない上にキャラクター設定が阿呆なので軽く読める。明るく笑える物語。ただし注意すべきは読み始めたら徹夜必至であること。
森村誠一
森村誠一『人間の条件(上)/(下)』★(20120715)

幻冬社文庫2004
 近くの川で魚が全滅したことから水質調査を始めた片倉は、人為的な細菌散布の可能性を探り当てる。折しも、片倉の自宅周辺で起こったOL殺人事件の捜査を進める棟居刑事は、事件の背後に潜む新興宗教「人間の家」の危険な正体に気づく──。『人間の証明』から二十八年。空前絶後の劇場型犯罪を描く森村ミステリーワールドの最高傑作。
 新興宗教「人間の家」を追い詰めた棟居は、OL殺人事件の容疑者がそこに関係しているだけでなく、自身の妻子を殺害した可能性が高いことを知る。次第にその凶暴さをむき出しにし始める巨大な犯罪集団と全警察の威信をかけた壮絶な闘いが進む中、棟居は究極の決断を迫られる──。欲望と狂気が生み出した未曾有の大惨劇、驚愕のフィナーレ。
 ハンナ・アーレントの著書と同タイトルの作品。であるが、単なる偶然であろう。新堂冬樹『カリスマ』と同じく、某新宗教団体をモデルとした作品。こちらは『カリスマ』とは対照的に、警察対教団という構図が明確である、のはいいのだが、一体これは物語なのだろうか? というのも、大半が劇のト書きのような説明的な文章から成り立っており、物語的なリズム感に乏しいからである。そしてまた、これは『カリスマ』とは裏腹に、教団の描き方がまったく物足りない。結局のところこの物語は、後に壮大な展開を見せると思わせておいて、その実は全く展開しないという方針に徹頭徹尾貫かれた小説なのである。そもそも「細菌散布」も、いかにも怪しげな始まり方をするわりに、物語の進行につれて影は薄くなり、やがて忘れ去られて行く。単純に、森村御執心の「七三一部隊」に言及したかっただけのようである。なにより、物語中盤から登場するある重要人物の行方について一切言及されないまま終わるのはどうなのか。いずれにせよ内容紹介の文章は大袈裟で、「最高傑作」ではあり得ない。
森谷明子
森谷明子『矢上教授の午後』★★(20120506)

祥伝社文庫2012

夏の午後。古ぼけた大学の研究棟が嵐に閉ざされた。停電とある(、、)事情で連絡も出入りも不可能に。さらに誰も見知らぬ男の死体が発見され、矢上(やがみ)教授(、、)は真相を追い始めるが……。殺人者はまだこの建物の中に? 民俗楽器破損、表彰状盗難など、続発したささいな事件と殺人の関係は? 異色の学者探偵が、謎だらけの老朽校舎で奔走(ほんそう)する、ユーモア満載の本格ミステリ登場!
 発端はさながら森博嗣の犀川教授シリーズのような、大学教授と女子学生のコンビもののような印象を受けるのだが、予想に反して冒頭に登場する学生は事件においては蚊帳の外であって、目立った役回りを与えられてはいない。「続発したささいな事件と殺人の関係」についても、内容的には拍子抜けである。とにかく多様な出来事が整理されないまま詰め込まれた感がある。そもそも今時自分のことを「わし」などと発言するような「教授」は存在しない。素人臭さが抜けない作品。

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