【評価段階】
★★★★★──傑作。
★★★★───秀作。
★★★────凡作。
★★─────駄作。
★──────困作。

【は】
服部真澄
服部真澄『エル・ドラド(上)/(下)』★★★★★(20130319)

新潮文庫2006
 食料の生産と流通を寡占し、世界的大産業に成長した「アグリビジネス」。彼らの次の狙いは新種のGMO(遺伝子組み換え作物)を駆使し、食料のみならず地球のあらゆる生態系を支配することだ──。アグリビジネスの陰謀を暴く現行の一部を遺して消息を絶った、天才科学ジャーナリスト、レックス・ウォルシュ。翻訳家の蓮尾一生は、彼の足跡を追って南米ボリヴィアへ飛ぶ。『GMO』改題。(上巻)
 密林の奥に開発されたワイナリー。コカインの原料作物「コカノキ」に蔓延する病害。行方不明となった何人ものサイエンティスト。ボリヴィアの奥地で進行する極秘プロジェクトに迫る蓮尾一生は、ついに驚愕の真実に直面する。人間が神に逆らって創造したGMO(遺伝子組み換え作物)がもたらす大いなる災厄を予見し、地球の未来に警鐘を鳴らす、超弩級国際サスペンス。『GMO』改題。(下巻)
 遺伝子組み換えという手法に秘められた可能性と問題点を鋭く着いた傑作。GMO(遺伝子組み換え作物)が、食用作物に適用されることも問題だが、食用以外の作物に使用されることも問題である上に、さらには他の生物にまで応用されることで予見される危険性を、地に足の着いた視線で描写する過程がこの作品の真骨頂だろう。おそらく凡百の作品ならば、例えばモンスターホラーものとして安直に描いてしまうに違いない。そうではなく、大企業における利益追求の論理と国家における安全保障に絡めた点が、いかにも現実的で実際にありそうな、もしくはすでにそのようなことが進行していそうなひしひしとした怖さがある。GMOが是か非か、安直なエコロジーに堕することなく描く姿勢にも好感が持てる。読みようによってはこれは単なる小説ではなく、十分に優秀なジャーナリズムであるだろう。さらにその結末が二転三転する様にも圧倒される。
帚木蓬生(ははきぎほうせい)
帚木蓬生『三たびの海峡』★★★★★(20101231)

新潮文庫1992
「一度目」は戦時下の強制連行だった。朝鮮から九州の炭鉱に送られた私は、口では言えぬ暴力と辱めを受け続けた。「二度目」は愛する日本女性との祖国への旅。地獄を後にした二人はささやかな幸福を噛みしめたのだが……。戦後半世紀を経た今、私は「三度目の海峡」を越えねばならなかった。“海峡”を渡り、強く成長する男の姿と、日韓史の深部を誠実に重ねて描く山本賞作家の本格長編。

 帚木蓬生は歴史物が面白い。一体何処で仕入れてくるのか見当もつかない細かい歴史的ディテールとエピソードにより、物語は俄然迫真性を帯び、そして訴求力を持つ。例えば司馬遼太郎が「表の歴史」を描いたとするならば、帚木が記すのは「庶民の歴史」である。正統な歴史学者に対する民俗学者。正統な歴史学者に対するアナール学派。大所高所から出来事を語るのではなく、名もなき一般の人々が権力の恣意性に翻弄される様子を通じて権力の横暴を語る。「歴史」という手によっては掬いきれないもの。それを帚木は描いている。
帚木蓬生『逃亡(上)/(下)』★★★★★(20101221)

新潮文庫1997
1945年8月15日、日本敗戦。国内外の日本人全ての運命が大きく変わろうとしていた――。香港で諜報活動に従事していた憲兵隊の守田軍曹は、戦後次第に反日感情を増す香港に身の危険を感じ、離隊を決意する。本名も身分も隠し、憲兵狩りに怯えつつ、命からがらの帰国。しかし彼を待っていたのは「戦犯」の烙印だった……。「国家と個人」を問う日本人必読の2000枚。柴田錬三郎賞受賞。(上巻)
敗戦とともに、お国のための「任務」は「犯罪行為」とされた。国家による戦犯追及。妻子とともに過ごす心安らかな日々も長くは続かなかった。守田はふたたび逃亡生活を余儀なくされる。いったい自分は何のために戦ってきたのか。自分は国に裏切られたのか。一方、男の脳裏からは香港憲兵隊時代に英国民間人を拷問、死に至らしめた忌まわしい記憶が片時も離れることはなかったが……。(下巻)
 「戦争」はもはや抽象語である。義務教育において毎年8月6日に語られる「戦争」という言葉に主語はなく、動詞もない。戦争は悲惨であり、多数の「尊い」命が失われる悲しい出来事であり、この世から無くすべきだ、と語られる。戦争はいつの間にか、それ自身が不意に現れては災厄をもたらす「現象」であるかのような語られ方ではないか。しかし当然ながら、この言葉には主語があり、そして主語は常に必ず「国家」である。それゆえ問題なのは、国家が主導した行事として「8月6日の反省」が、その国民に対して――半ば強制的に――なされている、ということである。これは主客転倒以外の何物でもない。国家が国民に対して「戦争はいけない」と訓示を垂れることにどれだけの実効があるのだろうか? いや実効どころか、それは泥棒が一般市民に対して「盗みはいけない」と説教するようないかがわしさがありはしないか? しかしそのいかがわしさは、人命の尊重と平和という空虚な題目の背後に押しやられ続けている。
「責任の所在が曖昧(あいまい)なこの国自体が(うつ)ろな器なのだ」(下巻p502)
 『逃亡』は、国家に従い、やがて国家から逃亡した一憲兵の物語である。その逃亡生活の惨めさ、苦しさを克明かつ執拗に描いてゆくからこそ、最後の一行で――おそらくは初めて――登場する「代名詞」が実に印象的である。
帚木蓬生『受命』★★★★★(20130616)

角川文庫2009
日系ブラジル人の津村は、北京の国際医学会で知り合った北朝鮮の医師に技術を伝えて欲しいと請われ、招聘(しょうへい)医師として平壌(ピョンヤン)産院に赴く。北園舞子は、職場の会長で在日朝鮮人の平山の付き添いとして、万景峰(マンギョンボン)号に乗船する。一方、舞子の友人で韓国人の李寛順(イ・カンスン)は、とある密命を帯びて「北」への密入国を敢行する。三者三様の北朝鮮入国。だが、彼らの運命が交錯する時、世界史を覆す大事件が勃発する。衝撃のサスペンス巨編。
 とにかく大胆な内容に圧倒される。お互いに知り合いである人物たちが個々別々に北朝鮮へ向かう、という発端に御都合主義の臭いがするのだが、それが物語後半で大半解消されていくところに、物語構築の妙があるだろう。ただし「大半」である。本作品は同作者による『受精』の続編という位置づけではあるが、前作との関連は殆ど見出せず、ならば何も同じ人物を登場させての続編とする必要はなかっただろうからだ。とはいえ、スパイ小説張りの謀略が展開する終盤には圧倒される上に、この結末は――およそ「事実」と正反対であるがゆえに――大胆極まりない。
帚木蓬生『聖灰の暗号(上)/(下)』★★★★★(20101231)

新潮文庫2010
歴史学者・須貝彰は、南仏の図書館で世紀の発見をした。異端としてカトリックに憎悪され、十字軍の総攻撃を受けたカタリ派についての古文書を探りあてたのだ。運命的に出会った精神科医クリスチーヌ・サンドルとともに、須貝は、後世に秘かに伝えられた“人間の大罪”を追い始める。構想三十年、時代に翻弄された市井(しせい)の男女を描き続ける作家が全身全霊をこめた、歴史ミステリ。(上巻)
長き眠りから覚めた古文書は、須貝たちの胸を揺さぶった。神を仰ぎ慎ましく暮らしてきた人びとがなぜ、聖職者により、残酷な火刑に処されなければならなかったのか。そして、恋人たちの目前で連続する奇怪な殺人事件。次々と暗号を解いてきた須貝とクリスチーヌの行く手には、闇が(あぎと)を開けていた。遙かな過去、遠きヨーロッパの地から、いま日本人に問いかける、人間という名の難問(アポリア)。(下巻)
 ダン・ブラウン『ダヴィンチ・コード』と手法も材料も類似していながら、それを遥かに凌ぐ傑作。歴史的な発見と探索の「現在」と、発見された手記に記された「過去」の悲劇とが交錯しつつ物語は進行してゆくのだが、100ページに及ぶ「手記」や物語を牽引する「詩」が、実に印象的かつ効果的である。フェルナン・ブローデル、あるいはフィリップ・ピネルなど実在の諸学者達の名も物語の小道具として登場してくるという、粋な演出がなされている上に、フィリップ・アリエスに至っては主人公の指導教官という立場で脇役の位置を割り振られていて、それもまた物語のリアリティに貢献している。
帚木蓬生『水神(上)/(下)』★★★★★(20120617)

新潮文庫2012
目の前を悠然と流れる筑後川。だが台地に住む百姓にその恵みは届かず、人力で愚直に汲み続けるしかない。助左衛門は歳月をかけて地形を足で確かめながら、この大河を堰止め、稲田の渇水に苦しむ村に水を分配する大工事を構想した。その案に、類似した事情を抱える四ヵ村の庄屋たちも同心する。彼ら五庄屋の悲願は、久留米藩と周囲の村々に()れられるのか――。新田次郎文学賞受賞作。(上巻)
ついに工事が始まった。大石を沈めては堰を作り、水路を切りひらいてゆく。百姓たちは汗水を拭う暇もなく働いた。「水が来たぞ」。苦難の果てに叫び声は上がった。子々孫々にまで筑後川の恵みがもたらされた瞬間だ。そして、この大事業は、領民の幸せをひたすらに願った老武士の、命を懸けたある行為なくしては、決して成されなかった。故郷の大地に捧げられた、熱涙溢れる歴史長編。(下巻)
 江戸時代の農村のつましい生活が細かく描写されていて、それだけでも読む価値がある傑作。淡々と書き進めているようでありながら、一ページ目で即座に引き込まれ、読み終えるまで止められないほどの静かな力強さを持つ。  しかし、それほどの面白さを純粋に楽しめないのは残念という他はない。と言うのも、読者はおそらく物語の言葉を現実の状況と引き比べて考えずにはいられないだろうからだ。  
助左衛門は庄屋の重みを知らされる思いがした。人は庄屋を(うらや)むかもしれないが、どこに良さがあるというのか。あるのは、村の百姓すべてを束ねる責任と、それをやりそこねたときの責めばかりではないか。(下巻244)
 このような「重み」を同様に感じている政治家がこの国に果たして存在しているのだろうか? たまたま立候補するほどの資金その他があり、たまたま当選しただけの、政治や経済などに明るいわけでもない、「政治家」というの名の素人老人ばかりがただ単に相手に対する好悪と面子と利権を巡って醜く争う様を政治と言うならばもう政治は要らない、と思いながら読み進めなければならないのはともかく鬱陶しい。
帚木蓬生『日御子(上)/(下)』★★★★★(20141128)

講談社文庫2014
代々、 使驛(しえき) (通訳)を務める〈あずみ〉一族の子・ (しん) は、祖父から、 那国(なこく) が漢に使者を遣わして「金印」を授かったときの話を聞く。超大国・漢の物語に圧倒される一方、金印に「那」ではなく「奴」という字を当てられたことへの無念が胸を () く。それから十七年後、今度は針が、 伊都国(いとこく) の使驛として、漢の都へ出発する。(上巻)
漢へ赴いた (しん) のひ孫の 炎女(えんめ) は、 弥摩大国(やまたいこく) 巫女(みこ) となり、まだ幼い女王の 日御子(ひみこ) に漢字や中国の歴史を教える。成長した日御子が () に朝貢の使者を送るとき、 使驛(しえき) を務めたのは炎女の甥の (ざい) だった。1〜3世紀、日本のあけぼのの時代を、使驛の〈あずみ〉一族9代の歩みを通して描いた超大作。傑作歴史ロマン小説!(下巻)
 タイトルこそ「日御子」であるが、主人公は9代にわたる「使驛」の一族である。それゆえこれは、いわば家族史を通じて描かれた歴史小説である、と言える。その代々の「名付けの法則」がまず素晴らしい。また代々受け継がれてゆく「家訓」を拠り所とした一族の世代交代にも惹き込まれる。中国と日本との、または日本の各国間での、人と人の出会いとその絆を通じて、国家を支える者たちの「理想への歩み」が熱く語られてゆく。歴史的「事実」を大胆に解釈し直した大河物語。いわば帚木流の『太陽の世界』である。
坂東眞砂子
坂東眞砂子かばねの聲』★★★★(20150831)

集英社文庫1999
「惚けてしまったおばあちゃんは生ける屍や。正気のおばあちゃんは死にたがっている」そう信じた少女は溺れる祖母を見殺しにした。そして通夜の席で一瞬、確かに祖母は蘇った――表題作「屍の聲」のほか、5編の恐怖短編を収録。因習としがらみの中で生きる人間たちの、心の闇に巣くう情念の呪縛。濃密な風土を背景に描く、恐怖の原型とは。記憶の底に沈む畏怖の感情を呼び起こす本格ホラー小説集。
 五編を通じての特徴は、舞台がすべて前近代的な因習や迷信の残る田舎であるということと、会話文で使用される主に土佐地方の(一短編については越後地方の)方言である。その二つの要素によって物語はいわば「土の臭いのする」、「じっとりと湿った」装いとなっている。「背筋が凍るほどに」怖い、というのではなく、「陰鬱で鬱陶しい」、そのような五つの物語である。
半村良
半村良『闇の中の系図』★★★★★(20100517)

角川文庫1979(河出文庫2008)
 天才的な嘘つき浅辺宏一あさべこういちは、味けない工員暮らしの毎日からのがれるために、次々とくり出す嘘で自分を飾っていた。
 ある日、そんな彼の才能を必要とする秘密組織があらわれた。それは古代より日本の歴史を陰からあやつる謎の一族“嘘部うそべ”の集団〈黒虹会こくこうかい〉だった。そして彼も又闇の中につづく血筋の一人であることを知らされた……。
──現代によみがえった“嘘部”の活動が開始され、日本の永続的繁栄を目指した雄大な嘘が、いまや国際的なスケールで展開されていった。
 日本の歴史と政治の暗部にするどく切りこんだ、著者会心の嘘部シリーズ第1弾!
 古代日本には、嘘を専門とする職能集団「嘘部」がいた、という、それこそ大嘘から始まる伝奇ロマン。おそらく半村良の伝奇小説の中でももっとも破天荒かつ爽快な一冊だろう。嘘つきの天才である主人公が、やがて国家的規模の嘘を指揮することになるラストまで息をもつかせぬ怒濤の展開。
半村良『闇の中の黄金』★★★(20130511)

角川文庫1979(河出文庫2009)
 〈嘘だ! 彼が自分から死を選ぶなんて〉 邪馬台(やまたい)国を取材中、親友の自殺を知らされた津野田(つのだ)は、その原因を探るべく調査を開始した。そして死の直前、彼も又、邪馬台国のありかを追って国東(くにさき)半島を訪れていたのを知った。
 国東に向かった津野田は、そこで見た世界の金市場を牛耳る黄金商人の集まりで、日本歴史の中に隠された重大な秘密に気づいた。
 邪馬台国の秘密につながる莫大な黄金の夢を取り巻く人々と、背後に暗躍する“嘘部(うそべ)”一族。
 古代より、日本歴史を陰から動かす謎の一族嘘部の活動を雄大な構想で描くシリーズ第二弾。
 『闇の中の系図』を一般の視点から描いた第二弾は、「騙す」過程が殆ど描かれていない点で迫力に欠ける。邪馬台国の謎を追う、という発端は良いものの、何ゆえに邪馬台国か、なぜ国東なのか、そしてなぜそれが「黄金」であるのか、それぞれの小道具の連環が今一つ説得力に欠けるのも減点部分。
半村良『闇の中の哄笑』★★★★(20130511)

角川文庫1979(ハルキ文庫1998)
 エリート中のエリートだけが宿泊を許される伊東の名門ホテル。そこに日本の政財界を動かす三人の男達が顔をそろえていた。偶然をよそおった出会いだったが、裏側には権力への激しい執念がどす黒い渦を巻いていた。
 “汚れきった”保守政権は、いまや国民に見放されている。思い切った犠牲羊(スケープゴート)をささげ、大衆の信頼を回復しなければ、現体制と我々は破滅だ。
 晴れわたった空の下、まばゆいグリーンでは、優雅なプレイとは裏腹に、恐ろしい策略が展開されていた。
 知恵と策略が火花を散らして斬りむすぶ時、嘘部(うそべ)末裔(まつえい)、“黒虹会(こくこうかい)”が日本の将来を賭けた大作戦を開始する。
 世界規模の「嘘」を構想した前作に比べれば、スケールが小さくなったのは否めない。また、政治家(という名の金と権力の亡者)たちや、実業家(という名の俗人)たちの正直うんざりする「腹芸」を延々と読まされるのには閉口する。とは言え、とある人物の謎を巡って「嘘部」自身が振り回されるさまはある意味痛快であるし、ラストで得られる「達観」もまた素晴らしい。
半村良『太陽の世界1 聖双生児』★★★★★(20141203)

角川書店1980
 かつて、南太平洋には巨大な大陸が存在していた。それはムーと呼ばれていた。
 そこには、現代に生きる我々でさえ想像を絶するほど高度に完成された一大文明が栄えていた。
 だがある日、広大で 肥沃(ひよく) な土地に住み完成された国家を持ち、平和な日々を送るムーの人々を、突然の災厄がおそった。
 大地震、大洪水、そして火山の爆発があいつぎ、そこに栄えたあらゆるものを跡かたもなく海中に没し去ってしまったのだった。
 ムー大陸のおもかげを伝えるものはいまや何ひとつ存在しない――。
 SF界の鬼才半村良が完結まで80巻を予定し、 渾身(こんしん) の筆をとる『太陽の世界』は、失われた大陸・ムーの誕生から滅亡に至る2000年の間に生きた80世代にわたる人々の歴史と人生を描く壮大な大河小説である。
 あらかじめ80巻で完成すると宣言した上で書き始められた『太陽の世界』は、矢継ぎ早に18巻まで発表された後に中断された。しかも続刊はついに書かれぬままに半村良が没したため、未完の大作となってしまった。80巻に比して18巻であり、そもそも4分の1にも達していないのだから、「未完の」という言葉さえ使うのには気が引ける巻数ではある。とはいえ18巻であるから、かなりの大部ではあるわけだ。そしてこれが抜群に面白いのである。単純のファンタジーに堕すことなく、それどころか出発点を狩猟採集の時代に設定した上で、800人の民族大移動から始める。造語も独特で、雰囲気作りも徹底している。たとえばこのように。
「密林には食べられる 木の実(クリ) もあろうし、 (チカ) も多かろう。飲む水もある」(p10)
(シマ) を下ろう、 密林(マヨン) のほとりで憩おう」
(ウナ) 」(p13)
 読み進めていくうちに、その独特の言語形式の魔力に搦め取られ、一切の違和感が消えるとともに、その世界が実に生き生きとした姿で立ち現われてくるのである。未完ではあるにせよ、読んで損はない作品。
 なお、この半村良の80巻宣言を受けて、栗本薫が『グイン・サーガ』100巻宣言をしたのも有名な話である。『グイン・サーガ』は100巻を越えて書き続けられたのだが、こちらも完結を見ないまま作者が没した。しかしこちらはグイン・サーガ・プロジェクトと称し、幾人かの作家によって続編が書き続けられている。『太陽の世界』においてもそうしたプロジェクトが立ち上げられて欲しいものである。  因みに副題にある「聖双生児」はこの巻には登場しない。
半村良『太陽の世界2 牛人の結婚』★★★★★(20141205)

角川書店1981
 かつて南太平洋に存在し、想像を絶する一大文明を発達させ、そして突如海中に没し去ったといわれる謎の巨大大陸“ムー”。そこにくりひろげられた2000年の歴史を壮大なスケールで描く大河ロマン待望の第2巻!
 アム族と〈超能力集団〉モアイ族は、神が定めた聖なる大地“ラ・ムー”をめざし、果てしのない旅を続けていた。
 その彼らの前に、絶大な武力を誇るキルク族が立ちはだかった。キルク族は、念じるだけで巨石をも動かすモアイ族の恐るべき力に目をつけ、奴隷に差し出せという。拒絶するなら、力づくでも奪いとると――。
 だがアム族は、神の (おきて) によって闘争を禁じられていたのだ。
 この難関を乗り越える方法はあるのだろうか?
 第2巻で、「予言」が語られ、伏線が張られて行く。と同時に、「ラ」なる神を柱とする信仰も徐々に厚みを増して行く。他部族からの合流者がいる一方、「聖双生児」が誕生する。この2巻において、物語は既に十分な加速度を得て、一気に前進し始める。
半村良『太陽の世界3 飛舟の群れ』★★★★★(20141205)

角川書店1981
 いったい誰が信じられるだろうか。人類の歴史が始まるよりはるか以前、南太平洋に、現代文明をしのぐ一大文明が発達していたと――。その名は“ムー”。
 神が定めた聖なる地“ラ・ムー”をめざすアム族と〈超能力集団〉モアイ族は念力で空を飛ぶ草舟を作り、果てしのない旅を続けていた。
 だがある日、彼らはその狂暴さで周辺部族に恐れられる戦闘的なコロ族と遭遇し、戦いが開始された。空中から攻撃をしかけるアム・モアイの連合軍は、圧倒的な勝利を収め、鳥人の神とあがめられるようになっていったが……。
 3巻に至って、驚くべきことに作者は言語まで体系化しようとし始める。
 ちなみに、アムの言葉ではひとつの単語を繰り返すと全く別のことをあらわすという法則があった。スイはよい兆しを意味し、その反対の言葉として凶兆を意味するヒソがある。だが、ヒソを重ねてヒソヒソとすると、それは 昆虫(こんちゅう) 蜘蛛(くも) を意味する言葉となる。蜘蛛の巣の張り具合からアムの人々は翌日の天気を (うらな) っているからだが、単語を重ねて用いた場合には元の単語の意味するものより、アムの価値観から見て数等下格のものをあらわすのが普通なのだ。(p100)
 そしてこれは1巻に既に見られていたことだが、自然の植生をも創造しているのだ。狙っているのはトールキンの『指輪物語』だろうか。ここに至って気づくのは、この物語は良質なエスノグラフィーとしても読めるのではないか、ということだ。ともかく、初めて読んでから相当の時間が経過しているのにも関わらず、副題をごく自然に「キマダの群れ」と読んでいた自分に驚く。
半村良『太陽の世界4 神々の到来』★★★★★(20141215)

角川書店1981
 強大な力を持つ部族イムトの戦士たちが、少数部族ヌクトの村を急襲した。原因はヌクトが近くの浜からこっそり採集していた、白く美しい真珠にあった。その真珠をあらいざらい掠奪してしまおうというのだ。だが、そのありかを白状しないヌクトに、戦士たちが殺りくの刃をふるおうとした寸前「武器を手に平和を乱す者、立ち去れ」と、天からの声があがった。
 聖なる地〈ラ・ムー〉を目ざし、放浪の旅を続けるアム族が、モアイ族の念力によって空を飛ぶ草舟で現われたのだ。
 危機を救い、神とあがめられる彼らはヌクトの住む浜こそ〈ラ・ムー〉にちがいないと、国家建設の第一歩を踏み出した。
 南太平洋に超大文明を築いたムー大陸2000年の歴史の幕が、いま開かれたのだ。
 ようやく4巻目にしてアム族が定住を始める。と同時にアム族と他部族社会との異同が寄り詳しく書き込まれていく。その書き込み方を見ると、作者はやはり多少なりとも文化人類学に関する知識があったとしか思えないのである。
 イムトの発展は、昔ながらの血族小集団が次第に結束し、それぞれが (クラ) として一つの単位となり、大きく統合されたことによって果たされたのだ。 (クラ) ごとに長老がいるが、それはかつての族長たちである。戦士はかつての戦士長であった。その長老たちのあいだから (ルガル) が選ばれ、神ディンギルの祭祀をつかさどっている。(p73)
 一見何気ない記述であり、この程度ならば歴史学の知識があれば書けそうに思える。ところが血族集団を「クラ」と表現するのは正しく文化人類学の用語である。正確には、「リネージ」が具体的に出自を辿れる血族集団を言い、「クラン」は祖先を共有する(と信じられている)集団のことを指す。このような知識がなければ上記組織に「クラ」というルビは振れないだろうと考える。その上でその「クラ」の機能不全という事態を描くのであるから、読む側としてはただただ敬服するしかない。
半村良『太陽の世界5 天と地の掟』★★★★★(20141215)

角川書店1982
 長い放浪のすえ、アム族と〈超能力集団〉モアイ族は、神が定めた聖なる地“ラ・ムー”に到達した。家が、集会場が、聖宮殿が建設され、近隣の部族との交易も行なわれるようになった。苦難の時の後に、やっと平和な時がおとずれたようにみえた。
 だが、そうした彼らに激しい敵対心を燃やす者もあった。戦闘的な部族イムトがそれだった。しかし、空飛ぶ草舟をあやつるアム族とモアイ族に武力ではかなわぬと思ったイムトは、せめてもの腹いせに、モアイの少女をさらって姿を消した。アム族に救われたヌクトの少年ローロはただ一人、少女救出のためそのあとを追って、果てのない旅に立っていった。
 定住を機会に、大陸の地形的な詳細が記述されていくのがこの巻である。それと同時に、実に印象的な言葉が登場する。
(カム) 言葉(フタ) なり。 (カム) (ナム) なり」(p39)
 神はただ単に名のみの存在である。つまり神とは、言葉に過ぎないものであるという理解が、登場人物の口を借りて語られる。つまり驚くべきことに、この手のファンタジーにおいては定石である「神の実在」が、他ならぬ登場人物によって拒否されているのである。
 さらに加えて、「物語の記述者」の存在が明らかにされるのもこの巻である。そしてその記述者はどうやらムーから2000年後の現在にいて、資料の整合性を検討しているらしいことも書かれてゆく。一方で物語そのものも、世代交代の時期を迎える。つまりこの五巻から、半村流の「真の歴史ファンタジー」が幕を開けると言えるだろう。
半村良『太陽の世界6 英雄の帰還』★★★★★(20141215)

角川書店1982
 奇怪な様相を見せそびえ立つペトラ山に集まり、結束を固める秘密結社“マカリ”。その中に、イムトの残党に誘拐されたモアイの少女を捜し出す旅に出た少年ローロの姿があった。
 彼は旅の途中に出会ったマカリの長老に武芸の奥義を教えこまれ、いまやかなう敵のない腕前を持つ、逞しい青年に成長していた。
 だが“マカリ”の存亡をかけて敵対する一大勢力があった。周辺部族を屈服させ、収奪の限りをつくす 綺羅王(オレオト) の軍勢がそれであった。
 圧政に苦しむ人々を助けるため、七人一組となってのゲリラ戦法を展開するマカリ。その先頭に立つローロ。
 しかし、強力な軍列で押し寄せる 綺羅王(オレオト) の後には、不思議な呪術をあやつる巫女の姿があった。
 『指輪物語 王の帰還』を彷彿とさせるサブタイトルの6巻である。その上物語において、主人公は王となって帰還するのだ。地理的、歴史的な考証はより詳細になり(とはいえその考証すらが架空のものであるのだが)、その上大規模な戦闘と英雄の胸のすくような活躍が描かれ、そして誘拐された娘の救出と英雄の帰還、一族との再会と別れが記述される。物語の白眉となる巻がこの第6巻であり、ここで読み止めても十分味わい深い。
半村良『太陽の世界7 神征紀』★★★★★(20141229)

角川書店1982
 そこは豊かな村であった。木々は生い茂り、人々の心は穏やかで、交易も順調に進み、ますます繁栄していった。
 だが一大事が起きた。村の長老の孫が大鷲にさらわれてしまったのだ。村中が大騒ぎをしている時、レプケという青年が通りかかった。彼は事故の様子を聞くと、宙にむかって念じはじめた。すると不思議にも空の彼方から大鷲が舞い戻り、子供は無傷のまま両親の腕の中に帰ってきた。
 奇蹟を行なったレプケ――彼こそラ・ムーの主導者聖双生児の一人サハムであった。彼は名前を変えて村々を巡遊しながら、アムの将来に備えて情報を集めていたのだ。
 しかし、彼が長老の美しい娘とめぐり会った時、ラ・ムーの運命は大きく変わっていった。
 第7巻は細かいエピソードを積み重ねるという手法でアムのその後と、災厄の前触れを描く。それゆえ7巻単体で評価するならば、掴み所がないという印象は免れ得ない。それも次巻以降への布石を打つ位置づけにあると考えれば頷けるものではある。しかも一方で、1巻から登場していたある重要人物の最期が語られる区切りの巻でもある。
半村良『岬一郎の抵抗(1)/(2)/(3)』★★★★★(20100601)

集英社文庫1990
 岬一郎は東京・下町に住むごく普通のサラリーマンだが、彼の体内では不思議な力が成長していた。一方、町内では犬や猫が連続死する異常事態が発生。公害とみた町内有志は都庁に陳情、岬も同道する。ところが、のらりくらりと応対する環境整備局課長が、有志たちの前で突然死した。そして第二の突然死が……。(一巻)
 町内の足の悪い子供を、掌でさわるだけで治した岬一郎。全国から病気に悩む患者たちがおしかけ、彼の超能力は一躍マスコミの話題になり、メキシコ大地震にも出かけて復旧に協力、世界的に有名になる。しかし、その超能力を恐れるあまり、日本の、そして世界の国家権力が介入しはじめた……。(二巻)
 国家権力の介入によって、岬一郎を応援していた町内の人々の心が離れはじめた。確固とした信念のもと、日本政府の呼び出しに応じない岬一郎。最後の理解者で元雑誌編集者の野口志郎とともに、彼は孤独に追いつめられていく……。「日本SF大賞」受賞の著者渾身の力作大長編。(三巻)
 これはとある神の物語である。現代世界にもしも神が現れたなら、人々はどう反応するか、メディアはどのように扱うか、国家はどのように神を遇するのか、ということについてのシミュレーションである。そして、神は現代には存在する場所を持たない、より正確には、国家という体制は、神という性質を決して受け容れない、ということが説得力ある筆致で綴られる。既に「神は死んだ」のであり、そしてもはや神は生まれてきてはならないのである。その神が、下町で暮らす物静かな青年であり、超能力を持って以後もひっそりと貧しく暮らすからこそ、神の存在を許さぬ国家との対比が苛烈でしみじみと心を打つ。下町に現れた孤独な神の物語。伝奇小説の名手であり、下町人情物語の手練れである半村良の一つの到達点。
半村良『平家伝説』★★★★(20150903)

ハルキ文庫1998
高村家のお抱え運転手・浜田五郎はある日、近所の銭湯の主人から、自分の右肩にある大きな痣が“なげき鳥”と呼ばれることを教えられる。――嘆き鳥、それは壇ノ浦の合戦に敗れた平時忠たいらのときただを能登の配所へ導いたという鳥の名であった。以来時忠の財宝のありかを示す地図として、嘆き鳥の痣が人の肌に伝えられてきたというのだ。五郎とその恋人・敏子との奇妙な愛情を軸に宝探しが始まるのだったが……。傑作伝奇ロマン。 (解説・大森望)
 半村良の一連の伝奇作品は、冒頭の日常性を徐々に非日常へ滑り込ませる手管が素晴らしい。解説の大森望は「宮部みゆきのようにはじまり、菊地秀行のように終わる」と表現しているが、言い得て妙である。その手腕が遺憾なく発揮された作品。身分違いの恋愛の機微を描きつつ、それがいつの間にか平家に纏わる伝説、三種の神器に関わる謎と絡まり合い、やがてそちらが主になって行く。この壮大な大風呂敷を果たしてどのように畳むのか、それが見物なのだが、わずか二十ページであっという間に結末へ持って行ってしまう。そのための伏線も密かに引いてあるから驚きである。ただ、その結末に納得するかどうかでは意見が分かれるだろう。
東野圭吾
東野圭吾『卒業 雪月花殺人ゲーム』★★★(20100428)

講談社文庫1989
七人の大学四年生が秋を迎え、就職、恋愛に忙しい季節。ある日、祥子が自室で死んだ。部屋は密室、自殺か、他殺か? 心やさしき大学生名探偵・加賀恭一郎は、祥子が残した日記を手掛りに死の謎を追求する。しかし、第二の事件はさらに異常なものだった。茶道の作法の中に秘められた殺人ゲームの真相は!?
 加賀恭一郎が登場する最も初期の作品であり、大学生時代を描く物語。多様なエピソードを盛り込んではいるが、肝心の加賀恭一郎自身の「顔」が見えないのはそれらのエピソードやキャラクター同士の絡みが有機的に生かされていないが故だろうか。また、これも初期作品であるだけに、動機も犯罪トリックも「作った」感が否めないし、あちこちに綻びがあるのは明らかである。
ただ、物語に漂う陰鬱さは独特であって、特に冒頭の会話と結末の会話との対比は後の作品群を連想させて鮮やかとは言える。
尚、副題であった「雪月花殺人ゲーム」が現在の文庫版では省略されている。
東野圭吾『魔球』★★★★(20100503)

講談社文庫1991
 九回裏二死満塁、春の選抜高校野球大会、開陽高校のエース須田武志は、最後に揺れて落ちる“魔球”を投げた! すべてはこの一球に込められていた……捕手北岡明は大会後まもなく、愛犬と共に刺殺体で発見された。野球部の部員たちは疑心暗鬼に駆られた高校生活最後の暗転と永遠の純情を描いた青春推理。
 そうせざるをえない事情に追い込まれた「善人」による犯罪を描いた佳作。複雑な生い立ちを持つストイックな天才投手に「救い」は果たしてあったのか? 時代を昭和30年代に設定したからこそ終章の最後の「日記」が生きる。それはともかく、「永遠の純情を描いた青春推理」という表現は違うだろう。これを真に受けて読むと内容の重さに耐えられない。
東野圭吾『十字屋敷のピエロ』★★★(20150910)

講談社文庫1992
ぼくはピエロの人形だ。人形だから動けない。しゃべることもできない。殺人者は安心してぼくの前で凶行を繰り返す。もし、そのぼくが読者のあなたにだけ、目撃したことを語れるならば……しかもドンデン返しがあって真犯人がいる。前代未聞の仕掛けで推理読者に挑戦する気鋭の乱歩賞作家の新感覚ミステリー。
 屋敷の構造が特異であり、そしてその平面図が掲げられているからには、その構造自体にトリックが隠されていることは一目瞭然である。その上、トリックの仕掛けもどこかで見たような内容であって、新しさが感じられない。ということは、慣れた読者なら屋敷の平面図を見ただけで仕掛けを見抜くことができる、ということだ。「ピエロだけが見ていた」というと斬新な趣向のように思えるが、しかしこれははっきりとした主語を持たずに語られる「地の文」の主語を単純にピエロに置き換えただけのもので、その記述に何らかのヒントが隠されているわけでもないのである。それゆえ敢えて読むべき作品ではない。
東野圭吾『眠りの森』★★★★★(20160903)

講談社文庫1992
美貌のバレリーナが男を殺したのは、ほんとうに正当防衛だったのか? 完璧な踊りを求めて一途にけいこに励む高柳バレエ団のプリマたち。美女たちの世界に迷い込んだ男は死体になっていた。若き敏腕刑事・加賀恭一郎かがきょういちろうは浅岡未緒みおに魅かれ、事件の真相に肉迫する。華やかな舞台の裏の哀しいダンサーの悲恋物語。
 ここでは、トリックそのものが重要なのではない。と言うよりも、トリックは海外の、とある古典的な作品の応用でしかない(そのことは本編中でもそれとなく示唆されている)。しかも複数の事件は、最終的には一点へ収束しない。それゆえに「本格」という形容詞がこの物語においては使えないのである。むしろ中心になっているのは人間関係であり、そしてそれら人間関係の間に横たわるある種の「哀しみ」である。それは主人公である加賀恭一郎をも侵蝕するのだが、果たして結末で明かされる加賀の思いに、作者は後の作品で決着を付けたのだろうか?
東野圭吾『分身』★★★★★(20150314)

集英社1993
 母の私に対する愛は、常に細かく、さりげなく、しかも適切だった。彼女のそばにいれば、私は何の心配もする必要がなかった。そしてそれは永遠に続くものと、私は信じて疑わなかった。
 そんな不滅であるはずの愛情に、いつから暗い影が忍び寄ったのか、私には正確に述べることができない。日常に何らかの変化があったわけではないのだ。
 ただ遠い記憶を探ってみれば、子供心に、おかあさんどうしたのかな、と感じたことがいくつかあったように思う。食事をしている時、ふと顔を上げると母が私を見て思い詰めたような表情をしていたとか、鏡台の前に座って長い間動かなかったりとかだ。もっともこんな時でも、私が見ていることに気づくと、彼女はいつもの温かい目で微笑んでくれたのだったが。
 いずれも大したことではない。しかし私は子供の直感で、母の態度に何か不吉なものを感じ始めていた。さらにその頻度は、私の成長と共に着実に増えていくようだった。(p4)
 ミステリでありながらSFでもある物語。とはいえSF的要素は今日において十分現実的なものであるので、SFテイストを効かせたミステリと言った方が適切だろう。氏家鞠子と小林双葉、住む場所も年齢も異なる二人は、それぞれの母の死に不審を感じ、その死に纏わる謎の答えを追い求めていく、という形でストーリーは進んで行く。実のところ、プロットそのものの形式を考えるならば、娘は二人は必要ない。一人で十分なはずだ。それを敢えて、より複雑な物語になるにも関わらずダブルキャストとした上に、タイトルを『分身』としたところに巧さがある。主人公が一人では、二人である時よりも謎の核心に訴求力の点で劣るのである。ダブルキャストであるからこそ、最後に明かされる謎が迫真性を持って読者へと迫ってくることは、読み終えて考えてみればわかるはずだ。その点で作家の仕事のお手本のような作品。ただ、とある「大物」の人物が風聞でしか登場しないこと、そして「敵討ち」がなされていないまま物語が閉じられるのは、特に後者について決着が付いていないのが、中味が良いだけに大いに不満である。
東野圭吾『変身』★★★(20150531)

講談社ノベルズ1993
 画家を夢見、この世にかけがえのない存在として恋人を愛していた青年、成瀬純一を不慮の事故が襲った。そして世界初の脳移植手術。彼のなかに他人の脳の一部が生きているのだ。やがて――彼の心に違和感が生じ始める。自分は一体何者? 迫りくる自己崩壊の恐怖! 君を愛したいのに愛する気持が消えてゆく……
 これは東野版SFである。同様にSFタイプであり、かつ「精神と身体」という二元論をテーマとする作品には『秘密』があるが、それに比べればかなり劣ると言わねばならない。そもそも脳神経細胞が適合しているからと言って一般人でしかない主人公がなぜ脳移植という一大プロジェクトの対象になれたのか、その点についての説明がない。第二に、移植された脳の本当のドナーは、読者には簡単に推理できる。ドナーの脳が主人公の意識を支配していくのは良いのだが、変わっていく性格の方向性が曖昧である――父への憎しみと、他方での冷酷さとが整合しない――、その上ラストシーンまである程度推理できるのである。野心作なのだろうが、野心だけが先走った感がある。
東野圭吾『同級生』★★★★(20150712)

祥伝社1993
同級生の宮前由希子みやまえゆきこが車にねられて死んだ。彼女は俺の子を身籠みごもっていた。たった一度の関係。俺は本気・・ではなかった。だが由希子はそう信じたまま死んだ。俺は皆の前で告白した――二人は愛しあっていた、と。やがて俺は衝撃の事実をつかんだ。由希子は産院からの帰り、張り込んでいた中年独身オールドミス女教師御崎藤江みさきふじえに追われて事故に……。俺は授業中、御崎を追及した。俺は“英雄”になった。だが、それもつか、ある夜御崎が教室内で絞殺された。校内は騒然、俺は一転して被疑者となった。真相解明に乗り出した俺だが、直後、校内でまたも奇怪な事件が……。ミステリー界の若き旗手が渾身の力で書き下ろした、デビュー作『放課後』をえる哀切と感動の本格学園推理の傑作誕生!
 あとがきに本人も書いているとおり、教師に対する不信感と悪意に満ちた作品。登場する教師は悉く碌な人物ではない。だが他方で、主人公もまた同様であるのだ。自らの悪の刻印をひた隠しにしつつ、教師の悪を暴き出す、というプロットを持つ本書は従って、似非ヒーロー物語なのである。ならばそのことに焦点を絞った方がすっきりするのでは、と思われる。悪人たちばかりの中にあって唯一無垢な「妹」にまつわるエピソードは物語全体に対して宙に浮いている印象があるし、「企業倫理」に関わる伏線もそれほど効果あるとは思えないからだ。また、そのような「卑怯者=英雄」としての主人公をとある人物が身を挺して庇うのだが、その動機も行動に比すれば弱い気がする。何より主人公と「妹」と、その「庇護者」の三人が描く結末はただひたすら「虫の良い」もので、素直に納得できるものではない。
東野圭吾『虹を操る少年』★★★(20150306)

実業之日本社1994
「するとその演奏というのは、基本的には光だけを使って行うのか」
「そのとおり。音が様々なパターン変化によって音楽を成立させるのと同じことが、光でもできるというのが僕の考えなんだ」
「たしかに、様々な色の光が点滅していれば綺麗だろうが……」
父親の答えに光瑠は失望したようだ。苦笑して小さく首を振った。
「綺麗とか汚いとかは、音楽でいえばせいぜい音が澄んでいるかどうかという程度のことさ。それも大切だけど、もっと大事なのはメロディだ」
「光にメロディがあるの?」
優美子が目を丸くした。
「あるさ。みんな、そのことに気づいていないだけさ」
 ファンタジーのジャンルに分類すべき作品。とある天才少年が、光を演奏して人々を未来へ導こうとするが……という内容である。いわば新人類世代の幕開けを描く物語。当然それを許さない人々が暗躍し、他方主人公たちに力を貸す勢力が現われ……という点は面白いが、しかしいわゆる「超能力者の葛藤」というテーマならば半村良『岬一郎の抵抗』には遠く及ばない。本書ではその対立する二つの勢力の内実が曖昧である――「国家」という構造にまでは達していない――からだ。むしろその対立こそが面白いのに、と思わずにはいられない。その点において『岬一郎の抵抗』こそ金字塔であると改めて感じさせるのがこの作品だろう。それに、そもそもの物語の「核」である「光」についての以下のような理解のあり方にも疑問符を付けざるを得ない。
 小学校高学年になると、光瑠は色を定量的に表現するようになった。
「こっちは赤色が五パーセントに黄色が八パーセント、そっちは黄色が六に青が十五余分に入ってるね」
 これは高行の礼服を買いにデパートへ行った時、二つの礼服を見て光瑠がいった言葉だ。(p37)
 では「赤」とは何だろうか? 「赤」自身の定量とはどういう意味であるのか? いったいどこに「真の赤」なるものが存在するのだろうか? 音ならば確かに定量化可能だが、色彩については定量化できるわけがないのである。そのことはもちろん、ソシュール構造言語学が明らかにしている。仮に「赤」が定量化できるとしてみよう。すると様々な言語間で、「赤」に相当する言葉が意味する色彩の範囲にズレがある現実は、すなわち「どちらかが正しく色彩を認識していて、どちらかが間違っている、ないしはどちらとも間違っている」とせざるを得なくなる。とすると、「赤いと思っていたけど、じつはそれは赤ではなかった」という実に奇妙な、そしてあり得ない事態が生じることになる。なぜなら「赤い」と思っているその自分自身の「感覚」が間違っている、ということになるわけだからだ。「赤だと思ったけど実は青だった」ということならあるだろう。だがここで意味されているのはそれではない。「今、赤に見えていてそれ以外の色には見えないのに、本当は青である」ということなのだ。ではどのようにすればそれを「青」だと認識できるようになるのだろうか? 何より、光のスペクトルをたった二つの言葉でしか表現しないリベリアのバッサ語圏の人々などはいわば「色音痴」なのか?
 そうしたいかにも「軽率な理系人間」的な思いつきを核心に持つにおいても評価しかねるのである。
東野圭吾『天使の耳』★★★★(20130519)

講談社文庫1995
深夜の交差点で衝突事故が発生。信号を無視したのはどちらの車か!? 死んだドライバーの妹が同乗していたが、少女は目が不自由だった。しかし、彼女は交通警察官も経験したことがないような驚くべき方法で兄の正当性を証明した。日常起こりうる交通事故がもたらす人々の運命の急転を活写した連作ミステリー。
(『交通警察の夜』解題)
 すべてが交通事故をテーマとした、本格作品にあっては比較的珍しい六短編を収める。結末に至るまでに状況が二転三転する「天使の耳」、法の理不尽さを核とする「分離帯」は優れた作品だが、その他は水準はクリアしているものの、傑作とまでは言えない。暇潰しには最適な一冊だろう。
東野圭吾『怪笑小説』★★★(20150315)

集英社1995
『鬱積電車』あとがき(東野圭吾)
「電車を利用したといえば、やっぱり学生時代である。近鉄電車で布施から鶴橋まで行き、環状線に乗り換えて天王寺まで出るというルートは、毎日が押しくら饅頭状態だった。
本作品は、仕事場に通う途中に思いついたものである。思いついたというより、目の前にいる人々の心境を想像したら、こうなったというのが正しい。たまに、またあの鬱積電車に乗ってみたいと思わないこともない。でも毎日は嫌だな」
怪しい笑いが新たな不気味な笑いを呼ぶ9編からなる作品集。
 この短編集はミステリではない。むしろ筒井康隆や清水義範に似たテイストの短編集。ただし筒井康隆ほどペダンティックかつブラックではなく、清水義範ほど言葉に繊細なわけでもない。全短編に作者の「あとがき」が付されている。決して悪くはないのだが、「鬱積電車」をはじめ「これで終わり?」と思うような短編も散見される。一方で、面白悲しい余韻の「おっかけバアさん」と、式貴史「ポロロッカ」や清水義範「グローイング・ダウン」と同じ着想の「あるジーサンに線香を」は秀作だろう。それはともかく「超たぬき理論」のあとがきにはいかにも『ガリレオ』シリーズの作者らしい、科学に対する(本人としては卓見だと思っているかもしれないが)「平凡な」見解が読める。
科学者ほど、既成概念を崩すような現象を待ち焦がれている人間たちはいない。彼らは自分たちの信じていたことが根底から覆されることを、いつも夢見ているのだ。なぜなら、そういうことの繰り返しで科学は進歩してきたからである。(p122)
 これは科学者の現実の姿ではない。そうではなく、科学者に対する理想の姿である。しかもそれは、理論面を専ら研究している科学者に限っての理想の姿である。地震や気象を専門とする科学者が、自分たちの理論が根底から覆される出来事を望んでいるだろうか? 「想定外でした」では済まされない領域というものが存在する。それともそうした人々は東野にとっては科学者の埒外に置かれるのだろうか? 東野の考える科学者の世界は単純すぎる。しかも理論面においても、世界観が変化しない限り、科学者といえども既存の概念にしがみつくことは、トマス・クーンの「パラダイム」論やミシェル・フーコーの「エピステーメー」論において既に示されている通りだ。
だが科学の世界は、誤解がいつまでも通用するほど甘くはない。必ず別の科学者が追試験を実施し、結論が正しいかどうかを確認する。そしてデータさえ突き付けられれば、科学者は自分の非を認めるものなのだ。(p122)
 そしてここに現われた言葉遣いから、東野の言う「科学」とは自然科学に限られていることがわかる。自然科学の、理論を専門にしている科学者の理想の姿、それを科学者一般の姿へと敷衍するのは乱暴としか言えない。データさえ突き付けられれば、科学者が自分の非を潔く認めると思ったら大間違いだ。東野の科学に対する理解はそれゆえに、素人の域を出てはいない。
東野圭吾『仮面山荘殺人事件』★★★(20150412)

講談社文庫1995
八人の男女が集まる山荘に、逃亡中の銀行強盗が侵入した。外部との連絡を絶たれた八人は脱走を試みるが、ことごとく失敗に終わる。恐怖と緊張が高まる中、ついに一人が殺される。だが状況から考えて、犯人は強盗たちではありえなかった。七人の男女は互いに疑心暗鬼にかられ、パニックに陥っていった……。
 やろうとしたことは評価できる。だが、それにしては登場させる人物が多すぎる。そして、「その目的」を遂げるための手段が「それ」なのは、かなり荒唐無稽であると思わざるを得ない。そんな手の込んだことをして、それでそんな目的が確実に達せられるとは思えないのである。と、このようにぼかした言い方しかできないのだが、ともかくこの作品は、あるアイデアだけで強引に書かれた、という印象なのである。しかも一度使ったら二度と使えないアイデアを。ならばもう少しじっくりと練り上げれば良いものを。
東野圭吾『パラレルワールド・ラブストーリー』★★★(20150706)

中央公論社1995
 では正確な過去とはどれか。不正確な、作られた過去とはどれなのか。まずそこからはっきりさせていかねばならないと彼は考えた。
 まず麻由子のことからスタートする。彼女は智彦の恋人だった。それが正確な過去。単なる友達だというのは誤った記憶だ。
 彼女のことを紹介され、驚いた。かつて一目惚れした相手だったからだ。それも事実。
 すると――
(本文より)
 主人公を取り巻く二つの異なった状況。どちらかが真実で、どちらかが偽の記憶である。ではどちらが真実なのか。このことを客観的に明らかにすることはおよそ原理的には不可能である。というのも記憶とは存在論的には過去のものであり、そして過去とは端的に言って「すでにどこにも存在しない」からである。それゆえ存在しない過去についての判別は、一つには物的証拠によるしかないのだが、それが何者かによって操作されているかもしれない以上、無邪気に信用するわけにはいかない。そのジレンマが面白さであると思うのだが、主人公は単純に「真実を思い出す」という形式において真偽を見分けるのである。であるならばなぜそのような偽の記憶が植え付けられたのかというところへと興味は向かうのだが、ここでも意外な真実が明らかにされるわけではなく、読者が当初想像した通りに物語は進行していく。SF的なプロットで意外性を狙ったのだろうが、SFではもはや手垢が付いた内容である。映画『トータル・リコール』の原作となったP.K.ディック「模造記憶」の方が、本作よりもはるか以前に書かれているにも関わらず、よほどスリリングである。
東野圭吾『名探偵の掟』★★★★(20150228)

講談社1996
「あたしもさあ、おかしいと思うんだよね」天下一は岩に座ったまま腕組みをした。「小説をドラマにするのはいいんだけど、その場合、絶対に原作と違ってて、しかも必ずといっていいほど原作よりもつまらなくなってる。あれ、どういうわけだろうね。それとも脚本家とかは、こっちのほうが面白いと本気で考えてるのかな」
「面白いとか面白くないとかじゃなく視聴率だろう。原作の複雑なストーリーをそのまま出しちゃうより、多少陳腐でもわかりやすくして、適当に色恋を混ぜたりしたほうが視聴率がとれると考えているんじゃないのか」
「そういうことなんだろうねえ」天下一は長い息をふぅーっと吐いた。(p131-2)
 これはメタミステリである。ミステリー、それも本格推理という形式の物語のパロディである。物語中の登場人物があたかも実在する人間であるかのように思考し、行動する、という体裁で構成された物語である。しかも登場人物たちは作者の意図をあらかじめ知ることなく、置かれた状況を読みながら自分の役割を演じる、という作業を余儀なくされている。そのことはプロローグにある大河原警部の言葉に読み取ることができる。彼は「天下一探偵シリーズの脇役」(p8)であるのだが、脇役であるがゆえに事件の真相に辿り着いてはならない――なぜならそれは主人公の役割であるから――ということについての苦労を「つまり私は常に主人公である天下一探偵よりも先に事件の真相を暴き、わざとその推理を迂回しながらすべての行動を起こしているのだ。」(p9)と語るのだ。台本通りに進行するのならば、登場人物自身が推理する、などということは必要ない。すなわち、このメタミステリは、登場人物と作者の間に一つの断絶を設定した上で、「作者の設定した物語世界を壊すことなく与えられた役割を演じよ」という課題にどう応えるか、というテーマを持った作品である、と言える。
 つまりこれは筒井康隆『虚人たち』の本格推理小説版であるというわけだ。その発想は面白いし、各章において本格推理におけるいわゆる「トリック」(フーダニットとか、ダイイングメッセージとか、時刻表トリックなどの副題が各章に付されている――因みに第一章「密室宣言」には、法月綸太郎のとある短編と同じトリックが使われている――)に、登場人物たちがうんざりしながら付き合う、という構図も斬新である。が、その構図自体を破壊しかねない記述は気になる。それは第九章の次の文章だ。
 名探偵の講釈はまだまだ延々と続くのだが、読者も辛気くさいだろうから省略する。聞いている我々だって、欠伸(あくび)をこらえるのが大変なのだ。(p200)
 これも大河原警部の言葉である。『名探偵の掟』は、この大河原警部の視点において記述される。すなわち大河原警部こそが「語り手」であり、それゆえ「省略する」ことも可能であるわけだ。しかし、だとすれば、「作者」はただ舞台設定をするのみで、台詞にも行動にも、そして記述にすら関わらない人物である、ということになる。果たしてそれは「作者」と言える存在なのだろうか? それゆえにこの一言は、メタミステリという設計自身を破壊させかねない言葉なのである。もちろんそれを深読みして、「ここには現実の人間と、世界を創造しただけであとは一切の干渉をしない「神」との関係が暗示されている」と大袈裟に批評することもできないわけではないのだが、この物語にそこまでの構造性を求めるのは穿ちすぎだろう。
 それはともかく「なぜ物語は映像化された途端に陳腐になるのか」という問いは、誰もが持つものだろう。そして陳腐の中の陳腐な映像化、という点では、東野圭吾『さまよう刃』を措いて他にはあるまい。そのことが『名探偵の掟』で語られることこそ喜劇である。「ではなぜ東野は、そのような陳腐化に目を瞑ったのか」という問いに彼はどう答えるのだろうか? この問いに対する答えは「メタ」どころではくむしろとてもとても、生臭くなる可能性がある。
東野圭吾『名探偵の呪縛』★★★(20150228)

講談社文庫1996
図書館を訪れた「私」は、いつの間にか別世界に迷い込み、探偵天下一になっていた。次々起こる怪事件。だが何かがおかしい。じつはそこは、「本格推理」という概念の存在しない街だったのだ。この街を作った者の正体は? そして街にかけられた呪いとは何なのか。『名探偵の掟』の主人公が長編で再登場。
 前作とは異なり、探偵天下一の視点から物語は綴られて行く。今度は長編であり、ある「盗まれた遺物」を巡って物語は進む。短編集であった前作に比べてあまりテンポは良くない。その上半分ほど読み進めれば、盗まれた遺物の正体についても見当が付いてしまうのはいただけない。前作を読んだならば、敢えて読むまでもない作品であり、内容は前作より鈍化している。それにしても「時刻表トリックで有名な『点と線』」という記述があるのだが、あれは「時刻表トリック」などでは断じてないどころか、名作ですらないともう一度強く主張しておく。
東野圭吾『天空の蜂』★★★(20150510)

講談社ノベルズ1997
 テロリストの脅迫に日本政府、非情の決断――!!
爆発物を搭載した超大型ヘリコプターが、“天空の蜂”と名乗る男に強奪された。ヘリはコンピューターによる遠隔操作で、福井県にある高速増殖炉の千数百メートル上空でホバリングを開始した。そしてヘリの中には、とり残された少年が一人! 著者初の冒険小説!
 何かと問題の多い、というより、わざわざ問題を抱えるために建設したとしか思えない高速増殖炉を舞台とした小説であり、その点で先駆け的なものだろう。推理要素は存在せず、純粋な「冒険小説」として読める。ただ、エピソードがいわば整理されすぎていてスリルが味わえない。事件を収拾しようとする警察や政府の側に、予期せぬ障害や妨害を組み込めればもっと面白く読めたのに、と思わずにはいられない。テロリストの動機の点も今一つ説明不足である。いわば「変に小綺麗な」冒険小説である。
東野圭吾『どちらかが彼女を殺した』★★★(20100805)

講談社文庫1999
 最愛の妹が偽装を施され殺害された。愛知県警豊橋署に勤務する兄・和泉康正は独自の“現場検証”の結果、容疑者を二人に絞り込む。一人は妹の親友。もう一人は、かつての恋人。妹の復讐に燃え真犯人に肉迫する兄、その前に立ちはだかる練馬署の加賀刑事。殺したのは男か? 女か? 究極の「推理」小説。
 「誰が犯人であるか」が最後まで明かされない異色な推理小説。従って「推理」しないのであれば実にもどかしい思いをするはずである。ただ、推理そのものは論理的かつ単純であるので、それほど悩むことはない。しかし、その人物が犯人であるならば、動機の点においてもう一つ弱いのではないか、と思えるのだが。
東野圭吾『探偵ガリレオ』★(20120702)

文春文庫2002
 突然、燃え上がった若者の頭、心臓だけ腐った男の死体、池に沈んだデスマスク、幽体離脱した少年……警視庁捜査一課の草薙俊平が、説明のつかない難事件にぶつかったとき、必ず訪ねる友人がいる。帝都大学理工学部物理学科助教授、湯川学。常識を超えた謎に天才科学者が挑む、連作ミステリーのシリーズ第一作。
 提示される「謎」自体は非常に魅力的だが、それがいわゆる「科学」によって解明されてしまうのは面白味に欠ける。自然科学の世界の面白さを物語で講義されているような気がするからだろう。だから謎が解明されても「驚き」がない。「ああ、そうですか」という感想しか持ち得ない。探偵の名前も、そしてそのニックネームも素人作家でもないのにあまりにもストレート過ぎて鼻につく。『秘密』を書いた東野圭吾の作品としては最もレベルが低い。
東野圭吾『片思い』★★★★(20150815)

文春文庫2004
 十年ぶりに再会した美月は、男の姿をしていた。彼女から、殺人を告白された哲朗は、美月の親友である妻とともに、彼女をかくまうが……。十年という歳月は、かつての仲間達を、そして自分を、変えてしまったのだろうか。過ぎ去った青春の日々を裏切るまいとする仲間たちを描いた、傑作長編ミステリー。
 身体と精神の不一致に悩む人間の姿を一つの殺人事件と絡めて描いた秀作。「性同一性障害」は、何ゆえに「障害」なのだろうか? かつてそれは、単なる「性癖」ないしは「趣味」としてしか捉えられていなかった。しかし今やそれは、その人物の全人格を彩る修辞となっているのである。そしてその変化に大いに貢献しているのは「精神医学」という名の「科学」である。フーコー『性の歴史T 知への意志』を踏まえての、そのような思いを禁じ得ない作品。「性同一性障害」という言葉になにがしかのうさんくささを嗅ぎつけた人にとって必読の一冊。
東野圭吾『レイクサイド』★★★(20120724)

文春文庫2006
 妻は言った。「あたしが殺したのよ」──湖畔の別荘には、夫の愛人の死体が横たわっていた。四組の親子が参加する中学受験の勉強合宿で起きた事件。親たちは子供を守るため自らの手で犯行を隠蔽しようとする。が、事件の周囲には不自然な影が。真相はどこに? そして事件は思わぬ方向に動き出す。傑作ミステリー。
 読み終わって「誰が、いつ、どのように」して犯行を成し遂げたか、ということがほとんど意味を持たない、極めて稀な推理小説。もともと東野圭吾の作風は、トリックそのものに重点を置くのではなく、むしろ殺人という状況をめぐって、登場人物が「そのような行動をせざるを得ない背景」に焦点を当てることによって物語を紡いでいくことにあったわけで、この作品は現時点でのその極限形態であると言えるだろう。ただし、その「背景」が、例えば『卒業』や『魔球』などに比べればそれほど強く印象づけられない、という点では辛い評価を付けざるを得ないのも確かである。
東野圭吾『殺人の門』★★★★★(20101019)

角川文庫2006
 「倉持修を殺そう」と思ったのはいつからだろう。悪魔の如きあの男のせいで、私の人生はいつも狂わされてきた。そして数多くの人間が不幸になった。あいつだけは生かしておいてはならない。でも、私には殺すことができないのだ。殺人者になるために、私に欠けているものはいったい何なのだろうか?
人が人を殺すという行為は如何なることか。直木賞作家が描く、「憎悪」と「殺意」の一大叙事詩。解説・北上次郎
 殺人者と殺人者にはなれなかった者との境界線に横たわる深淵とは、一体どのような佇まいを持つものなのだろうか。そのような「断固たる曖昧さ」をテーマとした長編。登場人物の心中に紙数を費やすのではなく、むしろどちらかと言えば突き放したような文体が、どことなく芥川龍之介『或阿呆の一生』や『大導寺伸輔の半生』を彷彿とさせる。意外などんでん返しがあるとか、大事件が起こるとかいうわけでもなく、それでいて非-日常的な「私」の半生が淡々と綴られていく。にも関わらず、読む者を引きずり込んで止まない魅力がある傑作。その上で読み終えた時、「私」にまとわりつく捻れた友情の発端が明らかにされ、かすかな驚愕を感じ、その意味では紛れもなくこれは推理小説の延長線上にある作品である。
東野圭吾『容疑者Xの献身』★★★★★(20091110)

文春文庫2008
天才数学者でありながら不遇な日々を送っていた高校教師の石神は、一人娘と暮らす隣人の靖子に秘かな想いを寄せていた。彼女たちが前夫を殺害したことを知った彼は、二人を救うため完全犯罪を企てる。だが皮肉にも、石神のかつての親友である物理学者の湯川学が、その謎に挑むことになる。ガリレオシリーズ初の長篇、直木賞受賞作。
 端的に言えば『魔球』の変奏曲。ある男の出現のために歯車が狂ってしまった四人の人物の物語。とはいえ『魔球』とは異なり、倒叙形式で物語が進行していくので、「誰が犯人か」という推理小説の「読み」の基本をなぞらずに読めるし、これほど「犯人」と「共犯者」に感情移入して読める作品も珍しい。ところが最後に来て『魔球』以上の特別な仕掛けが施されていて、推理小説として超級の作品である。ではあるのだが、『魔球』以上にカタルシスがない。自己の実存の証明としての「献身」のあり方が底知れぬものであるならば、その「献身」は受け取る側には重すぎる。それゆえに物語はこのように閉じねばならないのだろうと頭では分かるのだが。
東野圭吾『新参者』★★★★(20100406)

講談社2009
いまさら東野圭吾!? の雰囲気を超絶技巧で跳ね返し「このミス2010版」「週刊文春ミステリー」ダブル1位に輝いた、かつてない読後感の新境地長篇

もう、彼女は語れない。
彼が伝える、その優しさを。
悲しみを、喜びを。


「こんなことができればと思った。でも出来るとは思わなかった」
東野圭吾
 真っ先に思い浮かぶのが若竹七海『ぼくのミステリな日常』である。どちらも短編集であり、一つ一つの物語にきちんとした謎とその解決がありつつ、全体でより大きな謎が提示され、かつ解決される。この二つを比較すれば、技法の点では『ぼくのミステリな日常』の方がより優れているだろう。従って本書は「超絶技巧」とは言い難い。しかしながら下町の群像の描き方は(半村良には及ばない、としても)確かに上手いし、他の作品では今ひとつ表情がはっきりしなかった加賀恭一郎の佇まいが、描かれた下町の風景に実に良く似合っている。雰囲気としての味わいは上質である。しかしそれだからこそか、いつもの東野作品にあるような「重い読後感」というものは幾分薄い。成る程「語れない彼女の代わりに彼が語る」という点では余情漂うプロットであるのかもしれないが、それが現実に余情を漂わせるようにするにはもっと多くの紙幅を費やさねば読者の想像力への負担が大きすぎる、というものだ。
東野圭吾『麒麟の翼』★★(20111129)

講談社2011
 その男が日本橋(にほんばし)交番の脇を通過したのは、間もなく午後九時になろうかという頃だった。少し前に交番から出て、周囲を(なが)めていた巡査が、男の後ろ姿を目撃していた。
 その時巡査は、早い時間からずいぶんと酔ってやがるな、と思った。男の足取りがおぼつかなかったからだ。後ろからなので年齢はよくわからなかったが、髪型などから初老だろうと見当をつけた。中肉中背で、身なりはきちんとしていた。むしろ、()げ茶色のスーツは遠目にも上質に見える。わざわざ声をかけるまでもない、と巡査は判断した。(p3)

 加賀恭一郎シリーズ作品。まるで森村誠一『人間の証明』のような発端であるが、『人間の証明』ほどの厚みはない。それどころかごく薄く細い伏線に導かれて、意外というより最早予想外な真犯人が指摘される。下町情緒にしても『新参者』ほどの細やかさは見当たらないどころか、被害者家族の葛藤にしてもそれほど丁寧に描写されているわけではない。加賀の父の法事に関するエピソードも単なる紙幅稼ぎな感は否めない。仮にこれが次作以降の伏線であるにせよ、本書単体ではそのような評価は揺るがないだろう。纏めれば、加賀恭一郎ものとしては力強さがなく、東野圭吾にしては意外な手抜き作、と言われても仕方がないだろう。
東野圭吾『真夏の方程式』★★★(20140727)

文春文庫2013
夏休みを玻璃ヶ浦にある伯母一家経営の旅館で過ごすことになった少年・恭平。一方、仕事で訪れた湯川も、その宿に宿泊することになった。翌朝、もう一人の宿泊客が死体で見つかった。その客は元刑事で、かつて玻璃ヶ浦に縁のある男を逮捕したことがあったという。これは事故か、殺人か。湯川が気づいてしまった真相とは――。
 『容疑者Xの献身』を読んだならば、本書は読む必要がない。というのも、『献身』において核を構成していたものが、ここにはほとんどそのまま形を変えず含まれているからである。その上で、本書オリジナルの物語構成については散漫な印象がある。『献身』よりも複雑な構成を狙ったのだろうが、『献身』の読後感に比べれば本書の与える印象はそれに及ばないと言わねばならない。矢継ぎ早の作品発表がこのような「リサイクルのトリック」においてなされているのはもはや残念と言うほかはない。
樋口有介
樋口有介『彼女はたぶん魔法を使う』★★★(20130804)

創元推理文庫2006
元刑事でフリーライターの柚木草平は、雑誌への寄稿の傍ら事件調査も行なう私立探偵。今回もち込まれたのは、女子大生轢き逃げ事件。車種も年式も判明したのに、車も犯人も発見されていないという。被害者の姉の依頼で調査を始めたところ、話を聞いた被害者の同級生が殺害される。私生活でも調査でも、出会う女性は美女ばかりで、事件とともに柚木を悩ませる。人気シリーズ第一弾。
 物語の織り方は巧みであるのだが、その巧みさにインパクトがない。その原因はおそらく、物語の提示方法にあるのだろう。隠された事実が明らかになる、その明らかになる際の、主役の言葉が平凡すぎるのである。「ハードボイルド」を逆手に取るような言葉については光るものがあるのだが、それが出来事の核心を突く言葉をかき消してしまう、それが惜しい。
樋口有介『ぼくと、ぼくらの夏』★★★(20100913)

文春文庫2007
 高校二年の夏休み、同級生の女の子が死んだ。刑事の父親と二人で暮らすぼくは、友達の麻子と調べに乗り出したが……。開高健から「風俗描写が、とくにその“かるみ”が、しなやかで、的確であり、抜群の出来である」と絶賛され、サントリーミステリー大賞読者賞を受賞した、青春ミステリーの歴史的名作。 解説・大矢博子
 本書の受賞は1988年であり、であるが故の「歴史的名作」という惹句である。解説にある通り、確かに「古びていない」し、十分に面白い。しかしその面白さは推理小説としてのそれではない。少なくともミステリーではあるだろうが、読者に推理する余地がある訳ではないからだ。そしてその展開も、また事件の様相も、これと類似した小説の枚挙に暇がないほどであり、その頂点に位置するのが法月綸太郎『頼子のために』あたりだとすれば、本書はその末席に目立たぬように座るのみであるだろう。ただし軽妙かつ軽快な会話文が優れていて、それがこの物語の「売り」である。
樋口有介『ピース』★★★★(20120623)

中公文庫2012
埼玉県北西部の田舎町。元警察官のマスターと寡黙な青年が切り盛りするスナック「ラザロ」の周辺で、ひと月に二度もバラバラ殺人事件が発生した。被害者は歯科医とラザロの女性ピアニストだと判明するが、捜査は難航し、三人目の犠牲者が。県警ベテラン刑事は被害者の右手にある特徴を発見するが……。解説・郷原宏
 焦点となるその動機(・・・・)は秀逸である。周囲の状況に配慮する知恵に欠けた者の示す自覚せざる悪意は、傍目からも確かに殺意を構成するに足るものだろうし、それがバラバラ殺人でなければならない理由も納得できるのである。そしてその動機が明らかになるとき、タイトルの意味に戦慄するし、カバー絵の意味もがらりと反転する。その点で類のない物語ではあるだろう。
 しかし、それをさらに裏返そうとする試みは成功しているとは言い難い。「すべてを仕組んだ者」の暗示は単なる推測に留まり、読み手に確信を抱かせるまでには到らないからだ。その上、ある人物の過去の殺人の意味もはっきりとはせず、その人物がその町に辿り着いた理由、さらにはまたもう一人の人物がそこに通う理由もまた不明なままである。
樋口有介『ベイ・ドリーム』★(20121209)

中公文庫2012
ミミズの研究一筋に生きて数十年、女性とは全く縁のなかった柿本書彦(ふみひこ)の前に、謎の美女・紗十子(さとこ)が現れた。一方、東京湾岸の埋立地には奇形のミミズが出現。折りしも東京都の一大建設プロジェクトが持ち上がり、汚染された土地の利権をめぐって政治家やゼネコンが暗躍、都政を揺るがす大スキャンダルに発展していく……。
 尻すぼみである。発端のエピソードの数々は面白いのに、調子に乗って話を膨らませていったら紙数が足りないのに気づいて、ドタバタと慌てて風呂敷を畳んでしまった、という印象が拭えない。対立候補の人間関係と、その行動の動機もはっきりとは示されないし、紗十子の行動の理由となった過去の出来事も些か弱い気がする。主人公に至っては殆ど何もしない。解決は天啓のようにもたらされ、読者を置き去りにして物語は大団円を迎える。光るのはともかく金に汚い政治家(実はこれは畳語ではないか、という気がする)やゼネコンの、庶民の見下し具合だろうか。
 しかしそのこととは別に、本書はともかく誤植が多すぎる。何を急いでいたのか知らないが、「引き出しす」(p228)、「ジーンず」(p241)、「始末て」(p242)、「疑問をもなかったが」(p266)、「タイプいる」(p286)、「してみないないかね」(p292)、「埋まっていることこと」、(p311)「言ったではあないか」(p329)と、気付いただけでも八箇所あり、物語後半にそれらが集中しているのである。ここまで誤植が多い、いい加減な本に出会ったのは初めてかもしれない。ハードカバーで角川書店から刊行されていた時からの遺物が修正されないままなのだろうか? それとも文庫版で誤植が増えたのか。さらに、文庫版は第二版以降で誤植の修正がなされるのか、あるいはなされたのか。いずれにせよこれは本の形式としては不良品であると言わねばならない。
平谷美樹よしき
平谷美樹『エリ・エリ』★★★(20120710)

ハルキ文庫2005
 〈ホメロス計画〉──信仰心を失った人類は、新たなる神を求めて地球外知的生命体との接触を試みていた。それは存続の危機にあった教会にとっても「神の科学的証明」による信仰回復の可能性を秘めていたが、反体制勢力による抵抗も進行していた。そんな中、地球外生命体からと思われる大量のニュートリノが観測されたのだが……。人類・神・宇宙の関係に鋭く迫る、第一回小松左京賞受賞の一大SF、待望の文庫化。
 神への信仰を無くしかけている神父、宇宙へ出て行きたいと熱望する天才科学者、そして宇宙人に父と恋人を殺されたと考えている精神科医、この三人が主軸となって物語は展開するのだが、その絡み合いに今ひとつ物足りなさを覚える。個々のエピソードは面白いことは面白いのだが、その全体を貫く本流の力強さに欠けているような気がする。また、クライマックスはアーサー・C・クラーク『宇宙のランデブー』に見られたものである点も減点要素か。むしろ神父一人に視点を絞って、「その先」を書いてくれれば、盛り上がりに欠けることもなかったのに、と思う。それが残念。
深町秋生
深町秋生『果てしなき渇き』★★★(20140712)

宝島社文庫2007
部屋に麻薬のカケラを残し失踪した加奈子。その行方を追う、元刑事で父親の藤島。一方、三年前。級友から酷いイジメにあっていた尚人は助けてくれた加奈子に恋をするようになったが……。現在と過去の物語が交錯し、少しずつ浮かび上がる加奈子の輪郭。探るほどに深くなる彼女の謎。そして用意された驚愕の結末とは。全選考委員が圧倒された第3回『このミス』大賞受賞作品。読む者の心を震わせる、暗き情念の問題作。
 典型的な「ハードボイルド」パターンで進む物語。どの人物も――主人公でさえ、というより主人公こそ最も――感情移入できないパーソナリティの持ち主である上に、出来事の発端が「それ」であるなら尚更読み進めるのがやるせない。確かに問題作ではあるのだろうが、それをハードボイルドのボキャブラリーで語ってしまったことによって、単なるバイオレンス作品に堕している気がする。
深谷忠記
深谷忠記『ソドムの門 ある殺人者の肖像』★★★(20141019)

祥伝社文庫2002
またも薬害事件か? 抗生物質の投与で死亡者が発生したとの報に、新聞記者の (つくだ) は大学時代の体験を思い出した。九年前、彼はアルバイトで新薬開発の臨床試験に参加し、激しい副作用を目撃したのだ。もしあれがこの薬であったら……。自らの記憶をもとに製薬会社・治験医師、そして被害者の少年と接触するうち、正義とは裏腹に佃自身に芽生える“現代の病巣”とは?
 ネット社会とは、最早「社会派」の存続が不可能な時代であるのかもしれない。本書において展開されているのは新薬開発に関わる利権と、それを巡る陰謀である。そして「物語」という体裁を取る以上、語られる出来事は「派手」にならざるを得ない。そして派手になればなるだけ、「物語」は虚構としての色を濃くしていくことになる。しかし今日、行政と企業を巡る癒着や陰謀といったテーマは専ら、ネット上で告発され、かつ非難され、そして論議されるものである。そこに「虚構」を潜り込ませる意志も多少はあるにせよ、それらは多くの場合、集合的な語りの場においては少数派だと思われる。ネットがまだこれほどに発達していない状況においては確かに、世に訴えるという意味で、企業の告発や陰謀を物語にする意義はあったのだろうが。それゆえ、今日は、松本清張に端を発する「社会派」にとっては非常に窮屈な時代であると言えるのではないだろうか。
福井晴敏
福井晴敏『亡国のイージス(上)/(下)』★★★★★(20120623)

講談社文庫2002
 在日米軍基地で発生した未曾有みぞうの惨事。最新のシステム護衛艦《いそかぜ》は、真相をめぐる国家間の策謀にまきこまれ暴走を始める。交わるはずのない男たちの人生が交錯こうさくし、ついに守るべき国の形を見失った《イージス》が、日本にもたらす恐怖とは。日本推理作家協会賞を含む三賞を受賞した長編海洋冒険小説の傑作。(上巻)
 「現在、本艦の全ミサイルの照準は東京首都圏内に設定されている。その弾頭は通常にあらず」ついに始まった戦後日本最大の悪夢。戦争を忘れた国家がなす術もなく立ちつくす時、運命の男たちが立ち上がる。自らの誇りと信念を守るために──。すべての日本人に覚醒を促す魂の航路、圧倒的クライマックスへ!(下巻)
  フランスの文化人類学者、マルセル・モースは『贈与論』において、人間のコミュニケーション形態を、「コミュニケーションしない」という一方の極と、「戦う」という他方の極を両極とするその範囲にしかないと説いた。一方は失うものはない代わり、得られるものもなく、他方は得られるものは多いがともすれば全てを失う可能性もある。そこで一般にはコミュニケーションは中庸を取る。すなわち言語や物の「交換」である。
 本書に描かれているコミュニケーションとは、その「交換」と「戦う」の中間形態として位置づけられる。軍事力を持ち、かつ、それを使うぞと言いつつ相手との交渉点を探る。と、そのように考えるならばそれは一つのあり得る正当なコミュニケーションであると言える。コミュニケーションツールとしての軍事力。そのあり方が緻密に描かれているのが本書である。1000ページ以上にも及ぶ長編ながら、一気に読ませる力を持った力作であり、意外などんでん返しも用意された盛り沢山な内容、そして熱い信念に溢れた作品である。特に序章のシーンが終章のシーンに共鳴するさまには唸るしかない。
 それはともかくも、「海洋冒険小説」というのは的外れである。
福井晴敏『終戦のローレライ(I)-(IV)』★★★★★(20120703)

講談社文庫2005
 昭和二十年、日本が滅亡に瀕していた夏。崩壊したナチスドイツからもたらされた戦利潜水艦・伊507が、男たちの、国家の運命をねじ曲げてゆく。五島列島沖に沈む特殊兵器・ローレライとは何か。終戦という歴史の分岐点を駆け抜けた魂の記録が、この国の現在を問い直す。第22回吉川英治文学新人賞受賞。(T巻)
 この国に「あるべき終戦の形」をもたらすと言われる特殊兵器・ローレライを求めて出航した伊507。回収任務に抜擢された少年兵・折笠征人おりかさゆきとは、太平洋の魔女と恐れられたローレライの実像を知る。米潜水艦との息詰まる死闘のさなか、深海に響き渡る魔女の歌声がもたらすのは生か死か。命の凱歌、緊迫の第2巻!(U巻)
 その日、広島は核の業火に包まれた。人類史上類を見ない大量殺戮さつりくの閃光が、日本に定められた敗北の道を歩ませ、「国家としての切腹」を目論もくろむ朝倉大佐の計画を加速させる。彼が望む「あるべき終戦の形」とは? その凄惨な真実が語られる時、伊507乗員たちは言葉を失い、そして決断を迫られた。刮目かつもくの第3巻。(V巻)
 「ローレライは、あなたが望む終戦のためには歌わない」あらゆる絶望と悲憤を乗り越え、伊507は最後の戦闘へおもむく。第三の原子爆弾投下を阻止せよ。孤立無援の状況下、乗員たちはその一戦にすべてを賭けた。そこに守るべき未来があると信じて。今、くり返す混迷の時代に捧げる「終戦」の祈り。畢竟の大作、完結。(W巻)
 『亡国のイージス』が、現代日本における国家と個人の有り様を描いたものであるとすれば、こちらは太平洋戦争末期の国家と個人の有り様を描いた作品である。ただし、こちらは『イージス』とは少々趣を異にしたSF的手法が取られているのが特徴だろう。そして、少女の超能力に核心を置いた物語の展開法は、『機動戦士ガンダム』にヒントを得たものでもある(実際、作者は後にガンダムシリーズに組み入れられるべき作品も書いている)。そうでありながら、骨太の作品に仕上がっているのはさすがという他ない。潜水艦という極限の閉鎖環境に乗り合わせた登場人物の既往歴を基本線として、太平洋戦争という異常事態を浮かび上がらせる様には手練れの技を感じる。また広島に原爆が落ちるシーンの迫力には比類ないものがあり、寒気を覚えるほどである。その一方で、潜水艦の戦闘シーンにも手抜きがなく、その様子が目に見えるような迫力の傑作。余談ではあるが、映画化作品『LORELEI』は、物語において重要な意味を持つラストシーンをなぜか省略したり、これもなぜか主人公の次に重要な人物を省略したりと、小説や漫画を元にした日本映画においてはありがちな「原作の良さを完膚無きまでに徹底的に破壊した作品」であるので注意が必要。
福井晴敏 Op.(オペレーション) ローズダスト(上)/(中)/(下)』★★★★(20090428)

文春文庫2009
都心でネット財閥「アクトグループ」を標的とした連続爆弾テロ事件が発生した。公安の並河警部補は、防衛庁から出向した丹原三曹と調査に乗り出すが……。『亡国のイージス』『終戦のローレライ』など、読者を圧倒し続ける壮大な作品で知られる著者が、現代の東京を舞台に史上最大級のスケールで描く力作長編。 解説・北上次郎(上巻)
並河警部補は、捜査を進めるうちに丹原三曹とテロの実行犯、「ローズダスト」のリーダー入江一功との間にある深い因縁を知る。並河とのふれあいに戸惑いながらも、過去の贖罪のために入江との戦いに没入してゆく丹原。だが日本に変革を促そうとする真の敵は、二人の想像を絶するところで動き出していた。今、日本が戦場と化す!(中巻)
かつて防衛庁の非公開組織に所属していた丹原朋希と入江一功。二人の胸には常に、救えなかった一人の少女の言葉があった。同じ希望を共有しながら、宿命に分かたれた二人。戦場と化した東京・臨海副都心を舞台に、この国の未来を問う壮絶な祭儀が幕を開けた。前代未聞の思索スペクタクル、驚愕の完結篇。 解説・橋爪紳也(下巻)
 スケールは大きくなっているし、軍事ものだし、福井晴敏だし、面白くないわけがない。しかし、作者が同じであるからこれは仕方がないのかもしれないが、盛んに交わされる「国防」論は『亡国のイージス』とそれほど異なるとも思えない。一方で、最終的には「その場所」へ落ち着くしかない主人公の立脚点といったものに、ジャンルは全く異なるのだが、宮部みゆき『模倣犯』を思い出してしまう。おそらくは「個人がいかに世論を制御するか」という点において共通したものがあるからなのだろう。そういう意味ではこれは「大げさな模倣犯」である。いかにも映画映えしそうなシーンの連続で、書き手もそれを「狙って」いるとも思えるスケールである。しかもラストの脱出シーンはまるで『機動戦士ガンダム』なのが、いかにも福井晴敏らしいと言える。ならば『亡国のイージス』や『終戦のローレライ』を超えるエピローグを用意して欲しかった。
福井晴敏『平成関東大震災』★(20100801)

講談社文庫2010

突如として起こった大地震。新宿で震災に直面した平凡なサラリーマン・西谷久太郎は、家族に会いたいが一心で大混乱に陥った首都を横断する。生きていれば必ず道は見つかる。次から次へと襲いかかる災厄を乗り越え、ついに自宅にたどり着いた西谷が手にしたものは――。実用情報も満載したシミュレーション小説。
 今日、日本の地震学者ほど科学者としての存在意義を問われている人々もいないだろう(政府や企業のスポークスマンでしかないことを露呈した「原子力の専門家」を自称する人々を除いて)。過去その地域でどれだけの規模の地震が起こったか、そうした歴史的なデータを、地殻やプレートの物理的なエネルギー状況よりも重視していたのであれば、――そのことは明らかである、でなければ「想定外の地震」という言葉は出てこない上に、これは自らの無能を認める発言でもある――地震学者とは、結局のところ歴史学者でしかなかったのである。「緊急地震速報」に利用されるP波・S波の伝達差の発見は日本における地震学の発展(?)よりも遙か以前のことであろう。ならば日本の地震学者は地震予知に何ら貢献できていない、と言わねばならない。それ以前に上に述べたように歴史資料を重視する点において、彼らが地球物理学者であるかどうかさえあやしい。「地震の予知の研究」と言えば資金は獲得できるだろうが、それは徒に無為徒食の無能な輩を増やすことにしかならない。地震予知など現時点では夢でしかない。
 さて、『平成関東大震災』である。「実用情報」が満載とは言うものの、それは東京に在住している者についての実用情報であって、それ以外の住人にはおよそ役に立たない。その上こうした情報は変化する。ハードカバーは2007年発行であるが、それが3年後に文庫化されたとして、記載されている情報は今でも有効なのだろうか? それはこの書自体の存在意義に関わるはずだ。物語もあまりにあっさりし過ぎていて、福井晴敏が書かねばならない理由も見当たらない。役所に置いているパンフレットを物語にしただけ、という印象で、ならばパンフレットの方が遥かにコンパクトにまとめられているし、何より無料で最新版が手に入る。
福井晴敏『小説・震災後』★★★★★(20130420)

小学館文庫2012
 二〇一一年三月一一日、東日本大震災発生。多くの日本人がそうであるように、東京に住む平凡なサラリーマン・野田圭介の人生もまた一変した。原発事故、錯綜するデマ、希望を失い心の闇に囚われてゆく子どもたち。そして、世間を震撼させる「ある事件」が、震災後の日本に総括を迫るかのごとく野田一家に降りかかる。傷ついた魂たちに再生の道はあるか。祖父・父・息子の三世代が紡ぐ「未来」についての物語――。
 『亡国のイージス』『終戦のローレライ』の人気作家が描く3・11後の人間賛歌。すべての日本人に捧げる必涙の現代長編! (解説 石破茂)
 3・11以降の原発について一時期「脱原発」派と「原発維持」派が激しく対立していた。その対立に終止符を打つべく書かれたと思しき物語。もちろん原発に依るのではなく、かといって太陽光や風力でもない「その方式」は、少し前からSFの分野ではその可能性について繰り返し述べられてきたものである。その構想をわかりやすく説明することが本書の眼目だろう。しかしそれも、制御できないものを抱えながら、嘘に嘘を重ねて原発を稼働させてきた電力会社が、あろうことか今だ「会社」としての組織形態を変わらず維持しつづけている上に、総括原価方式を見直すこともなく、あろうことか料金値上げの暴挙に出る、非人間かつ犯罪的な的組織と、それを保護し続けている政府を丸ごと「整理」した上でのことだという条件を付けたい。したがって、解説の石破茂は解説を書く資格がない。
福田和代
福田和代『TOKYO BLACKOUT』★★(20110818)

創元推理文庫2011

8月24日午後4時、東都電力熊谷支社の鉄塔保守要員一名殺害。午後7時、信濃幹線の鉄塔爆破。午後9時、東北連系線の鉄塔にヘリが衝突、倒壊。さらに鹿島火力発電所・新佐原間の鉄塔倒壊――しかしこれは、真夏の東京が遭遇した悪夢の、まだ序章に過ぎなかった。最後の希望が砕かれたとき、未曾有の大停電が首都を襲う! 目的達成のため暗躍する犯人たち、そして深刻なトラブルに必至に立ち向かう市井の人々の姿を鮮やかに描破した渾身の雄編。気鋭が大きな飛躍を遂げた超弩級のクライシス・ノヴェル!
 まるでノンフィクションのルポルタージュを読むような情緒不足・説明中心の文体により、序盤から終盤まで一定のスピードで物語が「運ばれて」行く、という印象の小説。材料の選択は良いのに調理が役不足といった所か。墓地で三人を襲撃したのは誰だったのか、など回収できていないエピソードも多い。
ベニー松山
ベニー松山『隣り合わせの灰と青春 小説ウィザードリィ』★★★★★(20101031)

JICC出版局1988(集英社スーパーファンタジー文庫1998)
 妖刀村正──ムラマサブレードと呼ばれるこの剣は、現存する最高の剣・カシナートすら遠く及ばぬ強力な破壊力を秘めていると言われる伝説の魔剣である。スカルダが転職の道場でサムライ・マスターに見せてもらった日本刀オサフネと同じく、遙か昔に遠い異国から持ち込まれた数振の中の一本で、妖刀の俗称からも知れる通り敵には死を、そして手にする者には狂気をもたらすという最強の剣であった。(JICC出版局版p68)
 1981年、RPG黎明期に制作され、それと同時にRPGの基本フォーマットをも完成させてしまった奇跡のRPG、『Wizardry』第1作「狂王の試練場」のノヴェライズ。ゲームにおいては殆ど構築されていなかった、というより(海外のゲームにはありがちな話だが)荒削りの土台のままに放り出された冒険の背景も含めて、魔法の解釈やその記述、転職の描写など、作者の『Wizardry』の愛故に、実に緻密かつ骨太な物語が創造されている。念頭に置かれているのは87年ファミリーコンピュータ版『Wizardry』であり、それゆえ登場するモンスターの記述は末弥純の手になるものを踏まえている。物語の鍵を握る登場人物、バルカンが、ゲーム内容と同様のアナグラムであるなどの心憎い演出もある。現在入手困難であるが、古書店で見かけたなら手に入れて損はない。
ベニー松山『風よ。龍に届いているか 小説ウィザードリィU』★★★★★(20101031)

宝島社1994(創土社2002)
 建国以来数千年の歴史を持つリルガミン王国の中心地であり不可侵の聖都として知られる城塞都市リルガミン市。あらゆる外敵を退けるグルニダの杖の魔法城壁に護られたこの都市は、百年前の魔神ダパルプスの反乱を除いては、いつの時代も平和と安全を保証されてきた、最も神に愛された街だった。
 しかし、1年ほど前から王国を襲い始めた天変地異は杖の魔法になんら干渉を受けず、着実にリルガミンを滅亡へと導いていた。原因追及のため賢者達が欲したのは、いかなる真理をも映し出す神話時代の遺産・伝説の神秘の宝珠。そしてそれはリルガミンにほど近い岩山の内部に掘り抜かれた迷宮の最上層、山頂の火山付近に棲む巨龍ル’ケブレスに守られているというのである。
 かくして、魔窟の探索は始まり、かつてワードナの迷宮で活躍した英雄たちの子孫をはじめとする多数の冒険者が名乗りを上げた。
 愛するリルガミンを、そして世界を破滅から救うために──(宝島社版)
 『隣り合わせの灰と青春』に続く『Wizardry』のノヴェライズ。前作の内容に関連させつつ、『Wizardry』第3作「リルガミンの遺産」を中心にして、第2作「ダイヤモンドの騎士」、第5作「災禍の中心」の要素をも取り込んだ大作。とにかく息をもつかせぬストーリー展開と緻密な描写は前作を上回る。読んでみないことにはイメージが掴めないとは思うが、おそらく国産の「剣と魔法のファンタジー」小説では考え得る最高峰。これを越える作品は未だ存在しない。ところで、上記ストーリー紹介は実はゲーム版「リルガミンの遺産」の内容そのものであり、物語は宝珠を手に入れた後から始まる。なお、「グニルダ」は"Gnilda"であり、通例「ニルダ」と表記されるのが正しい。「魔法城壁」も「魔法障壁」の誤植である。
法条遥
法条遥『リライト』★★★★(20130809)

ハヤカワ文庫2013
過去は変わらないはずだった――1992年夏、未来から来たという保彦と出会った中学2年の美雪は、旧校舎崩壊事故から彼を救うため10年後へ跳んだ。2002年夏、作家となった美雪はその経験を元に小説を上梓する。彼と過ごした夏、時を超える薬、突然の別れ……しかしタイムリープ当日になっても10年前の自分は現れない。不審に思い調べるなかで、美雪は記憶と現実の違いに気づき……SF史上最悪のパラドックスを描く第1作
 SF史上最悪かどうかは定かではないが、少なくとも新しい発想であることは確かだろう。そしてSF史上最も「面倒臭い」パラドックスでもある。あとはその「面倒臭さ」を面白いと思えるかどうか、である。手は込んでいるしその発想も「あり」だとは思うのだが、それがSFの肝である「センス・オブ・ワンダー」を醸し出さないのは難点だろう。
星新一
星新一『ボッコちゃん』★★★★(20140306)

新潮文庫1971
スマートなユーモア、ユニークな着想。シャープな風刺にあふれ、光り輝く小宇宙群! 日本SFのパイオニア星新一のショートショート集。表題作品をはじめ『おーい、でてこーい』『殺し屋ですのよ』『月の光』『暑さ』『不眠症』『狙われた星』『冬の蝶』『鏡』『親善キッズ』『マネー・エイジ』『ゆきとどいた生活』『よごれている本』など、とても楽しく、ちょっぴりスリリングな自選50編。
 もはや今となっては古典中の古典。ショートショートの創始者星新一の作品集。再読してみて気付くのは、ページ数にして5,6ページ足らずの物語であり、それゆえに必要なことのみが書かれてていて無駄がない、という先入観とは裏腹に、意外と余裕を持って物語が進行しているということである。その一方で、会話文は妙に現実味がなく、むしろ説明文めいている独特の文体であることにも気付く。夜訪れた見知らぬ侵入者に対して、「ははあ、さては強盗だな」などと言わせるなど、星新一以外に誰にできようか。今となっては先が読める作品もあるが、しかし読んでおいてしかるべき作品群ではある。


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