【評価段階】
★★★★★──傑作。
★★★★───秀作。
★★★────凡作。
★★─────駄作。
★──────困作。

【か】
笠井潔
笠井潔『青銅の悲劇 瀕死の王(上)/(下)』★(20121119)

講談社文庫2012
天皇の容態悪化が伝えられる一九八八年、東京郊外頼拓(よりつ)市に近い媛神(ひめがみ)湖畔に滞在中の小説家、宗像冬樹(むなかたふゆき)北澤雨香(きたざわうか)の別荘でナディア・モガール、鷹見澤緑(たかみざわみどり)と出会う。その頃、頼拓市の旧家、鷹見澤家では奇妙な事件が続けて起きていた。矢吹駆(やぶきかける)シリーズ日本篇第一作、その上巻。小森健太朗(こもりけんたろう)によるノベルズ版解説再録。(上巻)
昭和の最期が迫った一九八八年末、神職を受け継ぐ旧家の老当主、鷹見澤信輔(たかみざわしんすけ)は冬至の神事の後、宗像冬樹(むなかたふゆき)とナディア・モガールも招かれていた会食の席上、、トリカブト毒による毒殺未遂で倒れた。だが、それは鷹見澤家を襲う悲劇のはじまりにすぎなかった。矢吹駆(やぶきかける)シリーズ日本篇第一作完結篇。解説・藤田直哉(ふじななおや)(下巻)
 率直に言って退屈である。出来事の発生や登場人物の行動よりも、その出来事についての検討の方に大半の紙幅が費やされて、読者は誰がどのようにして毒殺を試みたかの小田原評定に否応なく付き合わされる破目になる。およそ文字で表現するには不適当な犯罪状況が、瓶AだのBだの、αだのβだのという記述において果てしもなく考察され続けるくだりには心底うんざりする。その考察の過程が「論理」であることは認めるが、読者は「学ぶ」つもりで本書を手にしたわけではない。エンタテインメント性に背を向けたこのような物語を、一体全体なぜ笠井は書こうと思ったのか。小森健太朗の解説によれば、これは〈後期クイーン問題〉に挑戦したものであり、「探偵の解決が真の解決であるということは証明不可能である」という問題への挑戦であるらしいが、で? それがどうしたの? という感想しか持てない。
 「物語」は「現実の記述」ではないし、「作者の頭の中にしか存在しない世界についての報告」でもない。したがって探偵の解決以外の「真の解決」なるものがどこかにあるわけではない。あるとすればそれは、読み終えた読者の「物語を巡る思い」の中にのみ、である。「もしかしたら真相は……ではなかったか」という感想は、唯一読者のものである。作者がそうした思いを抱いたならば、それは物語中に(たとえ暗示的にであるにせよ)示されねばならないからだ。また逆に、探偵が「真の解決」をできないのであればそれはもはや探偵小説の体を成していない。
 それゆえ〈後期クイーン問題〉などありはしない。この問題はひとえに、作中の世界を確固とした存在世界と混同するところに生じる。
 であるから、緻密ではあるが退屈な論理の構築においてその問題を突破しようとした笠井の試みは、小森の言うように「壮大なる論理の大伽藍」ではあるがしかし、その基礎部分は砂でできているのである。
加えて「事件とは関係の薄い、学生運動に関する告白と懺悔」も鬱陶しい。笠井も含めて、その渦中にいた人々は機会を捕まえては「あの情熱とその崩壊」について口にしたがるのだが、そこに欠けているのは「行動主義」「体験主義」への反省であろう。経緯を見れば学生運動と1995年のあの宗教団体の事件は見事に相似形である。その相似性を形作っているのは上記主義であるだろうからだ。
梶尾真治
梶尾真治『地球はプレイン・ヨーグルト』★★★★★(20130511)

ハヤカワ文庫1979
おれは下町の料理人。客の注文に応じてどんな料理も作ってしまう。そんなおれがある日、宇宙人のために料理を作るハメになってしまった。実はその宇宙人、味覚を通して話し合うというのだ! そして、解読者には最高の美食家といわれる老人が選ばれていた……。奇想天外なファースト・コンタクトを描く表題作ほか、航時機というタイム・カプセルに隔てられた恋人を思う女性の心を抒情的なタッチで綴る「美亜へ贈る真珠」数時間先へ行った下半身を追うコメディ「時空連続下半身」など、多彩なSF世界を生み出す新鋭、梶尾真治の第一短編集!
 グルメ物語とファースト・コンタクトを強引に融合したまさに「怪作」の表題作はもちろん、失われゆくものに対する悲しみをその核とする「美亜へ贈る真珠」、「詩帆が去る夏」、「さびしい奇術師」の三短編が光る。あらかじめオチが読めてしまう「フランケンシュタインの方程式」はやや残念だし、「時空連続下半身」は最後にとてつもなく巨大なオチが待つものの、そこに至るまでの流れが退屈である。しかしこの短編集の白眉はウエルズ『宇宙戦争』を下敷とした「清太郎出初式」である。「火星人がやってきたのはイギリスだけではなかった」という設定のこの短編はカジシン初期の最高傑作。
梶尾真治『OKAGE』★★(20150712)

ハヤカワ文庫1999
ある日、子どもたちがひとり、またひとりと家族の前から姿を消しはじめた。母ひとり子ひとりで暮らす国広章子の息子も、突如姿を消してしまう。わずかな手がかりを求めて必死で探す章子。誘拐か神隠しか、あるいは家出なのか。やがて、子どもたちの失踪現象は全国規模で発生していることが明らかになるが……。ただごととは思えぬこの凶事は、果たしてなにかの前触れなのか? 梶尾真治が渾身の力をこめて描く傑作ホラー
 発端はとにかく素晴らしい。想像を超える何かが起こり始めた、という予感をさりげなく感じ取らせる出だしである。しかし、物語全体としては残念な内容である、と言わねばならない。集合無意識だの悪の想念だのという言葉を出してしまったならば、もはや少なくとも傑作を期待するのは不可能である。しかも、不気味なプロローグから始まる物語はやがて子どもたちの集団失踪へと発展し、そしていつしか子どもたちの阿蘇行軍に至り、突如としてジュブナイルの語り口へと化し、そこに至って、物語のターゲットが判らなくなるのである。ともかく色んな要素を詰め込みましたが、結局虻蜂取らずになりました的な作品。それにしても何故、「進化した人類」ということになる人はこぞって「集合的な意識/無意識」なるものを持ち出さずにはいられないのだろうか?
梶尾真治『クロノス・ジョウンターの伝説』★★★★★(20150621)

徳間文庫2015
 開発途中の物質過去射出機ぶっしつかこしゃしゅつき〈クロノス・ジョウンター〉には重大な欠陥があった。出発した日時に戻れず、未来へはじばされてしまうのだ。それを知りつつも、人々は様々な想い――事故で死んだ大好きな女性を救いたい、憎んでいた亡き母の真実ほんとうの姿を知りたい、難病で亡くなった初恋の人を助けたい――を抱え、乗り込んでいく。だが、時の神クロノスは無慈悲な試練を人に与える。[解説/辻村深月]
 文句の言いようがない大傑作であり、今後タイムトラベルテーマのSFとしても屈指の作品に挙げるべき作品。奇妙な時間理論を舞台にした非常に良質の人間ドラマである。一応は連作短編形式ではあるものの、時間軸において各短編が複雑に絡まりあっている様にも設定の妙を感じる。にも関わらず各短編は独立して読むことが可能であるし、その一話一話がとにかく素晴らしい。ともかくも第二話「栗塚哲也の軌跡」まで読んだなら、もう止められないことは確実である。ちなみに337ページには『地球はプレイン・ヨーグルト』への言及がある。
加納朋子
加納朋子『ななつのこ』★★★★★(20110503)

創元推理文庫1999
ファンレターとラブレターは、勢いで出すに限るのだ。――短大に通う十九歳の入江駒子は『ななつのこ』という本を衝動買いし、読了後すぐに作者へファンレターを書こうと思い立つ。先ごろ身辺を騒がせた〈スイカジュース事件〉をまじえて長い手紙を綴ったところ、思いがけなく「お手紙、楽しく拝見しました」との返事が。さらには、(くだん)の事件に対する、想像という名の“解決編”が添えられていた! 駒子が語る折節の出来事に打てば響くような絵解きを披露する作家佐伯綾乃、二人の文通めいたやりとりは次第に回を重ねて……。伸びやかな筆致で描かれた、第三回鮎川哲也賞受賞作。
 若竹七海『ぼくのミステリな日常』と同一平面上に存在する作品。つまり日常の中で起きる些細な謎とその解決からなる連作短篇でありながらも、短篇の一つ一つに一回り大きな謎が暗示され、それが最終的に明らかにされる、という二重構造を持ち、かつ、「人が死なない」推理小説であるという平面である。『僕のミステリな日常』ではそれが会報に掲載されたコラム形式であったが、『ななつのこ』では往復書簡であり、どちらも文字情報がベースとなっている点、さらに主観が女性に置かれている点なども類似する。その上で加納朋子の場合、実に読み易く、それでいて的確かつ無駄のない名文で物語を綴る。しかも物語中に引用される佐伯綾乃作『ななつのこ』という物語自体がまたそれぞれの短篇ごとに一つの謎とその解決を語るのであって、従って加納朋子作『ななつのこ』は三重の入れ子構造を持つミステリであるわけだ。三重でありながら決して錯綜せず、素直に読む者の頭に入ってくる筆致は伸びやかというよりは達文であるという方が正しいだろう。
加納朋子『魔法飛行』★★★★★(20110503)

創元推理文庫2000
私も、物語を書いてみようかな――入江駒子のつぶやきは「じゃあ書いてごらんよ」の声にあっさりと迎え入れられた。幾つも名前を持っている不可解な女の子との遭遇、美容院で耳にした噂に端を発する幽霊の一件、学園祭で出逢った〈魔法の飛行〉のエピソード、クリスマス・イブを駆け抜けた大事件……近況報告をするように綴られていく駒子自身の物語は、日々の驚きや悲しみ、喜びや痛みを湛え、謎めいた雰囲気に満ちている。ややあって届く“感想文”には、駒子の首を傾げさせた出来事に対する絵解きが。第三回鮎川哲也賞を受賞した『ななつのこ』に続く、会心の連作長編ミステリ。
 三重構造を保持しつつ、今度は主人公が物語を書き、それを読んだ二人の手紙、という構成を取っての第二弾。瑞々しい文体に更に磨きがかかっている。二作目だけあって、登場人物にもより具体性が加わり、人間模様もはっきりとしてきて、前作以上の傑作と言えるだろう。最終的な「より大きな謎」も、今回のものは当初から堂々と提示されていて、より推理小説らしいと言える。明らかに現実的ではない物理トリックもあるにはあるが、内容の良さがそれをカバーしている。
加納朋子『掌の中の小鳥』★★★★★(20110510)

創元推理文庫2001
たぶん僕は変わったのだ。四年前にはとてもできなかったことが、今の僕にはできる。――本書全体のプロローグといえる第一話「()の中の小鳥」で真っ赤なワンピースの天使に出逢った主人公は、一緒に退屈なパーティを抜け出した。狂言誘拐の回想「桜月夜」で名前を教わり、御難続きのエピソード「自転車泥棒」や不思議な消失譚「できない相談」を通じて小さな事件に満ちた彼女の日常を知るにつれ、退屈と無縁になっていく自分に気づく。小粋なカクテルの店〈エッグ・スタンド〉を背景に描かれる、謎を湛えた物語の数々。巧みな伏線と登場人物の魅力に溢れたキュートなミステリ連作集。
 加納朋子の特徴は、「あらゆるエピソードに一切無駄がない」ということだろう。登場人物の性格や思考に肉付けの役割と見えたエピソードが、後に大きな意味を持って再び読み直される、という結末の一短編に典型的なのだが、最終的に、全ての出来事が余るもの無くかつ、一分の隙もなく、完璧に組み上がる快感。それは書き手の悦びであるのは勿論だが、読み手の悦びでもある。
加納朋子『月曜日の水玉模様』★★★★(20110522)

集英社文庫2001
いつもと同じ時間に来る電車、その同じ車両、同じ吊革につかまり、一週間が始まるはずだった――。丸の内に勤めるOL・片桐陶子は、通勤電車の中でリサーチ会社調査員・萩と知り合う。やがて二人は、身近に起こる不思議な事件を解明する〈名探偵と助手〉というもう一つの顔を持つように……。謎解きを通して、ほろ苦くも愛しい「普通」の毎日の輝きを描く連作短編ミステリー。
 冒頭の「きっかけ」から惹き込まれる。のはいいが、〈名探偵と助手〉の役割分担がはっきりしている訳ではなく、作品ごとにその役割が入れ替わるため、集中して読めない。かつ、物語中で起こる出来事にしても、若干「不自然」な感が否めない。確かに水準以上の出来ではあり、軽く読めるのも良いのだが、作者の持てる力量を出し切っていないという印象を受ける。なお、この作品は「月曜日の水玉模様」「火曜日の頭痛発熱」「水曜日の探偵志願」「木曜日の迷子案内」「金曜日の目撃証人」「土曜日の嫁菜寿司」「日曜日の雨天決行」という七つの短編からなるのだが、その短編のタイトルにちょっとしたパズルが隠されている。
加納朋子『スペース』★★★★★(20110503)

創元推理文庫2009
前作『魔法飛行』で生涯最大の冒険を経験した入江駒子は、その余波で風邪をひきクリスマスを寝て過ごすことに。けれど日常の精進ゆえか間もなく軽快し、買い物に出かけた大晦日のデパートで思いがけない人と再会を果たす。勢いで「読んでいただきたい手紙があるんです」と告げる駒子。十数通の手紙に秘められた謎、そして書かれなかった“ある物語”とは? 手紙をめぐる《不思議》にラブストーリーの彩りが花を添える連作長編ミステリ。伸びやかなデビュー作『ななつのこ』に始まる、駒子シリーズ第三作。
 本作は「スペース」、そして「バック・スペース」の二つの中篇からなる。「スペース」では、これまでの主人公は一転して遠景へ退き、新たな人物の視点から綴られる手紙によって物語が進行する。さらにはその手紙の作者が主人公となる「バック・スペース」によって、「駒子シリーズ」全体が閉じられて行くのだが、その閉じ方が実にエレガントである。若干有川浩の香りがしないこともないのだが。しかし仮に前二作が如何に不出来であったとしても、『スペース』を読むためにだけ読んでも損はない、と思えるほどであるが、現実は前二作も良い作品であるのだからこれを読まない手はない。
川崎草志
川崎草志『長い腕』★★★(20140713)

角川文庫2004
ゲーム制作会社で働く汐路しおじは、同僚がビルから転落死する瞬間を目撃する。衝撃を受ける彼女に、故郷・早瀬で暮らす姉から電話が入る。故郷の中学で女学生が同級生を猟銃で射殺するという事件が起きたのだ。汐路は同僚と女学生が同一のキャラクターグッズを身に着けていたことに気づき、故郷に戻って事件の調査を始めるのだが……。
 現代社会の「歪み」を描き切った衝撃のミステリ! 第二十一回横溝正史ミステリ大賞受賞作。
 果たして「描き切って」いるかというと、残念ながら詰めが甘いと言うしかない。同僚の死と、女学生の事件とが同一犯によるものであるとの説得力に弱いからだ。さらには犯人の動機付けの点でも疑問が残る。空間構成が精神に与える影響、という構想は斬新だが、やはり説得力に欠けている、と思う(ついでに言えば、その「歪み」について、カバーの紹介文は間違っている。それは「現代社会の」ものではないからだ)。そうした出来事の説明不足を、読者の想像力に任せている部分が描き込めれば傑作になる予感はある。何が「長い腕」なのかもいまいち分かりませんでした。ともあれ、もとSEGA社員であり、ゲーム制作に携わる作者の、ゲーム制作行程の描写がとても新鮮で面白いのは確か。
川又千秋
川又千秋『幻詩狩り』★★★★★(20120701)

創元SF文庫2007
1948年、戦後のパリで、シュルレアリスムの巨星アンドレ・ブルトンが再会を約した、名もない若き天才。彼の創りだす詩は麻薬にも似て、人間を異界に導く途方もない力をそなえていた……。時を経て、その詩が昭和末期の日本で翻訳される。そして、ひとりまたひとりと、読む者たちは詩に冒されていく。言葉の持つ魔力を描いて読者を翻弄する、川又言語SFの粋。日本SF大賞受賞。
 “麻薬的作品”……評論家のレトリックとしてなら、そんな言い方も可能だろう。しかし、一篇の散文詩が、現実に麻薬的効果を読む者に及ぼすなど……(馬鹿馬鹿しい!)……呪文じゃあるまいし……考えられないことだ。(p305)
 作中で登場人物は上のように思う。勿論その思いは間違っている。詩は十分に麻薬的効果を持つ。詩は明らかに呪文でもある。  なぜならば、言葉そのものが既に魔術であり呪文であるからだ。そうでなければどうして、文字が文字たり得るだろうか? それが文字であるということは、そこに意味があるということである。何かが単なる「黒い線の絡まり」とは見えず、「文字である」と判断される境目には何があるのか? その境界を誰も明確に語ることはできない。できないのだが、一方に「線の絡まり」でしかないものがあり、他方に「文字」がある。線の集まりが、意味性を担い得るということそのものが魔術である。線の集まりが、様々な情景を描き、状況を説明し、感情を引き起こすことが既にして呪文である。  『幻詩狩り』は、文字(及び言語)のそのような不可思議さを誇張したに過ぎないとも言える。「……に過ぎない」と言ったが、しかしその些末な飛躍こそが決定的なのだ。そして川又千秋はその飛躍を意識的に行なっている。そのことは「あとがき」に見える「言葉の反在性」という文句に読み取れるだろう。その「言葉の反在性」を、学術的な方向で展開するのではなく、シュルレアリスムと関係づけたところもまた、作者の鋭い感性の賜物だ。SF大賞に相応しい傑作。再刊されたものの、それも既に入手難であるのが実に残念である。
 なお、作中作である『異界』という詩は「魚だ。ドゥバド。その目玉を直角に切り裂け。断面の震え。破裂する水晶体は血にまみれて映し出す。ドゥバド。(p78)」のように始まるのだが、この意味不明の多義語「ドゥバド」が実のところ読んでいて妙に心地良い。しかもまたその向こうに、「ガビッシュが降っている。あたり一面ガビッシュだ、どこを見ても(p166)」などの文章が頻出するP.K.ディック『火星のタイムスリップ』が透かし見えもする。この視線が的外れでないことは、ディックもまた、これらの詩に取り込まれた一人であることを暗示する一文が『幻詩狩り』に登場することによって保証されるのである。
 川又千秋がこれを書かなかったならば、山田正紀あたりが書いていたに違いないのだが、彼ならばどのようにこの物語を構築しただろうか。それを見てみたい気もする。
神林長平
神林長平『あなたの魂に安らぎあれ』★★★★★(20130504)

ハヤカワ文庫1986
火星の地下にひろがる破沙空洞市では、人間たちが絶望的なまでに単調な日々の暮らしに倦み果てていた。いっぽう放射線が降りそそぐ地上の門倉京では、人間に奉仕すべく造られたアンドロイドたちが、華やかな文明を築きあげていた。だが、その繁栄の陰で終末の予言が囁かれていた――「神エンズビルが天より下りて、すべてを破壊し、すべてが生まれる」と。『帝王の殻』『(はだえ)の下』へと続く3部作劈頭を飾る長篇デビュー作
 まるでディックのような状況設定と、ディックのような展開が痛快な傑作。『アンドロイドは電気羊の夢をみるか』に『偶然世界』または『最後から二番目の真実』あたりを融合させたような、とでも形容すればある程度物語のあり方を表現できそうである。狙いは和製ディックだっただろうということは明らかだ。もちろんディックよりは破綻のない進行で、クライマックスも美しい。
神林長平『時間蝕』★★★★(20130322)

ハヤカワ文庫1987
冷凍睡眠を使い、光速と比べられる宇宙船の速度を利用し、時間という盾に隠れて逃げつづけてきた永久逃亡犯。そして彼を捕え、火星の永久警察へ連行しようとする永久刑事。二人の乗り込んだ民間宇宙船が救難信号を受信したことから、敵味方であるふたりは難破船の捜索に赴いたのだが……「渇眠」、酸性雨が降り続く都市で起きた連続殺人事件の謎を追う「酸性雨」、ひとりひとりのパーソナル・コンピュータが人格の一部になっている未来世界を描く「兎の夢」など、星雲賞受賞作家・神林長平の才気をあますところなくつたえる中篇4篇を収録する。
 神林作品には、説明的な文章が殆ど登場しない。それゆえ慣れていない読者ならば、その物語の「状況」が読み取れず、「背景」がわからず、そして挫折することになる。その意味では読者を選ぶ作家であるだろう。しかしSFを読み慣れた読者にとっては、少ない語彙で状況のみならず、その状況を生じさせる背景までもが感じられる優れた作家であるのだ。たった一色の濃淡で、しかも「描かない」ことさえ技法として持ち込んで世界を表現する墨絵のように。特に「渇眠」と「ここにいるよ」にその手法が生きている。収録作品は「渇眠」「酸性雨」「兎の夢」「ここにいるよ」の四編。なお、タイトルである『時間蝕』は、収録されている一短編の「またの名」となっている。
神林長平『戦闘妖精・雪風〈改〉』★★★★(20090821)

早川文庫2002
南極大陸に突如出現した超空間通路によって、地球への侵攻を開始した未知の異星体〈ジャム〉。反撃を開始した人類は、〈通路〉の彼方に存在する惑星フェアリイに実践組織FAFを派遣した。戦術戦闘電子偵察機・雪風とともに、孤独な戦いを続ける特殊線の深井零。その任務は、味方を犠牲にしてでも敵の情報を持ち帰るという非情かつ冷徹なものだった――。発表から20年、緻密な加筆訂正と新解説・新装幀でおくる改訂新版
 タイトルといい、設定といい、例えばハインライン『宇宙の戦士』を嚆矢とするような、「戦いと成長・孤独と友情」を描いた、巷に溢れるSF戦闘小説の一つに過ぎないという印象を受ける。ところが内容は実に思弁的かつ哲学的であり、これに類比すべきはクラーク『宇宙のランデヴー』の方である。〈ジャム〉は徹底して物語中にその正体を現さない。従って〈ジャム〉と地球人は戦いを通じての接触しか持つことはない。そのことにより、〈ジャム〉が誰を敵視しているのかが次第に曖昧になる。それどころか「地球人」という存在は誰のことであるのか、この戦いは現実なのか、それさえも実在が危うくなっていく。アイデンティティというものは所詮「対他」の関係であり、「他者」のあり方によって自己が規定されるものである以上、その「他者」認識の変化に応じて「自己認識」も変容せざるを得ない。徹底して簡素であり、そぎ落とされた文体によって記述されるのは、そうした「対他」関係の迷路である。ただ、簡素であるが故にあちこちに意味が取りづらい箇所があるのが難と言えば難である。
神林長平『グッドラック 戦闘妖精・雪風』★★★★★(20090828)

早川文庫2001
突如、地球への侵攻を開始した未知の異星体ジャム。これに対峙すべく人類は実戦組織FAFをフェアリイ星に派遣、特殊戦第五飛行戦隊に所属する深井零もまた、戦術戦闘電子偵察機・雪風とともに熾烈な戦闘の日々を送っていた。だが、作戦行動中に被弾した雪風は、零を機外へと射出、自己のデータを最新鋭機へと転送する――もはや人間は必要ないと判断したかのように。人間と機械の相克を極限まで追求したシリーズ第2作
 物語はますます狭隘な世界へ入り込んでいく。テーマとしては一般的だが、掘り下げ方が狭く深い、という意味において。「それがどうした。おれには関係ない」が口癖の主人公、すなわち他者と他事への無関心を出発点とした物語は、関係論と邂逅する、とは前作レビューで述べた通りである。ジャムは果たして人間と戦っていると認識しているのか、それとも人間の作った機械と戦っていると思っているのか、引き継がれた“謎”は、やがて「共通認識とは何か」という難問を貫いて「認識の謎」へと至る。その問いの立て方、そして解への迫り方は、まさに哲学者のそれである。以下にその典型的な記述を引用しよう。
「他人に意識があるかどうかなどというのは、人間同士でもわからないのだ。」(p214)
「おれに意識があると思っているのか。おれの意識が、きみが生じさせた影ではない、とどうしてわかる。きみもおれという影に向かって独り芝居をしているのかもしれないだろう」(p363)
「認識は、伝達可能でなくてはならない。石や岩も世界を認識しているというのなら、それを他者に伝えようとする意志や意識や、他者とのコミュニケーション手段を持っていることになる。その可能性がまったくないのなら、石はただ外部刺激を受けているだけの存在でしかなくて、世界を認識しているとは言えない。」(p477)
「真の理解は不可能でも、信ずることはできる。人間にはそういう能力がある。」(p128)
 独我論から共同主観性へ。
 神林長平はデカルトを経てフッサールへ辿り着きつつある。
神林長平『アンブロークン アロー 戦闘妖精・雪風』★★★★(20090828)

早川書房2009
 地球のジャーナリスト、リン・ジャクスンに届いた手紙は、ジャムと結託してFAFを支配したというロンバート大佐からの、人類に対する宣戦布告だった。ついに開始されたジャムの総攻撃のなかで、FAFと特殊戦、そして深井零と雪風を待ち受ける、思いもよらない苛酷な現実とは――
 「思いもよらない苛酷な現実」とは、現実が現実ではなくなる世界のことだった。『グッドラック』以上に、問題は深く深く掘り下げられてゆく。物語としては端的に言って鬱陶しい。以下のような議論が延々交わされるからである。
「意識というのは、〈言葉〉そのものでしょう」と、いま思いついたことが口をついて出た。「自分とは何者かと考える言葉なしでは、〈自意識〉すなわち〈自分〉を意識することは不可能だ」(p117)
「名前があるのは」と零は言ってやる。「唯一の存在ではない、という証だ。唯一絶対の存在に名前が付くはずがない。名で区別する必要などないのだから」(p188)
 やがて物語は幾つもの視点(しかもその視点が誰のものかも定かではない)から描かれ、登場人物は分裂し、場面は繰り返され、巻き戻され、また別の展開を始めることになる。フィリップ・K・ディックが『虚空の眼』で描いた悪夢が、衒学的な難解さをもって出現する。初期には『言葉使い師』を著した神林長平ならではの方法論において。ラストシーンが爽やかなのがせめてもの救いである。
 そして言語へ。神林長平はウィトゲンシュタインに辿り着いた。だが雪風の物語はまだ終わらない。
かんべむさし
かんべむさし『環状0号線』★★★★(20150205)

新潮文庫1986
幻の環状線に迷い込んだ男が見たものは何? 卓抜な発想で描く表題作「環状0号線」。海外旅行に出かけたノーキョー的人物の恐るべき醜態「旅の恥はかきすて」。ある使命感に燃えた男が予期せざる悲劇に直面する「高い街」。他に、建築関係に題材をとったアーキテクチャー・メルヘン「王様の知恵」、オフィス・ショートショート「地獄耳」など、ドタバタSFの鬼才が新境地をひらいた25編。
 短いもので3ページ、長いものでも40ページ程度の短編を集めた作品集。幻想的なものからホラー、笑えるものまで多種多様。本書では比較的長いものに印象的な作品が目立つ。なぜか災難ばかりに遭う男を描いた「泣き面に蜂」や、自己評価がもはや幻想の域に達している女性の物語「とらぬ狸の皮算用」、そしてホラーめいた展開であるのに、オチだけはむしろのんびりとした「停止セズ」などが面白いが、特に若い落語家の話「二十歳の買物」が珠玉である。
貴志祐介
貴志祐介『黒い家』★★★★★(20130401)

角川ホラー文庫1998
若槻慎二は、生命保険会社の京都支社で保険金の支払い査定に忙殺されていた。ある日、顧客の家に呼び出され、期せずして子供の首吊り死体の第一発見者になってしまう。ほどなく死亡保険金が請求されるが、顧客の不審な態度から他殺を確信していた若槻は、独自調査に乗り出す。信じられない悪夢が待ち受けていることもしらずに……。恐怖の連続、桁外れのサスペンス。読者を未だ曾てない旋律の境地へと導く衝撃のノンストップ長編。
第4回日本ホラー小説大賞受賞作。
(解説/北上次郎)
 湿気の多いホラーである。そう感じるのはおそらく目的が蛇行しているからだ。保険金詐欺とは要するに、自らの傷病及び他者の死によって、間接的に金銭を入手することである。つまり傷病そのもの他者の死が目的なわけではなく、殺害した相手が持っている金銭でもない。従って傷病や死は単なる手段に過ぎないのである。しかもまた、保険金を手に入れるには傷病や死は身近な人物でなければならない。身近な人物の怪我や死によって、間接的に金銭が手に入るというところにある種の醜悪さを感じるのだ。しかし考えてみれば、その社会的な意義は措いておいて、傷病や死を媒介として成立している「保険」という契約形式そのものがすでにして湿り気を帯びているとはいえないだろうか? ともあれ本書では、企業でもなく、組織ですらなく、一個人が保険金の詐取を企み、それを実行に移す様が異様な昏さをもって描かれる。DSM-IVだとか、シンクロニシティだとか、マリー・ルイズ・フォン・フランツだとか、精神医学系の蘊蓄、さらにはユング心理学系の知見や解釈が鼻につきはするし、「悪」に関する視点も甘い(というのもそこでは「金銭への執着」という観点がごっそり抜け落ちているからだ)とは思うが、紛れもない傑作だろう。
貴志祐介『天使の囀り』★★★★★(20130401)

角川ホラー文庫2000
北島早苗は、ホスピスで終末期医療に携わる精神科医。恋人で作家の高梨は、病的な死恐怖症(タナトフォビア)だったが、新聞社主催のアマゾン調査隊に参加してからは、人格が異様な変容を見せ、あれほど怖れていた『死』に魅せられたように、自殺してしまう。さらに、調査隊の他のメンバーも、次々と異常な方法で自殺を遂げていることがわかる。アマゾンで、いったい何が起きたのか? 高梨が死の直前に残した「天使の囀りが聞こえる」という言葉は、何を意味するのか? 前人未踏の恐怖が、あなたを襲う。
 ホラーのように始まるが、そこに非合理は持ち込まれず、読み終えて気づくのはこれは優れたSFだったということである。生物学、精神医学、神話学などを材料として持ち込みながら骨太の物語が築かれる。「天使の囀り」が何を意味するのか、その思いもかけない正体が明らかになるときにはまさに生理的なおぞましさというものを禁じ得ないのだが、しかしその説明は実に合理的である。しかもその出来事が最終的に省庁の「怠慢」へとリンクされるのだから素晴らしい。最終章の主人公の「ある罪」についても伏線がしっかりと張られているし、貴志祐介最大の傑作。
貴志祐介『新世界より(上)/(中)/(下)』★★★★(20110201)

講談社文庫2011
1000年後の日本。豊かな自然に抱かれた集落。神栖(かみす)66町には純粋無垢な子どもたちの歓声が響く。周囲を注連縄(しめなわ)で囲まれたこの町には、外から(けが)れが侵入することはない。「神の力(念動力)」を得るに至った人類が手にした平和。念動力(サイコキネシス)の技を磨く子どもたちは野心と希望に燃えていた…… 隠された先史文明の一端を知るまでは。(上巻)
町の外に出てはならない――禁を犯した子どもたちに倫理委員会の手が伸びる。記憶を操り、危険な兆候を見せた子どもを排除することで実現した見せかけの安定。外界で繁栄するグロテスクな生物の正体と、空恐ろしい伝説の真意が明らかにされるとき、「神の力」が(はら)む底なしの暗黒が暴れ狂いだそうとしていた。(中巻)
夏祭りの夜に起きた大殺戮。悲鳴と嗚咽に包まれた町を後にして、選ばれし者は目的の地へと急ぐ。それが何よりも残酷であろうとも、真実に近付くために。流血で塗り固められた大地の上でもなお、人類は生き抜かなければならない。構想30年、想像力の限りを尽くして描かれた五感と魂を揺さぶる記念碑的傑作!(下巻)
 SF小説でもなければ、伝奇小説でもない。まして冒険小説とは言い難い。にも関わらず、その全ての要素を内に含んだ大作。言うならば土の匂いのするファンタジー。ファンタジーの骨格である「剣と魔法」を、SF的な設定に閉じ込めた、と言えば多少は雰囲気を描写できるだろうか。本書では省かれていた「世界」の成立の経緯や「最後の敵」の生い立ちを書き込んだならば、さらに巻数は増えるとしてもより面白いものになっただろうと思われる。とは言え貴志祐介の作品では『黒い家』『天使の囀り』と並ぶ傑作であることは間違いない。
貴志祐介『悪の教典(上)/(下)』★★★★★(20120812)

文春文庫2012
晨光学院町田高校の英語教師、蓮実聖司はルックスの良さと爽やかな弁舌で、生徒はもちろん、同僚やPTAをも虜にしていた。しかし彼は、邪魔者は躊躇いなく排除する共感性欠如の殺人鬼だった。学校という性善説に基づくシステムに、サイコパスが紛れこんだとき――。ピカレスクロマンの輝きを秘めた戦慄のサイコホラー傑作。(上巻)
圧倒的人気を誇る教師、ハスミンこと蓮実聖司は問題解決のために裏で巧妙な細工と犯罪を重ねていた。三人の生徒が蓮実の真の貌に気づくが時すでに遅く、学園祭の準備に集まった恐怖の一夜。蓮実による狂気の殺戮が始まった! ミステリー界の話題を攫った超弩級エンターテインメント。解説・三池崇史(下巻)
 タイトルから“Karn Evil #9”を連想したのだが、表紙には“Lesson of the evil”と書かれている。単なる偶然の一致かと思いきや、下巻でさりげなく関連を明らかにして来るのが嬉しい。ならば章立ても“1st impression”などとして欲しかったところである。ともかくもそのような理由で下巻中盤以降はキース・エマーソンのピアノの旋律が頭の中で鳴り響いていた。同じく「7弦ギター」という記述に対する予想も的中してその点で読み進めるのが楽しかった。
 物語そのものは、徹底して「悪」を描くことに力点が置かれているが、殺人の手口そのものに新味がある、というのではない。それどころかよくよく考えてみればどちらかというと杜撰であり、かつその場凌ぎな方法だという印象は否めない。面白みは方法ではなく、彼の「言葉」にある。言葉によって相手を騙し、懐柔し、陥れる、その言葉の巧みさである。そしてそのように言葉によって相手を操れる理由とは当然のことながら、他者の心を「直接」読み取る手段が人間には与えられていないからだ。だからこそ物語の終わりにおいて、彼はあのような手段を採ることができるのである。
 それはともかく、最終章は必要だったのだろうか?
紀田順一郎
紀田順一郎『古本屋探偵の事件簿』★★★(20120617)

創元推理文庫1991
「本の探偵――何でも見つけます」という奇妙な広告を掲げた東京神田の古書店「書肆・蔵書一代」主人須藤康平。彼のもとに直接持ち込まれる珍書、奇書探求の依頼は、やがて不可思議な事件へと進展していく……。著者ならではのユニークな着想で書かれた古本屋探偵・須藤康平もの――「殺意の収集」「書鬼」「無用の人」「夜の蔵書家」を全編収録した。すべての推理小説ファン、愛書家、そしてラブクラフト・ファンに贈る連作推理小説の痛快作!
 古書店の内実がよく分かる推理小説。ではあるのだが、一話の中にさまざまなエピソードを盛り込みすぎて筋を追いづらい。解決にいたる手掛かりも都合のよい偶然に頼り過ぎな気もする。総じて、長さの割りに手応えがないのが難である。
北森鴻
北森鴻『凶笑面 蓮丈那智フィールドファイルT』★★★(20120806)

新潮文庫2003
 《異端の民俗学者》蓮丈那智。彼女の研究室に一通の調査依頼が届いた。ある寒村で死者が相次いでいるという。それも禍々しい笑いを浮かべた木造りの「面」を、村人が手に入れてから──(表題作)。暗き伝承は時を超えて甦り、封じられた怨念は新たな怨念を求めて浮遊する……。那智の端整な顔立ちが妖しさを増す時、怪事件の全貌が明らかになる。本邦初、民俗学ミステリー。全五編。
 献辞に《諸星大二郎先生の「妖怪ハンター」に捧ぐ》とあるが、しかし『妖怪ハンター』のように超自然が超自然として成立しているわけではない。むしろこれは正統な推理小説である。それゆえに二番煎じの感は否めない。と言うのもこの分野には高田崇文という先駆者が存在する(従って「本邦初」でもない)からだ。発生する事件も民俗学的な事象そのものと密接にリンクしているわけでもない。取り上げられる民俗学的テーマも、それほど広がりを見せるわけでもない。とりあえず、民俗学の分野がいかなるものであるかを知るには良い。とはいえ、ここに挙げられた事例が民俗学の典型であると信じてはいけないのだが。
北森鴻『触身仏 蓮丈那智フィールドファイルU』★★★(20120806)

新潮文庫2005
 《わが村には特殊な道祖神が祀られている。》美貌の民俗学者、連丈那智れんじょうなちのもとに届いた手紙。神すなわち即身仏なのだという。彼女は、さっそく助手の内藤三國みくにと調査に赴く。だが調査を終えた後、手紙の差出人が失踪してしまった──。那智はいにしえの悲劇の封印を解き、現代の事件を解決する(表題作)。山人伝説、大黒天、三種の神器、密閉されたくらい記憶。本格民俗学ミステリ集。
 この一連の作品集で解明されるものは二つある。一つは現在進行形の「事件」であり、そしてもう一つは過去完了形の──民俗的記憶の中にある──「出来事」である。その両者の繋がりが強引すぎない点では前作よりも評価できる。ただ、このシリーズ最大の問題点は、民俗学的な事象がことごとく“現実の出来事”に端を発している、という点だろう。これは裏返せば、何らかの出来事が現実に起こらない限り、民俗学の対象たる事象は発生しない、ということになってしまう。ならばこれは通俗的な「神話解釈」と同じではないか。神話に関してもまさに、そうした解釈が作中では行われている。しかし、神話のある一部分を取り上げて、それに対応する出来事を示したからと言って、それで「神話が分かった」ことになるのだろうか? 京極作品と北森作品の差は、そうした人間の思考に対する配慮のなさにあると言えるだろう。「御蔭講」など、あと一歩で京極作品に迫るものを持っていただけに、残念。
機本伸司(きもとしんじ)
機本伸司『神様のパズル』★★★(20150118)

ハルキ文庫2006
留年寸前の僕が担当教授から命じられたのは、不登校の女子学生・穂瑞沙羅華(ほみずさらか)をゼミに参加させるようにとの無理難題だった。天才さゆえに大学側も持て余し気味という穂瑞。だが、究極の疑問「宇宙を作ることはできるのか?」をぶつけてみたところ、なんと彼女はゼミに現れたのだ。僕は穂瑞と同じチームで、宇宙が作れることを立証しなければならないことになるのだが……。第三回小松左京賞受賞作。
 もちろん宇宙は作れるに決まっている。この宇宙が存在していることが何よりの証拠だ。問題は、それが人類に可能なのか、ということである。そういう視点を中心に置いた発想は見事。ところが期待とは裏腹に、と言うか、むしろ期待通りに、というべきか、ともかく「こういう方向にストーリーが流れていくのだけはやめて欲しい」というまさにその方向へと、物語が流れていくのである。それは主題の性質上仕方ない面もあるのだが、それにしてももう少し意外性があれば良かった。田植えのエピソードも本論との繋がりが不明であるし、“むげん”の不調も何が原因であったのかよくわからないし、そもそもなぜそのエピソードが存在しているのかも不明である。つまり全体として、発想はいいがプロットがとっちらかっている、ということだ。
機本伸司『僕たちの終末』★★(20100810)

ハルキ文庫2008
 二〇五〇年、太陽活動の異常により人類に滅亡の危機が迫るなか、ネット上には〈宇宙船をつくりませんか?〉という怪しげなサイトが立ち上げられていた。詐欺とも思えるサイトの首謀者に接触するため、スタッフに応募した瀬川那由は、その人物が天文学者の神崎であることを知る。宇宙船を作るという無謀な計画に巻き込まれた那由は、父親と神崎とともに“ワールドエンド・スペーストラベル”を立ち上げるが……。待ち受ける難問の数々を乗り越え、宇宙船を作り上げることはできるのか? 傑作長篇SF。(解説・堀晃)
 民間で恒星間宇宙船を作る、というアイディアそのものは素晴らしいし、本書の大半がそれに費やされてはいる。しかしまだもの足りない。それはおそらく、「作る」という作業の中身が実質的には「宇宙船の仕様」に向けられてしまっているからなのだろう。資源の調達や人材の確保など、考えてみれば恒星間宇宙船建造に必要なものは山ほどある。それら全てを扱えないにしても、エンジンの形式とそこでの乗員の生活のあり方に絞るのではやはり物足りないと思う。また、物語中でも政府の妨害、あるいは諸外国の牽制が描かれていないことはないが、それらはいつの間にか脇へと追いやられ、かつ解決してしまう。面白みはむしろそれらをいかに乗り切るか、にあると思うのだが。加えて、人物の造形があるいは輪郭がぼんやりとしていたり、あるいは類型的すぎたりで、これもまた興を削ぐのである。
京極夏彦
京極夏彦姑獲鳥うぶめの夏』★★★★★(20101003)

講談社ノベルズ1994(講談社文庫1998)
 この世には不思議なことなど何もないのだよ──古本屋にして陰陽師おんみょうじ憑物つきものを落とし事件を解きほぐす人気シリーズ第一弾。東京、雑司ヶ谷ぞうしがやの医院に奇怪な噂が流れる。娘は二十箇月も身籠もったままで、その夫は密室から失踪したという。文士・関口や探偵・榎木津えのきづらの推理を超え噂は意外な結末へ。京極堂、文庫初登場!(講談社文庫版)
 文体の名手、京極夏彦の記念すべきデビュー作。このトリック(と言っていいのか)は反則に近い。が、後の作品群を見ればそれが一連の「京極堂シリーズ」に通底するトリックの典型的性格を最も簡単な形で代表していることが分かる。即ちそれは「心理」であり、認識・知覚・記憶という人間の精神活動の「噛み違い」である。視点を変えることで出来事の位相が一気に変転する、その結末は見事という他はない。
京極夏彦魍魎もうりょうはこ★★★★★(20120619)

講談社ノベルズ1995(講談社文庫1999)
 箱を祀る奇妙な霊能者。箱詰めにされた少女の四肢。そして巨大な箱型の建物──箱を巡る虚妄が美少女転落事件とバラバラ殺人を結ぶ。探偵・榎木津、文士・関口、刑事・木場らがみな事件に関わり京極堂の元へ。果たして憑物つきものは落とせるのか!? 日本推理作家協会賞に輝いた超絶ミステリ、妖怪シリーズ第2弾。(文庫版)
 京極堂シリーズ中屈指の傑作。何より冒頭の作中作における「みっしり」が良い。この擬態語の使われ方を知るだけでも本書を読む価値がある。雰囲気は山田正紀『幻象機械』+島田荘司『眩暈』だろうか。マッドサイエンティストあり、猟奇事件あり、宗教あり、と盛り沢山な内容である。榎木津礼二郎もこの物語の中盤以降からお馴染みのスタイルと化していくし、その意味でも記念碑的な作品だろう。
京極夏彦『百器徒然袋―雨』★★★★★(20151004)

講談社ノベルズ1999
 救いようの無い八方塞がりの状況も、国際的ワールド・ワイドな無理難題も、全てを完全粉砕する男。ご存知、探偵・榎木津礼二郎! 「下僕」の関口、益田、今川、伊佐間を引き連れて、さらには京極堂・中善寺秋彦さえ引きずり出して、快刀乱麻の大暴れ!
 不可能状況を打開する力技が炸裂する三本の中編。
 「京極堂シリーズ」に登場する破天荒な探偵、榎木津礼二郎を前面に押し出した短編集。それゆえ登場人物はほぼ「京極堂シリーズ」と重複するが、今のところこちらにのみ登場する巻き込まれ型の語り手「本島」の一人称で物語が綴られるため、「京極堂シリーズ」よりは遙かに読みやすい。そしてとにかく文句なしに笑える推理小説でもある。特に「山颪やまおろし」は絶品であり、場合によってはこの短編をシリーズの最高傑作とするのもやぶさかではないくらいだ。
京極夏彦『ルー・ガルー 忌避すべき狼』★★★★(20110913)

徳間書店2001(講談社ノベルズ2009)
21世紀半ば。清潔で無機的な都市。仮想的な均一化した世界で、14〜15歳の少女だけを狙った連続殺人事件が発生。リアルな“死”に少女たちは覚醒した。……闘いが始まった。

まったく新しい京極ワールド!

 序盤は多少入り込みにくいが、20ページも進めばあとは一気呵成に読み終えられる。京極堂シリーズとは異なって、動きは多くエンターテインメント性に富むとも言える。ただ、被害者に共通して見られるある状況が何のためであるかは比較的容易に見抜けるので、その点で面白さが減殺されなくもない。物語の進行は比較的真っ直ぐでひねりがないが、それゆえに特に考えることなく読める。登場する少女の個性の違いをはっきりさせればより面白くなったのかも知れない。
京極夏彦『百器徒然袋―風』★★★★★(20151004)

講談社ノベルズ2004
 調査も捜査も推理もしない。ただ真相あるのみ! 眉目秀麗、腕力最強、天下無敵の薔薇十字探偵・榎木津礼二郎えのきづれいじろうが関わる事件は、必ず即解決するという。探偵を陥れようと、「下僕」の益田や本島らに仕掛けられた巧妙な罠。榎木津は完全粉砕できるのか? 天才の行動力が炸裂する『五徳猫ごとくねこ』『雲外鏡うんがいきょう』『面霊鬼めんれいき』の3編。
 前作『百器徒然袋―雨』以上に乗って書いているということがありありと感じられる作品集。いやだいやだと言いながらも結局は巻き込まれてしまう本島の台詞のリズムも非常に計算されていて、内容の厚みにもかかわらず軽く読み進められる。なおかつそれで笑えるのだからもうこれは名手とでも言うより他はない。どれも傑作な中で、悪人共が最終的にドタバタする「雲外鏡」が素晴らしい。
京極夏彦『邪魅の雫』★★★(20090918)

講談社ノベルズ2006
 「殺してやろう」「死のうかな」「殺したよ」「殺されて仕舞いました」「俺は人殺しなんだ」「死んだのか」「――自首してください」「死ねばお仕舞いなのだ」「ひとごろしは報いを受けねばならない」
 昭和二十八年夏。江戸川、大磯、平塚と連鎖するかのように毒殺死体が続々と。警察も手を (こまね) く中、ついに あの男(、、、)が登場する! 「 (よこしま) なことをすると――死ぬよ」
 端的で身も蓋もないまとめ方をするなら、本書は殺人○○ー小説である。従って複数の加害者と複数の被害者が入り乱れるのは必然である。これを例えば『百器徒然袋』のように、ある一人の視点から描写されるならば特に問題はないのだろうが、関係者それぞれの視点から描かれるために状況の整理が困難な構成になっている。それが物語の狙いであるのは分かるし、同じ構成は『鉄鼠の檻』その他にも既に、より簡素な形で試みられてはいる。しかし十数人分の独自の視点が入り乱れるとなれば、読む側は逐一メモでも取らない限り、何がいつどのように起こったかの全貌を把握するのは大変である。本書の「読みにくさ」の第一はそこに由来する。また、読者が驚くような「不可能な」犯罪が――別の意味で「不可能な」凶器は登場するが――起こるわけでもなく、そのために物語にこれといった山場がない。これが第二の「読みにくさ」の原因だろう。  プロットの中心に殺人リ○○を置いた上で、そのプロットを構成する人物をできるだけ多彩にするならば、いわゆる凶器に工夫が必要なのは頷ける。しかしそれがこのような――「不可能な」――「特殊な毒」であるのは御都合主義と批判されても仕方あるまい。さらに、結末部分において京極堂が持ち出してくる幾多の「事実」は、事前に推測することのできる内容でないものが多い。言い換えれば、読者が読みながら推理した内容はあらかじめ挫折を余儀なくされているのだ。それゆえ本書は「推理小説」という体裁をあらかじめ持っていない。では「妖怪小説」というべきか。しかし妖怪についての蘊蓄も登場しない。それどころか物語の主役級が数カ所にしか現れず、多数の登場人物によって遅々たる歩みで四方八方に展開された日常劇は、最後の数十ページでバタバタとせわしなく折りたたまれる。肝心の憑き物落としもなされない。つまりカタルシスがない。これでは不満が残るのも仕方ない。これが「京極堂シリーズ」でないならば、あるいはこうした物語もあり得るだろうし、その場合登場人物もかなり整理できただろう。ということは、裏返せばこれは「京極堂シリーズ」ではないのだ。
 読み終えて「面白かった」と言える何かがあるかと言われれば、首を傾げざるを得ないのが正直な感想である。
京極夏彦『厭な小説』★★★★(20090706)

祥伝社2009
「厭だ。厭だ。厭だ――」感情的パワハラを繰り返す馬鹿な上司に対する 深谷(ふかたに)の、 呪詛(じゅそ) のような繰り言にうんざりして帰宅した私を、マイホームの玄関で見知らぬ子供が迎えた。 山羊(やぎ) のような (ひとみ)。 左右に離れた眼。見るからに不気味だ。なぜこんな子が、夫婦二人きりの家に? 妻はその子の存在を否定した。幻覚か?  怪訝(けげん)に思う私。だが、これが底なしの悪夢の始まりだった……(「厭な子供 より)。「恐怖」と「異なるもの」を描き続ける鬼才が繰り出した「不快」のオンパレード。一読、後悔必至の怪作、ここに誕生!
 文庫版では(おそらく)省略されてしまっているに違いないのだが、ハードカバー版では表紙も、そして頁の一枚一枚も陽に焼けて色褪せた風で、さらに思わず触ってしまうほど立体的な検印、しかも御丁寧なことにページのところどころには(もちろん印刷による表現だが)潰れた虫までもが忠実に再現された、新品感のない実に「厭な」装幀で、全七編の短編小説が収められている。
 怪談集として捉えればそれほど捻りもない、むしろストレートな作品なのだが、なにしろ「厭さ」の点で際立つ。特に「厭な子供」「厭な老人」「厭な先祖」「厭な彼女」の四編の水準はかなり高い。また、「厭な先祖」はあの傑作『魍魎の匣』に通じるプロットが唸らせる。
 ただし、最終編「厭な小説」の結末だけは止めて欲しかったと心から思う。物語としては禁じ手に近い「厭さ」であり、確かにこれでは「読んで後悔」せずにはいられない。
 この「厭さ」を堪能したいならばぜひハードカバー版で読むべきである。必ず後悔するだろうから。
京極夏彦『死ねばいいのに』★★★(20100629)

講談社2010

死んだ女のことを教えてくれないか――。


無礼な男が突然現われ、私に尋ねる。
私は一体、彼女の何を知っていたというのだろう。
問いかけられた言葉に、暴かれる嘘、 (さら) け出される (ごう)
浮かび上がる () (む)き出しの真実……。
人は何のために生きるのか。


この世には不思議なことなど何もない。
ただ一つあるとすれば、それは――
 関係者の証言において、とある死者の生前の生活を浮き彫りにして行く、という手法は東野圭吾『新参者』と同じであると言える。ただ、『新参者』が一つ一つの短編において謎とその解決がきちんと描き込まれ、その上で「犯人は誰か」というより大きな謎が明らかになるのに対し、『死ねばいいのに』には「犯人は誰か」という謎があるにはあるが、読み進めていく上で容易く推理できる叙述である。従って本書は純粋な推理小説ではない。言うなれば、事件解決抜きの、「裏」の京極堂である。何も知りません、教えてくださいと言いつつ、相手に語らせた上で相手の話の矛盾を突く、という構成は秀逸。読ませる心理小説。あるいは「裏」カウンセリング。ただ、相手のエゴを白日の下に晒した上での決め台詞が「死ねばいいのに」であるのは、多少無理矢理な感がある。浮き彫りにされる死者に血が通っていないのが欠点。
京極夏彦『幽談』★★★★★(20120330)

メディアファクトリー文庫2012

怖いものとは何だろう

妻と離別した私は記憶を辿りながら、七年前と同じように汽船に乗って浜辺を歩き、侘しい岬に建つ一軒宿を訪れる。以前、私は妻とともに庭の見える部屋に泊った。そして、月光が満ちた旅館の庭で艶かしい女の手首を拾ったのだ。「手首を拾う」
怪談よりも怪しく、奇談よりも奇妙な幽き物語たち。端正な美しさと不気味さが入り交じった京極小説の別天地がここにある。 解説/堤邦彦
 ポストから取り出してきた、読むつもりのないダイレクトメールをテーブルの上に投げ出すように、意味不明なものが無造作に投げ出される怖さ。怖さとはその意味が不明だからであり、意味が分かれば怖さなどなくなる。それゆえいわゆる霊能者とは、その「意味不明なもの」の由来を物語り、世界への秩序へと組み込むことを生業とする者である。意味が語られることで怖さは減衰し、代わって対処が現われる。ならば霊能者は訊かれて初めて答えるべきであり、訊かれてもいないのに自ら進んで語る者とは(そしてここで著名な霊能者や占い師の名前を任意に思い浮かべよ)自身の本来の佇まいを弁えない愚か者と言う他はない。
 柳田国男『遠野物語』とは、そうした「無造作な意味不明」に満ち満ちた怪談集として読むのが最も豊かな読みとなる。そして『遠野物語』の正当な継承者たり得るのが本書『幽談』だろう。ただ『遠野物語』とは異なり、『幽談』の主人公は生産性無く思い煩い、勝算も無く突き詰めて考える。「無造作な意味不明」をきっかけとして生じた不毛な思考は何の解決ももたらさず、「意味不明」は最後まで意味不明なままである。そしてそれこそが正しい「怪談」のあり方なのだ。答えを求めてはならない。なぜならそれは日常へ回帰することに他ならないからである。他方で「思い煩わない主人公」を配したならば、それは巷に溢れる「実話」という名の「怪談」と何ら変わりはないわけで、そのあたりの絶妙な距離感が京極の巧さであるだろう。
 収録された八篇のうち「十万年」が最も秀逸で、哲学へのオリエンテーションとしての教材に使えそうなほどであるのだが、その一方で「こわいもの」の結末は同作者のとある作品と同じ形式なのは頂けない。
京極夏彦『覘き小平次』★★★★(20121210)

中公文庫2012
小平次は、いつも微昏(うすくら)がりに居る。そして、両の眼を確乎(しっか)りと明けている……。死んだように生きる幽霊役者小平次と生き(なが)ら死を望む女お塚は、押入襖の隙間からの目筋とこの上ない嫌悪とで繋がり続ける――山東京伝の名作怪談「復讐奇談安積沼」を現代に甦らせた山本周五郎賞受賞作。〈解説〉斉藤環
 覆いつくすのは存在の不安である。満ちているのはマイナスの引力である。物語において登場人物は自らの存在を疎ましいと感じ、にも関わらず潔く己を抹消できもせず思い煩う。かと思えば他の登場人物は、相手を嫌うというそのことにおいてのみ、自分の存在の場を見出しているようである。哲学者ならば「実存」だの「現存在」だのという言葉を用いて難解に、かつ浮き浮きとして語るであろう事柄を、またフランスあたりの映画ならば「アンニュイ」な雰囲気で描き出しそうな内容を、京極は殺伐とした江戸の風景を背景として物語る。あの人物とこの人物がこうした因縁を持ち……という人間同士の絡まり合いも面白い。『巷説百物語』のキャラクターが登場するのも楽しい。ただし、淡々と読ませるのは良いのだがカタルシスがあるとは言えないのが心残りである。
京極夏彦『百鬼夜行 陽』★★★★★(20121007)

文藝春秋2012
悪しきものに取り憑かれてしまった人間たちの現実(リアル)が崩壊していく……。百鬼夜行長編シリーズのサイドストーリーでもある怪しき作品集、十三年目の第二弾待望の最新刊!

陰から陽へ――。

 600ページ弱、読み応えある10の短編。本編では脇役だった人物にスポットライトが当てられ、その心理が詳細に語られるのだが、本編での役回りを覚えていればさらに楽しめるのだが、忘れていたならば逆に今度はあの「レンガ本(泣)」たる本編を読み返したくなるある意味困った短編集。おそらくは本編から「本格」部分を構成するトリックを取り除き、人物の絡まり合いを排除して、一人の人物の歪みつつある/歪んだ・心理をのみ記述するならばここに掲載された短編の分量となるのだろう。つまりあの「レンガ本」は、トリックと人間模様とで増量されていることになる。当たり前と言えば当たり前の結論で申し訳ないのだが、京極の描く歪んだ心理が既に面白いのだから、それにトリックが付け加われば成る程面白くならないわけがない、という結論は新たな発見である。
京極夏彦『冥談』★★★★★(20140220)

角川文庫2013
庭に咲く艶々とした椿の花とは対象に、暗い座敷に座る小山内(おさない)君は痩せ細り、土気色の顔をしている。僕は小山内君に頼まれて留守居をすることになった。襖を隔てた隣室に横たわっている、妹の佐弥子(さやこ)さんの死体とともに。しかしいま、僕の目の前に立つ佐弥子さんは、儚いほどに白く、昔と同じ声で語りかけてくる。彼女は本当に死んでいるのだろうか。「庭のある家」をはじめ、計8篇を収録。生と死のあわいをゆく、ほの(ぐら)い旅路。
 「怖い物語」が少ない。「死後の世界は存在する」という信念が広く行き渡っていることに胡座をかいて、ただ単に幽霊を登場させればそれで良しとする、何の捻りもない「怪談」が多すぎる。本書はそうした安直な怪談とは異なる。「怖さ」はそれが「出てきた状況」によって惹起されるのではなく、「それを見てしまうに至った主人公の状況」へと位相がずらされている。実に的確な「ずらし」である。というのも、通常一般の怪談物語では問題にもされないことなのだが、「よりによって、なぜそれを、その人物が見なければならなかったのか」ということが最大の謎でもあろうからだ。作中の主人公は、それゆえ大半の物語において、「なぜそんなものを見たのか」ということについて思案投げ首となり、または「それを見るまで」の過程において、ああでもないこうでもないと思いを巡らす。その爬行的な思考が実に面白い。加えて柳田国男『遠野物語』中の幾つかの話を結合して一つの物語にした「遠野物語より」も素晴らしい。
京極夏彦『数えずの井戸』★★★★(20141005)

角川文庫2014
不器用さゆえか奉公先を幾度も追われた末、旗本青山家に雇われた美しい娘、菊。何かが欠けているような焦燥感に追われ続ける青山家当主、播磨。冷たく暗い井戸の (ふち) で、彼らは凄惨な事件に巻き込まれる。以来、菊の亡霊は夜な夜な井戸より湧き出でて、一枚二枚と皿を数える。皿は必ず――欠けている。足りぬから。欠けているから。永遠に満たされぬから。無間地獄にとらわれた菊の哀しき真実を静謐な筆致で語り直す、傑作怪談!
 登場人物それぞれの屈託がしつこいほど丁寧に綴られてゆくその筆致に魅入られて、ついつい読み進めてしまう作品。ただし、その屈託の源泉が語られることはないということ、そして個々の屈託を語るあまりに必然的に、起こる出来事が少なくなり、何だか幾つもの私小説を連続して読んでいるような気になるのは難点だろう。陰々滅々とした語りが面白いのだが、物語が終わってもカタルシスは得られないので気をつける必要がある。
京極夏彦『虚言少年』★★★★★(20141104)

集英社文庫2014
オヤジ臭く、自他ともに認める嘘吐きの内本健吾。モテたいのに女子ウケしないことばかりをし続け、、味のある面白さを持つお坊ちゃまの矢島 (ほまれ) 。人心を掌握する術と場を読む能力に長け、偏った知識を持つ京野達彦。「馬鹿なことはオモシロい」という信条を持つ小学生男子三人組が繰り広げる、甘酸っぱい初恋も美しい思い出も世間を揺るがす大事件もないが、馬鹿さと笑いに満ちた日々を描く7編。
 何も起こらない。起こることと言えば小学校で、小学生の間に起きるような「取るに足らない」、「どうでもいい」出来事ばかりである。にもかかわらず面白い。なぜか。小学生にありがちな行動や心境や思いの諸々が、あの京極独特の文体で執拗かつ緻密に書き込まれているからである。とはいえもちろん、「現実の」小学生のそうした言動や行動を「ありのままに」描いているわけではない。そうであるならばそれは児童心理学あたりの、それもあまり使いものにならない資料にしかならない。だからこの物語には、物語としての体裁をなすべく多分に虚構が含まれていて――何より主人公たちの性格設定がそれを良く表している――、だからこそ惹き込まれるのである。
桐生祐狩
桐生祐狩『夏の滴』★★★(20111031)

角川書店2001(角川ホラー文庫2003)

 第8回日本ホラー小説大賞長編賞


 鬼畜でグロテスク、邪悪でインモラル。
 こんな世界を描いて、これほどみずみずしく切ない小説があっただろうか?
 真に待ち望まれていたニューウェーブ・ホラー、ついに誕生!
 発端は十分に面白いのだが、それが活かされていない感じがする。登場人物の背景についての説明が浅く、従って行動に説得力がない。結末に至る「ある発見」もまた殆ど「記録」によって語られるのみであって、それを推測させる手掛かりに乏しく、そのために怖さが生じない。概して出来事を淡々と記述するだけで読者を怖がらせようとする意気込みに欠ける気がする。
鯨統一郎
鯨統一郎『邪馬台国はどこですか?』★★★★★(20100927)

創元推理文庫1998
 このところバーテンダーの松永は忙しい。常連の三人がいきなり歴史検証バトルを始めてしまうので油断は禁物。話についていくため予習に励む一方、機を捉えて煽ることも。そつなく酒肴を供して商売も忘れず、苦しまぎれのフォローを試み……。またもや宮田六郎の独壇場か、幕引きのカシスシャーベットがお出ましに。宮田教授はいつもながら従容不迫、おおっと静香が切札を出した!
 邪馬台国の所在地、聖徳太子の正体、仏陀の行跡などを題材に、奇想天外な説を披露する歴史推理。といっても決して蘊蓄に偏らず、手軽に読める点が素晴らしい。奇想天外と表現したが、それも「正統な」歴史学の立場からみた場合であって、そうした学問のむしろ硬直したセオリーを排して自由に考えた場合、こちらの方が真実に迫っているのではないか、と思わせる説得力さえある。
鯨統一郎『九つの殺人メルヘン』★★★★(20150518)

カッパノベルズ2001
彼女がグラスの日本酒をあおると、確実なはずのアリバイが崩れ出す。
グリム童話の新解釈になぞらえて、解き明かされる事件の真相とは!?
渋谷区にある日本酒バー〈森へ抜ける道〉を舞台に、
店の常連の工藤くどう山内やまうち、マスターの“厄年トリオ”と、
日本酒好きの女子大生・桜川東子さくらがわはるこが推理する、九つの難事件。
興趣あふれる珠玉の本格推理傑作集!
 『邪馬台国はどこですか?』のメルヘン版であり、かつ本格推理ものでもあるという異色作。作中でも言及されているが、有栖川有栖が『マジックミラー』で展開したアリバイトリックの九分類をそのまま九つの物語にしつつ、事件とメルヘンの解釈を絡めた技巧作だと言える。ちなみに本作では問題の九分類については細かく紹介されていないのでここで説明しておくと、「アリバイが成立している」と錯覚される条件としては、1:証人に悪意がある場合、2:証人が錯覚をしている場合、3:犯行現場に錯誤がある場合、4:証拠物件が偽造されている場合、5:犯行推定時間に錯誤がある場合、6:ルートに盲点がある場合、7:遠隔殺人、8:誘導自殺、9:アリバイがない場合、の九つである。これを念頭に置きつつ本書を読めば興趣は増すだろう。加えて昭和時代の遊びやテレビ番組の話題などが立て続けに取り上げられていて、懐かしがれる人には楽しいかもしれない。いわゆる本歌取りも多々垣間見られるのも面白い。たとえば
「工藤ちゃん、天使の声を聞いたことあるの?」
「いや、ないよ。囀りならあるけど」
「危ないよ」
という箇所は、貴志祐介『天使の囀り』がベースとなっている、というように。
 とはいえ肝心のメルヘン解釈にはかなり牽強付会な要素が感じられ、それが減点要素だろうか。
鯨統一郎『サイコセラピスト探偵 波田煌子なみだきらこ なみだ研究所へようこそ!』★★★(20150621)

祥伝社ノベルズ2001
港区六本木ろっぽんぎにあるメンタル・クリニック「なみだ研究所」。新米臨床心理士の松本清まつもときよしは、そこへ大学の恩師にすすめられ見習いとしておもむくことになった。研究所の所長・波田煌子なみだきらこは数々の臨床実績を持つ伝説のセラピスト。が、松本はほどなく愕然とすることになる。波田の幼い容姿と同じく幼い知識と、トボけた会話。果たしてこんなことで患者は治せるのか? 不安になる松本をよそに、波田先生の不思議な診療が始まった……。
推理ミステリ界の鬼才が放つ、ユーモアあふれる本格推理の決定版!
 サイコセラピーに名を借りた推理小説。フロイトやユングはもちろん、アードラーや森田療法という言葉までが飛び交うという意味では、心理学好きには嬉しいかもしれない。さらにラカンと関連して一度だけ、ロラン・バルト、ミシェル・フーコー、レヴィ=ストロースの名前まで登場する――構造主義の四天王(笑)――。肝心の推理部分だが、どうにもこじつけ感が否めないし、登場人物に関しても今一つ輪郭がはっきりしない。ただ物語だけあって、心理学の説明は比較的わかりやすいので、心理学の入門書の入門書として読むのが正解かもしれない。
鯨統一郎『新・世界の七不思議』★★★(20120709)

創元推理文庫2005
 東洋の寂れたバーの片隅で、過去幾たりもの歴史学者を悩ませてきた謎がいともあっさり解明されてしまうとは。在野の研究家以上には見えない宮田六郎が本職の静香を向こうに廻して一歩も引かないどころか、相手から得たばかりのデータを基に連夜の歴史バトルで勝利を収めていく。宮田の説に耳を傾けながら、歴史に興味を持ち始めた若い頃のようにワクワクするジョゼフであった。
  結論から言えば、残念ながら『邪馬台国はどこですか?』に比べてインパクトに欠ける作品である。それはすなわち、前作ほどの説得力がない、という点につきるだろう。全七作品のうち半分以上の、「アトランティス大陸」「ストーンヘンジ」「ピラミッド」「ノアの方舟」「ナスカの地上絵」についての説にそれが感じられる。一つ一つが大きすぎる謎だけに、短編に収めることに拘らなければより面白くなったと思うのだが。ただ、「始皇帝」と「モアイ像」に関しては秀逸であり、これだけでも読む価値はあるだろう。
鯨統一郎『ミステリアス学園』★★★★★(20110327)

光文社文庫2006
 ミステリアス学園ミステリ研究会、略して「ミスミス研」。ミステリは松本清張(まつもとせいちょう)の『砂の器』しか呼んだことがない、新入部員・湾田乱人(わんだらんど)が巻き込まれる怪事件の数々。なぜか人が死んでいく。「密室」「アリバイ」「嵐の山荘」……。仲間からのミステリ講義で知識を得て、湾田が辿り着く前代未聞の結末とは!?
 この一冊で本格ミステリがよくわかる――鯨流超絶ミステリ!
 本格ミステリの歴史、作家、代表作が学べる作品。それだけがこの物語の取り柄ではないかと当初は思う筈だ。第三話あたりまでの事件及びトリックは、これと言って目新しくはないどころかむしろ拍子抜けするしミステリ初心者以外には正直大して面白くはない。ところが本作の本領は、第一話の「現実」は第二話では「物語の中の出来事」となり、さらに第二話の「現実」は第三話において「物語の中の出来事」であるという入れ子構造にあり、その戦略は第四話以降においてようやく明確になってくるのだ。その「マトリョーシカ物語」が最終話において辿り着く先は筒井康隆的な実験小説の世界である。前半の内容からは想像もつかない、非常に良質かつ衒学的なメタ・ミステリ。尚、冒頭の一行の壮大なネタバレは非常に危険である。
鯨統一郎『鬼のすべて』★★★(20150223)

光文社文庫2008
警視庁捜査一課の刑事・ 渡辺(わたなべ) みさとは、友人の 若江世衣子(わかえせいこ) の死体を発見する。あたかも () に見立てられた死体を……。直後、新聞各紙に () と名乗る犯人から犯行声明文が送られてきた。 () の意味するものは何か? 「日本から () を消す」という言葉を残して警視庁を去った男・ハルアキとともに、みさとは () の正体を追うが……。連続殺人と伝奇を見事に融合させた傑作推理!
 読んでいて違和感が拭えない。主人公は捜査一課の刑事であるにもかかわらず、その資質がまったく感じられないようなキャラクター設定であったり、警視庁まで退職して「鬼を消す」ハルアキの動機もよくわからない。「伝奇」部分についても詰めが甘い。「鬼」についての多様な見解を一通りなぞってはいるのだが、突っ込みどころ満載である上に、結論に至る論理も飛躍しすぎだと思われる。たとえば本文には『遠野物語』が、あたかも柳田国男自身が「各地で民話、伝承の聞き込み」をおこなった成果であるかのように書かれているが、そんな事実はない。「鬼」と言えば言及されざるを得ない『日本書紀』斉明天皇の条に触れられていない。さらに単に音の類似から二つの事象に関連を見出すというのは言語学的には乱暴すぎる、などなどである。概してまだ物語、特に推理小説を書き慣れていない人物が書いた習作のような「変な」作品。
鯨統一郎『新・日本の七不思議』★★(20110522)

創元推理文庫2011
大昔、日本は北と南でアジア大陸と地続きだったが、温暖化によって……。ところで「日本」はニホンかニッポンか、日本人の要件ってなんだろう? バーのカウンター席で始まった歴史談義は、漫然と受け止めていたけれど実は全然知らなかったんだと気づかされることのオンパレード。八幡平や桶狭間などの現地調査も交え、数々の不思議に理論で迫る。原日本人、邪馬台国、柿本人麻呂、空海、織田信長、東洲斎写楽、太平洋戦争――日本人なら知っておきたい七つのテーマに、鯨史観は如何なるアプローチを試みるか。好評を得た『邪馬台国はどこですか?』『新・世界の七不思議』に続く、第三弾。
 前作『邪馬台国はどこですか?』に比較すると、面白さや立論の整合性の点ではどうしても劣る作品。扱っている歴史対象の「何が問題なのか」が今一つはっきりせず、従って議論も散漫になりがちである。説明についても不足気味で、急ぎ足で推理されるため、説明にも飛躍があるように思われる。何より前作では舞台はバーから動かず、それゆえにアームチェア・ディテクティヴの歴史版という趣があったのだが、今作は現地へ出かけることにより、情景描写が増えることで推理への紙幅が削られ、そのために散漫な印象を生じるのかもしれない。
倉阪鬼一郎
倉阪鬼一郎『学校の事件』★★★★(20110321)

幻冬舎文庫2006
県立吹上高校は教頭も校長もその息子の新任教師も、可愛い女生徒とつきあう体育教師も、事故死した熱心な社会科教師とその妻も、軟式野球部員と監督も、PTAも、生徒会長も、ついでに町の小説教室講師(売れない作家)も、みな過剰な自意識を持てあます、怪しい輩だった。そんな学校に大量殺人事件が発生! 裏には、とんでもない真相が……。
 タイトルから受ける印象とは異なり、これは推理小説ではない。「過剰な自意識を持てあます」人物が、如何にしてその結末に至ったか、をオムニバス形式で描く連作短編小説である。テンポが良く、かつ笑える物語。出来事の結末は陰惨であるのに、それを感じさせず、逆にユーモラスに描きあげる筆力は並ではない。最後に明かされる「とんでもない真相」が、もう少し立体的かつ奥深いものであれば、というところが残念な点。
倉知淳
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倉知淳『猫丸先輩の推測』★★★(20130304)

講談社文庫2005
 『家火災、至急連絡されたし。』夜な夜な届く不審な電報、花見の場所取りをする新入社員を次々襲う誘惑と試練、行方知れずの迷い猫……。平和だった毎日を突然かき乱す小さな「大事件」を、神出鬼没&ほのぼの系の名探偵・猫丸先輩が鋭い推理でずばり解決! これぞ本格ミステリの精粋といえる6編を収録。
 誰一人として人が死なない推理小説。雰囲気的には若竹七海『僕のミステリな日常』に近いか。日常に出現した「不思議」を解決するのはどこか強引でマイペースな猫丸先輩。しかもその解決は「推測」であって推理ではない。検証され、確認された推理ではなく、謎に直面した本人だけが胸落ちすればそれでいい、というスタンスが斬新といえば斬新。最初に提示される“謎”が実に魅力的なのはいいが、問題は「視点」となる人物にとって、猫丸先輩が「通りすがりの変な人物」である場合が多いことだろう。この手法は彼がどういう背景を持つどんな人物なのか、ということを描写せずにすむ、という利点はあるが、反面、キャラクターに深みを持たせられない。そのために猫丸先輩の佇まいが見えてきにくいのである。まあ、それも本数が重なれば解決する問題ではある。
黒野伸一
黒野伸一『限界集落株式会社』★★★★★(20131226)

小学館文庫2013
 起業のためにIT企業を退職した多岐川優が、人生の休息で訪れた故郷は、限界集落と言われる過疎・高齢化のため社会的な共同生活の維持が困難な土地だった。優は、村の人たちと交流するうちに、集落の農業経営を担うことになった。現代の農業や地方集落が抱える様々な課題、抵抗勢力と格闘し、限界集落を再生しようとするのだが……。
 集落の消滅を憂う父親と娘、田舎に逃げてきた若者。かつての負け組が立ち上がる! 過疎・高齢化・雇用問題・食糧自給率、日本に山積する社会不安を一掃する逆転満塁ホームランの地域活性エンタテインメント。
 一世代前の人々は、身近な野菜ならば普通に栽培できていた。それが今はと言えば、観葉植物さえ枯らしてしまうような有様である。農業はわずかな期間で実に困難な作業へと変貌してしまっている。しかし第一次産業は「生きる」ということの基礎であるはずだ。我々はその「基礎」を急速に失いつつある。本書は従って、生活の基礎へと「回帰」する物語である。今日の農業経営における問題を取り上げつつ、それに対する解決案を提示するという構成で物語は進んで行く。充分に面白いのだが、書きたいことを書きたいあまりに、やや急ぎ過ぎな感がしないでもない。登場人物たちの葛藤や煩悶、そして変化する人間関係をじっくり描けばもっとのめり込めたのかもしれない。
小池真理子
小池真理子『うわさ』★★★(20130809)

光文社文庫1998
“あの人は人殺し”、そんな“うわさ”が立ったから、私はヘルパーを()めざるをえなかった。あのとき、おばあちゃんは、もう死んでいたのよ。仕方(しかた)がないから、いまは静かにしてスーパーでパートやってる。私の楽しみはただひとつ。勝手知(かってし)った元の(やと)(ぬし)の家に忍び込んで……。
 誰のなかにもありそうな心の (ゆが) み。日常生活にある静かな 恐怖(きょうふ) 。ホラーミステリー傑作集。
 1998年の出版であるが、その内容はさらに20年ほど遡ったような印象を受ける。端的に言って古さが否めない。ホラーと言いつつも、実際に怖さを感じるわけではなく、どちらかと言えば純文学作家が多少怪奇がかった物語を書きました、的な印象である。
古処こどころ誠二
古処誠二『フラグメント』★★★★(20120727)

新潮文庫2005
 あれは事故死なんかじゃない。親友の死に同級生・相良優は不審を抱く。城戸ら不良グループが関与しているはずだ、と。葬儀当日──担任教師の車で、相良・城戸を含む同級生6名が式場へ向う途中、大地震が発生! 一行は崩落した地下駐車場に閉じこめられてしまう。密室化した暗闇、やがて見つかる城戸の死体……。極限状況下の高校生たちに何が起きたのか? 『少年たちの密室』改題。
 地震という舞台設定から何から、石黒耀『震災列島』とそっくりな設定に驚く。ただしこちらの地震は密室状況を作り出すための設定に過ぎず、地震そのものの描写は皆無である。その点、地震に関する蘊蓄が披露されながら、単なる復讐劇に終わってしまう『震災列島』よりは思い切りがよいと言えるだろう。内容は本格的な推理小説。女生徒二人の描写に欠ける点、出来事の説明がやや分かりにくい点が難ではあるが、それを除けば水準以上。ただし、こうした事件の顛末は、すでに東野圭吾『同級生』などで書き尽くされた感があり、新味には欠ける。
小林泰三
小林泰三『目を擦る女』★★★(20151004)

ハヤカワ文庫2003
 「わたしが目を覚まさないように気をつけて」隣室に棲む土気色の肌の女は言った。指の付け根で目を擦りながら──この世界すべてを夢見ているという女の恐怖を描いた表題作、物理的に実行不可能な密室殺人を解明する驚天動地の推理劇「超限探偵Σ」、無数の算盤計算によって構築された仮想世界の陥穽「あらかじめ決定されている明日」ほか、冷徹な論理と呪われた奇想が時空間に仕掛ける邪悪な7つの罠。文庫オリジナル作品集
 細かい説明や描写をほとんどせず、いきなり読者の眼前に投げ出される人物と、その人物の住む世界を特徴とする短篇集。小松左京や半村良の初期の短編を想起させる、どちらかと言えば懐かしい味わいを持つ佳作集であるだろう。
小林泰三『海を見る人』★★★★(20130212)

ハヤカワ文庫2005
 「あの年の夏祭りの夜、浜から来た少女カムロミと恋に落ちたわたしは、1年後の再会というあまりにも儚い約束を交わしました。なぜなら浜の1年は、こちらの100年にあたるのですから」──場所によって時間の進行が異なる世界での哀しくも奇妙な恋を描いた表題作、円筒形世界を旅する少年の成長物語「時計の中のレンズ」など、冷徹な論理と奔放な想像力が生みだした驚愕の異世界七景。SF短編の名手による珠玉の傑作集
 不思議な世界で暮らす、不思議な人々の物語。ただしここでいう「人々」とは、哺乳類ヒト科という生物学的な意味ではない。ある時は仮想世界の住人であり、ある時は自動探査船のことである。すなわち意識を持ち、行動する「われわれ」である。そうした人々が、これもまたある時は砂時計のような世界で、ある時は宇宙船内で、そしてある時は中性子星で紡ぎ出す冒険の物語。かなりの物理学的・天文学などの知識が要求されるが、それさえクリアすればとてつもない世界の様相が浮かび上がる名作集。表題作以外ではあの『MATRIX』めいた世界が舞台のミステリー「キャッシュ」、そして童話のような語り口が違和感を醸し出す「母と子と渦を旋る冒険」が優れている。
小林泰三『セピア色の凄惨』★★★★(20120706)

光文社文庫2010
「親友を探してほしい」。探偵は、古ぼけた四枚の写真を手がかりに、一人の女性の行方(ゆくえ)を追い始める。写真に一緒に写っている人々を訪ねていくが、彼らの人生は、あまりにも(ねじ)くれた奇妙なものだった。病的な怠惰(たいだ)ゆえに、家族を破滅させてゆく女。極度の心配性から、おぞましい実験を繰り返す女……。求める女性はどこに? 強烈なビジョンが渦巻く、悪夢のような連作集。
 ある種の性格は、度が過ぎれば「異常」である。では「異常」と「正常」の境界はどこにあるのか? そもそも「正常」とはどのような状態を指すのか? 心理学や精神医学が図らずもその存在において露呈したように、「正常」は自律的な定義として存在しているわけではない。従って「正常でないこと」が「異常」なのではない。むしろ「異常ではないこと」を取り去った余りが、かろうじて「正常」とされているだけである。ネガティブな決定。それゆえこの物語に描かれた四人の人物は、誰にでもあるある種の性向をデフォルメしたに過ぎないのだが、そうであるがゆえに面白いのである。ただ、ラストのオチはそうとしか持って行きようがないものであり、それだけにあらかじめ読めているのが難点。
小松左京
小松左京『地には平和を』★★★(20110731)

角川文庫1980
 その年の(、、、、)10()()にはいると、ソ連軍は敦賀(つるが)に、アメリカ軍は四日市(よっかいち)に大上陸作戦を展開した。あの戦争(、、、、)で無条件降伏したはずの日本が本土決戦をしているのだ。18歳までの男子で本土防衛特別隊が組織されたがほとんど全滅、いまや、山奥の百姓までもが敵に通じている。俺は敵弾をあび、瀕死(ひんし)の重傷だ。その時、Tマン(、、、)と名のる男が現われ、――あと5時間でこの世界は消滅する。歴史を正しい方向にもどさなければ、とわけのわからないことをいい、俺をどうしてもこの世界(、、、、)から救いだしたいという。
 あの世界で狂ってしまった優秀な男が、5000年の時空を超えて日本の歴史の変革を(はか)る、著者初期作品の傑作!
 収録作品は表題作「地には平和を」、「日本売ります」、そしてショート・ショート集である「ある生き物の記録」。「地には平和を」は時間改変テーマの中編で、今となっては目新しいものでも独特な個性が光るものでもない凡作。「日本売ります」は土地売買という、冷静に考えれば実に不思議な商品の性格を逆手に取った、アイロニーに富む傑作。そして「ある生き物の記録」は、読み慣れたものには落ちが読めるが、肩の凝らないショート・ショート集。総じて「これぞ小松左京だ」という作品集ではないのは確かであるだろう。
小松左京『猫の首』★★(20130228)

集英社文庫1980
珍無類、抱腹絶倒ナンセンス。駄洒落、脱線、落し穴、知的遊戯のパロディ篇。奇妙奇天烈、急転直下、鳥肌立つような大パニック。摩訶不思議、奇妙な事件のオンパレード。万物の霊長たる人類から地球上の支配権を奪った怪物が跋扈する未来の暗黒世界を描く表題作など八篇。単行本・文庫に未収録の完全オリジナル版。著者年譜附。
 「日本脱出」「拾われた男」「女のような悪魔」「異次元結婚」「Mは2度泣く」「出来てしまった機械」「猫の首」「大阪の穴」の八編、昭和39年から44年にかけて雑誌に掲載された作品が収録された短編集。確かに駄洒落などのワン・アイデアによって書かれた作品群という印象である。そしてそのアイデアは、今日の視点からすればもはや古色蒼然たるものであり、小松左京の神髄が捉えられるものでもない。かつて著者がラジオ番組などのシナリオを書いていたという事情もおそらくは影響しているのだろうが、言葉遣いが当時のトレンドを敏感に反映したものである(のだろう)だけに、文体そのものがかなり古臭い印象を受ける。流行語を取り入れると、その時点では新しいのだが、流行が去った後にはむしろ平凡な文体よりも古びて見える、というのは今回の発見である。
小松左京『日本沈没(上)/(下)』★★★★★(20100920)

徳間文庫1983(小学館文庫2005)
 小笠原諸島の北にある小島が一夜にして沈んだ。潜水艦の操縦士・小野寺は調査団を乗せて日本海溝に潜った。8000メートルの海底に得体の知れぬ異変を目撃した。地球物理学者の田所博士は「最悪の場合、日本列島は海面下に沈む」と警告したが、学者仲間の失笑を買うばかりだった。
 だが伊豆火山群噴火、つづいて富士火山帯も不気味な活動を始めていた──科学理論をもとに描く畢生の巨大パニック小説。(徳間文庫版上巻)

 田所博士の警告は不幸にして的中していった。大地震と大噴火は日本列島の地表を無惨に引き裂いた。小野寺は富士爆発で恋人を失ったが、ヘリで避難者救出に奔走していた。首相は政治生命を賭して、国の重要資産と国民の救出を諸外国に要請した。
 だが、1億1千万人の海外移住は可能か、国土を失った日本人は“さまよえる民族”の運命を辿るのか──火山山脈を抱えた日本の宿命を世に問う一大パニック小説!(徳間文庫版下巻)
 西村寿行『蒼茫の大地、滅ぶ』及び『滅びの笛』、石黒耀『死都日本』など、一連の“天変地異もの”の嚆矢にして原点となる作品。それにしてもスケールが違う。何しろ日本が沈むのである上に、その地球物理学的裏づけにも説得力がある。その上、政治のみならず文化や外交への気配りも欠かさない上に、全体として一つの「日本人論」としても読める内容には敬服するしかない。この作品に触発されて筒井康隆のパロディ短編「日本以外全部沈没」が書かれたことも有名。と同時に、実はこの作品、最後に〔第一部 完〕となっているのである。祖国を失った日本人の流浪を描く〔第二部〕が谷甲州との共作で2006年に発表された。
小松左京+谷甲州『日本沈没 第二部』★★★★★(20100920)

小学館2006(小学館文庫2008)
 〈ある日突然、彼らは帰るべき故郷を失った。個人的な財産ばかりでなく、愛すべき家族をなくしたものも多かった。身ひとつで放りだされ、難民となって世界各地に散っていった。
 だが国土は失われても、日本人の多くは生き残っている。膨大な数の犠牲者を出したものの、その後は着実に人口を増やしつつあった。いまでは世界各地に居住する日本国籍保有者は、一億人を大きく超えていた。〉
(「第一章 慰霊祭」)
 谷甲州との合作による待望の「第二部」である。日本が沈没して二十五年後の「現在」から物語は始まる。前作を読んでいれば、冒頭の「慰霊祭」の場面において、もはやなくなってしまった「日本」の風土文化が「懐かしい」という気持ちになるはずである。現実には日本は沈んでなどいず、他ならぬその日本の地において日本語で読んでいるにも関わらず、眩暈にも似たそのような錯覚を感じさせるほどの濃密さに溢れている。また、これも早い段階で登場する、ニューギニアの奥地で焼き魚や麦茶で饗される食事のシーンに感動できるならば、それだけでこの本を手にした価値があるというものだろう。そして、中盤から展開される「メガフロート計画」においては前作に負けないスケールの物語を構想するとすればおそらくは“そうする”しかないものであり、それが実現する最終的な結末を予測して密かに興奮したのだが、その予測はあっさりと裏切られる。その裏切り方も、前作をより今作に緊密に結びつけようとした結果であり、十分納得できるものである。加えて最後の最後でより壮大な「メガフロート計画」がさりげなく添えられているあたりも、ただただ唸るしかない。ナショナリズムに堕すことなく、むしろナショナリズムを痛烈に皮肉る構成も評価できる。「第三部」を予感させる結末に期待する。
小峰元
小峰元『アルキメデスは手を汚さない』★★★(20101010)

講談社文庫2006
「アルキメデス」という不可解な言葉だけを残して、女子高生・美雪は絶命。さらにクラスメートが教室で毒殺未遂に倒れ、行方不明者も出て、学内は騒然! 大人たちも巻き込んだミステリアスな事件の真相は? '70年代の学園を舞台に、若者の友情と反抗を描く伝説の青春ミステリー。江戸川乱歩賞受賞作
 発端の状況設定は法月綸太郎『頼子のために』に酷似する。だがこちらは視点が次々と多様な人物の上に移動し、そしていつの間にか当初の謎が片隅に追いやられ、むしろ尻すぼみな解決へと収束してしまう感が否めない。一見、70年代当時の風俗が丹念に描き込まれているかのように見えるが、それも言葉遣いなどに見られるだけであって、その行動倫理や思考様式と噛み合わない気がする。それゆえに頻出する当時の流行語や言葉遣いが浮いてしまって読む方が恥ずかしいし、全体的な印象として古くさい。有名な古典ではあるのだが、「かつて売れた」という歴史的な評価しかできないだろう。

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